213.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第24回)(2025.06.21)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
これを【我流】なりに考えてみますと。
【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。
では、この【快楽】はと申せば。
【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。
ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。
ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。
この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。
“【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。
この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。
“【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。
この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。
つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。
ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。
“【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。
であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。
ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。
そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。
実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。
何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。
しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。
これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。
そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。
ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。
この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。
『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。
それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。
つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。
【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。
これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。
要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。
だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。
では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。
私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。
そもそも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。
そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。
ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。
何かと申せば、『【観客】にも“決して【操作】できない【存在】”に向き合ってもらう』ということです。
『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。
つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。
ここで“【物語】という、もう一つの【現実】”というからには、そこに【存在】する【困難】や【課題】は、【住人】である【登場人物】にとっては【相応】に【切実】なものであるはずです。
すると『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が、極めて重い【意味】を帯びます。
何かと申せば、【作者】が【観客】を一個の【人格】として【尊重】するとき、【観客】の中にもまた【登場人物】を一個の【人格】として見る人が現れます。そういう【観客】は、【登場人物】が【直面】する【困難】や【課題】の【切実さ】に応じて、【ストレス状態】に入るのです。
【ストレス状態】があるからには、“【ストレス状態】との【葛藤】”と【解放】があり、すると“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた【存在】することになります。
よって【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があることになります。なので【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生むことになりますね。
この、【期待】と“【動】の【快楽】”の【密接】な【関係】と申せば。
【観客】がまず【作品】に接する【最初】の【段階】では、“【静】の【快楽】”に【期待】を向けがちです。これは【広報】としても【手前味噌】を避ける上で“【静】の【快楽】”が【有利】、という【背景】もあります。
ですがもちろん、【作品冒頭】で“【静】の【快楽】”を満たしてしまっては【物語】が続きません。よって【作品冒頭】では【観客】が“【静】の【快楽】が何らかの形で【欠乏】した【状態】”、つまりある程度の【ストレス状態】に【直面】させられるわけです。
ここで【ストレス状態】があるからには、“【動】の【快楽】”に【出番】が回ります。
【具体的】には『【作品世界】の中に【眼先】の小さな【ストレス状態】を起こし、それを【登場人物】(特に【主人公】)に乗り越えさせて、【小規模】ながら“広義の【カタルシス】”をもたらす』というもの。ここに【作品】の【根幹】(【テーマ】や【表層的】な【設定】など)に深く関わるもの、つまり【広報】などの【事前情報】に【露出】しやすいものを【配置】するわけです。
【我流】で申せば『【作品冒頭】は【作品】の【名刺代わり】』ということになりますね。
すると【観客】の【心理】には、『“【静】の【快楽】の【欠乏】”に対して、【作品】が【充足】を【提供】してくれる』という【信用】・【信頼】が生まれ(やすくな)るのです。
そしてこの【信用】・【信頼】に【快楽】、特に“【動】の【快楽】”としての“広義の【カタルシス】”が【条件付け】されていくことで、【期待】は“【後天的】な【快楽】”になっていくわけです。
ただし『【期待】とは、(【観客】の)【快楽】の【前借り】』です。
ここで“【快楽】の【欠乏】”を含め【ストレス状態】が【借り入れ】の【元本】、この【ストレス状態】の【解消】が【元本分】の【返済】、そして【ストレス状態】の【解消】で生じる“広義の【カタルシス】”が【利息】に【相当】します。
こうして、【作者】(およびその【作品】)と【観客】との間に【貸借関係】が【円満】に【成立】することになります。
私はこれを【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と【認識】しています。これは同時に“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”でもありますね。
ただ実は、こうした【貸借関係】一つだけで、【物語】を保たせられるわけではありません。【貸借関係】を【円満】に回し続けて、【物語】が描くべき【最終目的】、そこにある“【静】の【快楽】”までには遙か遠い【道のり】を、【作者】は描き出すことになります。
そこで【問題】になるのが、【貸借関係】の中にある【ストレス】です。
【物語】を描いていく上で、極めて【重要】なのは『【主人公】の【最終目的】が、【物語】に“【最大】の【ストレス状態】”をもたらす』ということです。でなければ【物語】は【不完全燃焼】、「それよりもっと【大事】なことがあるんじゃないの?」ということにもなりかねません。
その一方で、「【物語】で“【最大】の【ストレス状態】”とか、そんな【状態】に【観客】が耐えられるの?」という【疑問】もごもっとも。
ただ私は『【物語】を描く上で、【ストレス状態】は使いよう』と考えるわけですね。
“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”であるからには、【円満】に【借り入れ】を【返済】したら【実績】に基づいて【信用】が生まれます。
この【信用】は、『【貸借関係】を【発展】させる【可能性】』を【意味】します。ということは【借り入れ】即ち【ストレス】の【規模】を【拡大】させる【可能性】があるわけです。
もちろん【無条件】で、とはいきません。『世の中には、小さな【信用】をでっち上げて【相手】を騙す【詐欺】が【存在】するから』です。
【詐欺】が【存在】するからには、【観客】が【警戒】するのは【当然】というものです。実際【看板倒れ】な【作品】も【存在】しますので。
なので【信用】が【不充分】な【状態】では、【借り入れ】の【規模】は【制限】されるわけです。これは【金銭】だけでなく、【ストレス状態】という【借り入れ】に対しても同様です。
であれば【借り入れ】と【返済】を少しづつ【拡張】していきながら【実績】と【信用】を【積み上げ】る【必要】があるわけです。ただこれは、同時に“【信用】の【借り手】(=【作者】)として【返済】の【実力】を【証明】していく【過程】”ということでもありますね。
では【ストレス】、ただし今度は【観客】の側の【耐性】はと申せば。
実は【信用】を育てたからといって、それだけの【理由】で【観客】の【ストレス耐性】が上がるわけではありません。
ただし【条件付け】で、【ストレス状態】や“【ストレス状態】との【葛藤】”を、後の“広義の【カタルシス】”へ至る“【動】の【快楽】”へ組み込むことは【可能】です。つまりは『【条件付け】で【ストレス状態】を“【期待】という“【動】の【快楽】”へ【変換】している』わけですね。
もちろんこの【条件付け】が【成立】する【環境】にあるのは、『“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を【誠実】に【積み上げ】、【作者】と【作品】が【観客】との間で【信用】・【信頼】を【育てた】、という【事実】』ということになります。
つまりは【信用】・【信頼】を【育てる】【誠実】な【姿勢】が、【観客】の【ストレス耐性】も左右する【鍵】ということになりますね。
これは『【作者】が【誠実】に【信用】・【信頼】を築きつつ、【観客】のことを考えながら【物語】を【展開】していくほど、【観客】も【ストレス状態】を“【期待】という【快楽】”に【変換】して楽しみ、ともに【作品】を盛り上げていく【心理】を抱きやすい』ということです。
そのためには“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を一つ一つ【誠実】にこなしていくしかありません。
ですが【怠け心】で手を抜き【誠実さ】を欠くと、たちまち【面倒】な【事態】へ【発展】します。
【期待】とは“【快楽】の【前借り】”です。それに対して【踏み倒し】を働こうものなら、【観客】が抱く【負の感情】はそれまでの【信用】・【信頼】を吹き飛ばします。のみならず、以後は【作者】に対する【信用】・【信頼】を拒む【理由】にもなるわけです。
その【危うさ】を知る意味では、【不誠実】な【作者】と【作品】に【観客】として【踏み倒し】に遭ってみる【意義】もありましょう。
要は『【誠実】な【姿勢】は【創作】においても効いてくる』ということですね。
【作者】と【作品】の【誠実】な【姿勢】を【大前提】とすれば、です。“【ストレス状態】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”を軸に、“【期待】を【誘導】しやすい【方向性】”というものが【存在】します。
何かと申せば、『【ストレス状態】で【期待】を【前借り】することによって、今度は【観客】の【意識】(ここでは【期待】)をこの“【ストレス状態】の【解消】”へ【誘導】することが【可能】になる』というものです。
元々『【観客】は、【作品】には【登場人物】や【状況】などといった【要素】に関わる【欲求】を巡る“【静】の【快楽】”を求めてやってくる』ことが多いものですが。
【作者】としては、【作品冒頭】に“【動】の【快楽】”、つまり『【ストレス状態】、そこから“【ストレス状態】との【葛藤】”を経て、“広義の【カタルシス】”へ至る一連の【流れ】』を(小なりと)仕込むことができるわけです。
そこで築いた【信用】・【信頼】を【元手】として、【快楽】の【種類】あるいは【方向性】として“【静】の【快楽】”(が満たされる/満たされない)を【配置】し、【時間的変化】でこの【方向性】に沿った“【動】の【快楽】”を【実現】し、【快楽】の【強度】を(【変動】させながら)上げていけばいいことになります。
すると【観客】の【期待】は、繰り返す【貸借関係】によって“【前借り】の【返済】とその【延長線上】”へ【誘導】されていくわけです。それこそ【快楽】の【方向性】(=【要素】の【種類】)でも【強度】でも、です。これで【貸借関係】が【期待】の【誘導】として【機能】することになりますね。
その上で、【誘導】した【期待】に応えるわけですが。
【期待】は、【観客】がその先にある【快楽】を【予想】するからこそ生まれます。ただし【観客】の【期待】は【快楽】、もっと申せば主に“【静】の【快楽】”に関してのものであって、【時間的変化】を捉える“【動】の【快楽】”が【意識】されることは多くないようです。
この点で【象徴的】なのは【属性】と【エモさ】を巡る【認識】でしょう。【圧倒的大多数】の【観客】が語るのは、『ほぼ“【属性】という【始点】”と“【エモさ】という【終点】”だけ』です。【両者】が結び付く“【物語】という【過程】”を深く【認識】し、あまつさえ描き出せるのは【極少数派】なのです。
“【物語】という【過程】”に【心血】を注ぐ【作者】としては、少々寂しい話ではあります。ですが見方を変えれば、ここに【巨大】な【希望】が見えてきます。
ですがこの【希望】の前に、まずその【前提】を【整理】しましょう。
【期待】に応える【前提】として、まず『“【快楽】の【強度】”において【期待】に応えること』は【必須】です。
では“【快楽】の【強度】”はと申せば、【実質的】に『“広義の【カタルシス】”の【前提】となる“【ストレス状態】の【強度】”』が【決め手】になります。
ただ【強度】のこととは言え、【ストレス状態】を含め、【感覚】を【安易】に【パラメータ化】するような【考え方】は、私はお勧めしません。そこに【個性】があり、【思考の自由】がある以上は、覗き見ることも【操作】することもできない(してはならない)からです。
ではどうするか。
【観客】は“【快楽】へ至る【過程】”を【認識】していないことが多いものです。そして同時に、【快楽】の一部は【期待】に応えることでもたらされます。
つまり『【観客】の多くは“【期待】に応える(【快楽】へ至る)までの【過程】”を【認識】していない』ことになります。
例えば【お約束】を含む【見え見えの展開】。【観客】に近い【初心者】の【作者】は、往々にして『【属性】とされる【要素】と【結果】だけ並べて、相応しい【中身】(【過程】)が伴わず【ダダ滑り】』ということがよくあるものです。
これは【初心者】の【作者】が“【動】の【快楽】”を【認識】していないために盛り込めなかった【結果】ですし、また【お約束】など“【静】の【快楽】”【単体】が【提供】できる“【快楽】の【強度】”は、極めて【限定的】ということでもあります。
ここで【見え見えの逆】という【視点】に立ってみると、私の考える【期待】への応え方、その【希望】が見えてきます。
“【見え見えの逆】の【展開】”、つまり『【ストレス状態】があり、【観客】としてその【解消】の【道筋】(=【過程】)を見通せない』という【状態】、これを考えますと。
『【ストレス解消】の【道筋】が見通せない』という、これ自体がまず【観客】には【相応】の【ストレス状態】ということになります。さらに【登場人物】の【満たされていない状態】と合わせ、そこには【二重】の【ストレス状態】が【用意】できるわけで、これは【ストレス状態】の【強度】を上げるにも【調整】するにも【好都合】です。
また“【解消】の【見通し】が立たない【ストレス状態】”は、【観客】に“【ストレス状態】の【解消】の【難しさ】”を印象付けます。
その上で【物語】が、特に【登場人物】が【ストレス状態】を乗り越えたら。「その手があるのか!」と【観客】は【感心】します。つまり【アハ体験】です。
すると、ここでは“【解消】の【道筋】が見通せないことによる【ストレス】の【ブースト】”で“広義の【カタルシス】”が【ブースト】され、さらに【感心】による【アハ体験】が上乗せされて、“【動】の【快楽】”はさらに【ブースト】されることになります。
ここを【整理】して、『(【ストレス状態】の)【解消】の【道筋】(=【過程】)を見通せない【展開】』の【扱い方】を考えてみますと。
『(【ストレス状態】の)【解消】の【道筋】(=【過程】)を見通せない【展開】とその【解決】』は、【観客の多く】が【認識】する“【静】の【快楽】”に三重の【ブースト効果】をもたらします。『【物語構造】由来の【ストレス状態】に対する“広義の【カタルシス】”』、『【道筋】が見通せない【ストレス状態】に対する“広義の【カタルシス】”』、『“【道筋】が見通せない【難しさ】”を乗り越えた【アハ体験】に基づく【快楽】』ですね。
ただここで【必要】なのは、『【観客】が“【ストレス状態】を【解消】する【難しさ】”を【感覚】で【理解】してくれること』です。
そのために【作者】として【提示】すべき【展開】を【整理】すると、『“【ストレス状態】を【解消】する【道筋】が見通せない【状況】”を【用意】し、その【状況】の中で【登場人物】が“【ストレス状態】との【葛藤】”を【展開】し、その後に初めて【ストレス状態】を【解消】する』ということになります。
もちろんこれは【単純】な【説明】で何とかなるものでもありません。あくまでも【観客】の【感覚】で「どうするつもりだ【作者】ァ!」と思っていただく、というわけです。
前回はこの“【道筋】が見通せない【ストレス状態】”について掘り下げてみました。
『(【解消】への)【道筋】が見通せない【ストレス状態】』を狙うからには、【観客】に「どうせ【力押し】で何とかなるんでしょ?」と思われては上手くいくはずもありません。
なので【ストレス状態】を含め、【感覚】を【安易】に(【強弱】の)【パラメータ化】するような【考え方】は、私はお勧めしかねます。この場合、『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】は“まっすぐな【一本道】”にしかならないから』です。
ですが逆に考えれば、『(【解消】への)【道筋】が(【強弱】の)【一本道】に乗っていなければいい』ことになります。【観客】が【解消】の【道筋】の、そもそも【方向】からして読めなければ、そうそう見通せるはずもないのです。
このとき、【観客】は『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】を“【予想】できない”』と【表現】できることになりますね。
今回はここから、あの【有名】な【言葉】を絡めて【考察】して参りましょう。
◇
○【考察】:“【道筋】が見通せない【ストレス状態】”、その【構築】(2)
さて、『【ストレス状態】の【解消】(【乗り越え方】)の【道筋】が、【力押し】つまり“【要素】の【強弱】”で表せる“【一本道】の上になければいい”』ということであれば、です。
ここで、【有名】な【言葉】がありますね。
◇
・【期待】を裏切るな、【予想】を裏切れ
◇
ここまでの【内容】と照らし合わせて【解釈】するなら、『【期待】と“広義の【カタルシス】”との【貸借関係】は裏切るな。“【ストレス状態】を【解消】する【道筋】が見通せない”ように【予想】を裏切れ』ということになるでしょうか。
つまり【展開】に【予想外】(【我流】で申し上げるなら【想定外】)を持ち込めば、『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】が見通せない』という【状況】は作り出しやすいことになります。
例えば『【登場人物】が“【ストレス状態】を【解消】する【道筋】”を【考案】して【実行中】に、【想定外】が入ることで【思惑】が狂う』というような【展開】ですね。なまじ【登場人物】の【用意】した【道筋】が【途中】まで【順調】だったりすると、【想定外】で見通しが狂ったときの【困惑】も大きかったりするものです。
この場合、【当初】の時点で【用意】していた【道筋】というものが、【観客】の【先入観】を【誘導】する【傾向】を持ちます。加えて【登場人物自身】の【困惑】もまた、【観客】の【心理】に【干渉】します。となれば、【観客】の中にも「どうやって立て直せばいいの!?」という【心理】が【成立】しやすい、というわけです。
もちろん「一回で【観客全員】がそういう【心理】にならないのでは?」という【疑念】も、私は【予想】しております。
対する私の【答え】は【単純】、『だから【二転三転】という【展開】が【有効】』ということです。
二度三度と【状況】が引っくり返れば、【観客】もそうそう全てを【先読み】し切れるものではありません。
そうなれば【作者】と【作品】の思うつぼというものです。“読み切れない【先行き不透明感】”も合わせて“【道筋】を見通せない【ストレス状態】”から“【動】の【快楽】”をお楽しみいただけばいい話。
そうなれば、【観客】の皆さんには心の底から「どうするつもりだ【作者】ァ!」と叫んでいただけそうですね。
「どうやって【状況】の【始末】を付けるんだよ!」という【作者】の声も聞こえてきそうですが。
【想定外】には、【想定外】をぶつけるのが【妥当】というものです。ただし【ご都合主義】は全てを【台無し】にしますから、【二転三転】などといわず何転でも引っくり返る【展開】の中で、【登場人物】には【機転】を利かせて【有利】な【材料】を拾って積み上げていただきましょう。その数々が、【解決】の【鍵】になっていくはずです。
もちろん【簡単】とは申しません。ただ、【方向性】として【可能】ではある――ということだけはお伝えしておきます。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
『【期待】を裏切るな、【予想】を裏切れ』という【言葉】は、【観客】の【心理】を『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】を“【予想】できない”』という【状態】に導く上で極めて【有効】です。
この点で【使い勝手】がいいのは、『【想定外】(【予想外】)に【登場人物】を【直面】させること』ですね。【登場人物】には【ストレス状態】を【解消】する【道筋】を思い付き、それを【実行】する【途中】で【想定外】に遭ってもらうわけです。
すると【観客】も【ストレス状態】の【解消】を【期待】しやすく、さらに【想定外】で「どうやって立て直せばいいの!?」という【心理】が【成立】しやすいことになります。
もちろん一回で【観客全員】がそういう【心理】になるとも限りません。だからこその【二転三転】です。【想定外】には【想定外】をぶつけ、【登場人物】には【機転】を利かせてもらって【有利】な【材料】を拾って積み上げていただきましょう。
もちろん【簡単】ではありませんが、この【方向性】は【有望】な道ではあるわけです。
次回はそこで、【予想外】の【構築】について考えてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




