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205.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第16回)(2025.04.26)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。


 【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。


 これを【我流】なりに考えてみますと。


 【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。

 であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。


 では、この【快楽】はと申せば。


 【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。


 ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。

 ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。


 この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。

 “【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。


 この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。


 “【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。


 この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。

 つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。


 ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。


 “【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。

 であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。

 ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。


 そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。


 実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。


 何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。


 しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。

 これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。


 そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。


 ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。


 この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。

 『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。

 それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。


 つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。


 【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。

 これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。


 要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。

 だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。


 では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。

 私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。


 そもそも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。

 そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。


 ならば、ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。

 何かと申せば、『【観客】にも“決して【操作】できない【存在】”に向き合ってもらう』というわけです。


 『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。


 つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。


 ここで“【物語】という、もう一つの【現実】”というからには、そこに【存在】する【困難】や【課題】は、【住人】である【登場人物】にとっては【相応】に【切実】なものであるはずです。


 すると『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が、極めて重い【意味】を帯びます。

 何かと申せば、【作者】が【観客】を一個の【人格】として【尊重】するとき、【観客】の中にもまた【登場人物】を一個の【人格】として見る人が現れます。そういう【観客】は、【登場人物】が【直面】する【困難】や【課題】の【切実さ】に応じて、【ストレス状態】に入るのです。


 【ストレス状態】があるからには、“【ストレス状態】との【葛藤】”と【解放】があり、すると“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた【存在】することになります。


 よって【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があることになります。なので【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生むことになりますね。


 この、【期待】と“【動】の【快楽】”の【密接】な【関係】と申せば。


 【観客】がまず【作品】に接する【最初】の【段階】では、“【静】の【快楽】”に【期待】を向けがちです。これは【広報】としても【手前味噌】を避ける上で“【静】の【快楽】”が【有利】、という【背景】もあります。


 ですがもちろん、【作品冒頭】で“【静】の【快楽】”を満たしてしまっては【物語】が続きません。よって【作品冒頭】では【観客】が“【静】の【快楽】が何らかの形で【欠乏】した【状態】”、つまりある程度の【ストレス状態】に【直面】させられるわけです。


 ここで【ストレス状態】があるからには、“【動】の【快楽】”に【出番】が回ります。

 【具体的】には『【作品世界】の中に【眼先】の小さな【ストレス状態】を起こし、それを【登場人物】(特に【主人公】)に乗り越えさせて、【小規模】ながら“広義の【カタルシス】”をもたらす』というもの。ここに【作品】の【根幹】(【テーマ】や【表層的】な【設定】など)に深く関わるもの、つまり【広報】などの【事前情報】に【露出】しやすいものを【配置】するわけです。


 【我流】で申せば『【作品冒頭】は【作品】の【名刺代わり】』ということになりますね。


 すると【観客】の【心理】には、『“【静】の【快楽】の【欠乏】”に対して、【作品】が【充足】を【提供】してくれる』という【信用】・【信頼】が生まれ(やすくな)るのです。


 そしてこの【信用】・【信頼】に【快楽】、特に“【動】の【快楽】”としての“広義の【カタルシス】”が【条件付け】されていくことで、【期待】は“【後天的】な【快楽】”になっていくわけです。


 ただし『【期待】とは、(【観客】の)【快楽】の【前借り】』です。

 ここで“【快楽】の【欠乏】”を含め【ストレス状態】が【借り入れ】の【元本】、この【ストレス状態】の【解消】が【元本分】の【返済】、そして【ストレス状態】の【解消】で生じる“広義の【カタルシス】”が【利息】に【相当】します。


 こうして、【作者】(およびその【作品】)と【観客】との間に【貸借関係】が【円満】に【成立】することになります。

 私はこれを【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と【認識】しています。これは同時に“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”でもありますね。


 ただ実は、こうした【貸借関係】一つだけで、【物語】を保たせられるわけではありません。【貸借関係】を【円満】に回し続けて、【物語】が描くべき【最終目的】、そこにある“【静】の【快楽】”までには遙か遠い【道のり】を、【作者】は描き出すことになります。


 そこで【問題】になるのが、【貸借関係】の中にある【ストレス】です。

 【物語】を描いていく上で、極めて【重要】なのは『【主人公】の【最終目的】が、【物語】に“【最大】の【ストレス状態】”をもたらす』ということです。でなければ【物語】は【不完全燃焼】、「それよりもっと【大事】なことがあるんじゃないの?」ということにもなりかねません。


 その一方で、「【物語】で“【最大】の【ストレス状態】”とか、そんな【状態】に【観客】が耐えられるの?」という【疑問】もごもっとも。

 ただ私は『【物語】を描く上で、【ストレス状態】は使いよう』と考えるわけですね。


 “【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”であるからには、【円満】に【借り入れ】を【返済】したら【実績】に基づいて【信用】が生まれます。

 この【信用】は、『【貸借関係】を【発展】させる【可能性】』を【意味】します。ということは【借り入れ】即ち【ストレス】の【規模】を【拡大】させる【可能性】があるわけです。

 もちろん【無条件】で、とはいきません。『世の中には、小さな【信用】をでっち上げて【相手】を騙す【詐欺】が【存在】するから』です。


 前回はこの【詐欺】の【存在】を踏まえて、【貸借関係】を【発展】させる【考え方】について、掘り下げてみました。


 【詐欺】が【存在】するからには、【観客】が【警戒】するのは【当然】というものです。実際【看板倒れ】な【作品】も【存在】しますので。

 なので【信用】が【不充分】な【状態】では、【借り入れ】の【規模】は【制限】されるわけです。これは【金銭】だけでなく、【ストレス状態】という【借り入れ】に対しても同様です。

 であれば【借り入れ】と【返済】を少しづつ【拡張】していきながら【実績】と【信用】を【積み上げ】る【必要】があるわけです。ただこれは、同時に“【信用】の【借り手】(=【作者】)として【返済】の【実力】を【証明】していく【過程】”ということでもありますね。


 今回はこれを受けて【ストレス】、ただし今度は【観客】の側の【耐性】について【考察】してみましょう。


 ◇


○【ストレス状態】に対する【耐性】


 と、ここで。

 “【物語】で【最大】の【ストレス状態】”という【表現】に、以下のような【心配】を覚えた方もおいでのことと【推察】します。


 ◇


・【心配】「でも【観客】に【ストレス】をかけるんでしょ? 【信用】があっても【観客】が耐えられないんじゃ?」


 ◇


 確かに、【信用】と“【借り入れ元】(【融資元】)の【貸付余力】”は【別物】です。ただし【金銭】と違って、『“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”は【育てられる】』ものでもあります。


 なぜかと申せば、『“【条件】を整えた【環境】”においては、【観客】の【ストレス耐性】は【向上】するから』です。


 となると、その“【条件】を整えた【環境】”とは何か――というところに【関心】が向きもするでしょう。


 その【背景】にあるのは、【条件付け】です。


 何かと申せば。

 【観客】が【信用】・【信頼】を抱く【環境】(【作品】や【作者】)だからこそ、『【ストレス状態】→“【ストレス状態】との【葛藤】”→“広義の【カタルシス】”』という【流れ】が【観客】の中で【条件付け】として【成立】しているわけです。


 するとここに『“【ストレス状態】との【葛藤】”の【段階】、場合によっては【ストレス状態】の【段階】から、【観客】が“広義の【カタルシス】”を【ゴール】とする“【動】の【快楽】”を覚えるようになる』という【条件付け】が【成立】します。

 これは『【条件付け】により、【観客】の中で、【ストレス状態】が“【期待】という【快楽】”に【変換】されている』と言い換えることもできるでしょう。


 特に【作品内】での【条件付け】は、【直近】で【積み上げ】られていますから、より【強力】かつ【優先的】に【作用】することになります。


 つまり【観客】の【ストレス耐性】が高まるような“【条件】を整えた【環境】”にあるのは、『“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を【誠実】に【積み上げ】、【作者】と【作品】が【観客】との間で【信用】・【信頼】を【育てた】、という【事実】』というわけです。


 これは例えば【ホラー】や【サスペンス】、あるいは【絶叫系アトラクション】といった“強い【ストレス状態】を売りにする【娯楽】(【作品】、【作者】、【ジャンル】)”に対して、【熱心】な【固定ファン】がつく【説明】になります。


 先述のように【信用】・【信頼】に基づいた【条件付け】が【成立】しているなら、【熱心】な【固定ファン】にとっては、【作品】内の【ストレス状態】にしてからがもう“【動】の【快楽】”に【条件付け】されている――というわけです。


 ◇


 さて、今回は一旦ここまで。


 “【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を【発展】させていく上で、です。

 【信用】を育てたからといって、それだけの【理由】で【観客】の【ストレス耐性】が上がるわけではありません。

 ただし【条件付け】で、【ストレス状態】や“【ストレス状態】との【葛藤】”を、後の“広義の【カタルシス】”へ至る“【動】の【快楽】”へ組み込むことは【可能】です。つまりは『【条件付け】で【ストレス状態】を“【期待】という“【動】の【快楽】”へ【変換】している』わけですね。

 もちろんこの【条件付け】が【成立】する【環境】にあるのは、『“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を【誠実】に【積み上げ】、【作者】と【作品】が【観客】との間で【信用】・【信頼】を【育てた】、という【事実】』ということになります。

 つまりは【信用】・【信頼】を【育てる】【誠実】な【姿勢】が、【観客】の【ストレス耐性】も左右する【鍵】ということになりますね。

 次回はこの【誠実】というものに【焦点】を当てて【考察】してみましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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