202.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第13回)(2025.04.05)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
これを【我流】なりに考えてみますと。
【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。
では、この【快楽】はと申せば。
【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。
ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。
ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。
この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。
“【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。
この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。
“【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。
この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。
つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。
ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。
“【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。
であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。
ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。
そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。
実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。
何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。
しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。
これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。
そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。
ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。
この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。
『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。
それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。
つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。
【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。
これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。
要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。
だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。
では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。
私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。
そもそも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。
そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。
ならば、ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。
何かと申せば、『【観客】にも“決して【操作】できない【存在】”に向き合ってもらう』というわけです。
『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。
つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。
ここで“【物語】という、もう一つの【現実】”というからには、そこに【存在】する【困難】や【課題】は、【住人】である【登場人物】にとっては【相応】に【切実】なものであるはずです。
すると『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が、極めて重い【意味】を帯びます。
何かと申せば、【作者】が【観客】を一個の【人格】として【尊重】するとき、【観客】の中にもまた【登場人物】を一個の【人格】として見る人が現れます。そういう【観客】は、【登場人物】が【直面】する【困難】や【課題】の【切実さ】に応じて、【ストレス状態】に入るのです。
【ストレス状態】があるからには、“【ストレス状態】との【葛藤】”と【解放】があり、すると“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた【存在】することになります。
よって【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があることになります。よって【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生むことになりますね。
この、【期待】と“【動】の【快楽】”の【密接】な【関係】と申せば。
【観客】がまず【作品】に接する【最初】の【段階】では、“【静】の【快楽】”に【期待】を向けがちです。これは【広報】としても【手前味噌】を避ける上で“【静】の【快楽】”が【有利】、という【背景】もあります。
ですがもちろん、【作品冒頭】で“【静】の【快楽】”を満たしてしまっては【物語】が続きません。よって【作品冒頭】では【観客】が“【静】の【快楽】が何らかの形で【欠乏】した【状態】”、つまりある程度の【ストレス状態】に【直面】させられるわけです。
ここで【ストレス状態】があるからには、“【動】の【快楽】”に【出番】が回ります。
【具体的】には『【作品世界】の中に【眼先】の小さな【ストレス状態】を起こし、それを【登場人物】(特に【主人公】)に乗り越えさせて、【小規模】ながら“広義の【カタルシス】”をもたらす』というもの。ここに【作品】の【根幹】(【テーマ】や【表層的】な【設定】など)に深く関わるもの、つまり【広報】などの【事前情報】に【露出】しやすいものを【配置】するわけです。
【我流】で申せば『【作品冒頭】は【作品】の【名刺代わり】』ということになりますね。
すると【観客】の【心理】には、『“【静】の【快楽】の【欠乏】”に対して、【作品】が【充足】を【提供】してくれる』という【信用】・【信頼】が生まれ(やすくな)るのです。
前回はこの【信用】・【信頼】から、【期待】について掘り下げてみました。
【我流】で考えるところ、『【作品】における【期待】とは、【観客】が抱える“(【静】と【動】とを問わず)【快楽】の【欠乏】”に対して【作品】が【充足】をもたらしてくれる、という【信用】・【信頼】』というものです。
そしてこの【信用】・【信頼】に【快楽】、特に“【動】の【快楽】”としての“広義の【カタルシス】”が【条件付け】されていくことで、【期待】は“【後天的】な【快楽】”になっていくわけです。
ただし『【期待】とは、(【観客】の)【快楽】の【前借り】』です。
ここで“【快楽】の【欠乏】”を含め【ストレス状態】が【借り入れ】の【元本】、この【ストレス状態】の【解消】が【元本分】の【返済】、そして【ストレス状態】の【解消】で生じる“広義の【カタルシス】”が【利息】に【相当】します。
こうして、【作者】(およびその【作品】)と【観客】との間に【貸借関係】が【円満】に【成立】することになります。
私はこれを【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と【認識】しています。これは同時に“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”でもありますね。
今回はこの【貸借関係】の中にある【ストレス】について【考察】してみましょう。
◇
○【貸借関係】の中にある【ストレス】
さて、【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と、“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”についてお話ししたところで。
もちろん、【作品】つまり【物語】はまだまだ続いていくわけです。よって【物語】が描くべき【最終目的】、そこにある“【静】の【快楽】”までには遙か遠い【道のり】を、【作者】は【物語】として描き出すことになります。
この【道のり】、【作者】が【物語】を描くこと自体については【作者自身】の【問題】です。そこはさておき、今回の【考察】で【大事】にすべきはその【道のり】に付き合ってくれる【観客】の【利益】つまり【快楽】というものでしょう。【作品】に付き合ってもらったことに相応しい【快楽】を【提供】できるか否か、これが【作品】に対する【満足度】に【直結】するわけですから。
そう【認識】を定めた上で、です。このとき【物語】を描いていく上で、極めて【重要】な【事実】があります。
【物語】と【主人公】の【最終目的】は、【作品】に“【最大】の【ストレス状態】”をもたらすものです。と申しますのも、【物語】で“【最大】の【ストレス状態】”が【最終目的】以外のところからもたらされてしまうと、【物語】が【不完全燃焼】に終わってしまうためです。
そのような【不完全燃焼】の【物語】に付き合わされてしまった【観客】の【心理】を【代弁】するなら、「それよりもっと【大事】なことがあるんじゃないの?」というところでしょうか。
これは【観客】から見て『【大事】の前の【小事】だけで【勝手】に盛り上がって【自己完結】してしまう、【器】の小さい【主人公】とその【物語】』になってしまう、というわけです。もちろん『“【最大】の【ストレス状態】”のはずが、【観客】から見て【困難】に映らない』という場合も【同様】です。
では『【主人公】の【最終目的】が、【物語】に“【最大】の【ストレス状態】”をもたらす』という、ここまではいいとして。
こういう【疑問】をお持ちになった方もおいでのことと【推察】します。
◇
・【疑問】「【物語】で“【最大】の【ストレス状態】”とか、そんな【状態】に【観客】が耐えられるの?」
◇
もちろん、『“いきなり”“【最大】の【ストレス状態】”というのは【酷】』と、私は考えます。【無理】に押し通せば、【観客】の【大部分】は【作品】を投げ出すことでしょう。そこは私としても【予想】のうちです。
ただし、以下のような【短絡思考】に付き合うつもりも、私にはありません。
◇
・【短絡思考】「そら見ろ! だから【観客】に【ストレス展開】なんて見せちゃいけないんだ!」
◇
何かと申せば、私は『【物語】を描く上で、【ストレス状態】は使いよう』と考えているのです。つまり『【考えなし】は【自滅】して当然、ただし【使い方次第】で大いに役立つ』というわけです。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”、ひいては“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”を【構築】したとして。
【貸借関係】一つだけで、【物語】を保たせられるわけではありません。【貸借関係】を【円満】に回し続けて、【物語】が描くべき【最終目的】、そこにある“【静】の【快楽】”までには遙か遠い【道のり】を、【作者】は描き出すことになります。
そこで【問題】になるのが、【貸借関係】の中にある【ストレス】です。
【物語】を描いていく上で、極めて【重要】なのは『【主人公】の【最終目的】が、【物語】に“【最大】の【ストレス状態】”をもたらす』ということです。でなければ【物語】は【不完全燃焼】、「それよりもっと【大事】なことがあるんじゃないの?」ということにもなりかねません。
その一方で、「【物語】で“【最大】の【ストレス状態】”とか、そんな【状態】に【観客】が耐えられるの?」という【疑問】もごもっとも。
ただ私は『【物語】を描く上で、【ストレス状態】は使いよう』と考えるわけですね。
次回はこの【ストレス状態】の扱い方について、掘り下げてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




