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201.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第12回)(2025.03.29)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。


 【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。


 これを【我流】なりに考えてみますと。


 【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。

 であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。


 では、この【快楽】はと申せば。


 【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。


 ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。

 ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。


 この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。

 “【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。


 この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。


 “【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。


 この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。

 つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。


 ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。


 “【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。

 であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。

 ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。


 そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。


 実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。


 何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。


 しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。

 これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。


 そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。


 ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。


 この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。

 『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。

 それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。


 つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。


 【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。

 これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。


 要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。

 だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。


 では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。

 私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。


 そもそも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。

 そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。


 ならば、ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。


 何かと申せば、『【観客】にも“決して【操作】できない【存在】”に向き合ってもらう』というわけです。

 『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。


 つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。


 ここで“【物語】という、もう一つの【現実】”というからには、そこに【存在】する【困難】や【課題】は、【住人】である【登場人物】にとっては【相応】に【切実】なものであるはずです。


 すると『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が、極めて重い【意味】を帯びます。

 何かと申せば、【作者】が【観客】を一個の【人格】として【尊重】するとき、【観客】の中にもまた【登場人物】を一個の【人格】として見る人が現れます。そういう【観客】は、【登場人物】が【直面】する【困難】や【課題】の【切実さ】に応じて、【ストレス状態】に入るのです。


 【ストレス状態】があるからには、“【ストレス状態】との【葛藤】”と【解放】があり、すると“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた【存在】することになります。


 よって【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があることになります。よって【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生むことになりますね。


 前回はここから、【期待】と“【動】の【快楽】”の【密接】な【関係】について、掘り下げてみました。


 【観客】がまず【作品】に接する【最初】の【段階】では、“【静】の【快楽】”に【期待】を向けがちです。これは【広報】としても【手前味噌】を避ける上で“【静】の【快楽】”が【有利】、という【背景】もあります。


 ですがもちろん、【作品冒頭】で“【静】の【快楽】”を満たしてしまっては【物語】が続きません。よって【作品冒頭】では【観客】が“【静】の【快楽】が何らかの形で【欠乏】した【状態】”、つまりある程度の【ストレス状態】に【直面】させられるわけです。


 ここで【ストレス状態】があるからには、“【動】の【快楽】”に【出番】が回ります。


 【具体的】には『【作品世界】の中に【眼先】の小さな【ストレス状態】を起こし、それを【登場人物】(特に【主人公】)に乗り越えさせて、【小規模】ながら“広義の【カタルシス】”をもたらす』というもの。ここに【作品】の【根幹】(【テーマ】や【表層的】な【設定】など)に深く関わるもの、つまり【広報】などの【事前情報】に【露出】しやすいものを【配置】するわけです。


 【我流】で申せば『【作品冒頭】は【作品】の【名刺代わり】』ということになりますね。


 すると【観客】の【心理】には、『“【静】の【快楽】の【欠乏】”に対して、【作品】が【充足】を【提供】してくれる』という【信用】・【信頼】が生まれ(やすくな)るのです。


 今回はこの【信用】・【信頼】から、【期待】について掘り下げてみましょう。


 ◇


○【関係性】:【期待】と“【動】の【快楽】”(2)


 私の考えるところ、この【信用】・【信頼】こそが【作品】における【期待】の【正体】です。


 【厳密】には『【作品】における【期待】とは、【観客】が抱える“(【静】と【動】とを問わず)【快楽】の【欠乏】”に対して【作品】が【充足】をもたらしてくれる、という【信用】・【信頼】』ということになります。

 そしてこの【信用】・【信頼】に【条件付け】が【作用】することによって、【ジェット・コースタ】に乗り込んだ時のような【高揚感】さながらの“【期待】という【後天的】な【快楽】”という【性質】も備わり始めます。


 【我流】なりに言い方を換えれば、こういうことになります。


 ◇


・【期待】とは、(【観客】の)【快楽】の【前借り】


 ◇


 ただし【期待】が(【観客】の)【快楽】の【前借り】であるからには、【作者】と【作品】は【快楽】を【観客】へ【返済】しなければなりません。しかももちろん【利息】を付けて。


 そこで【作品】が“【快楽】の【欠乏】”という【ストレス状態】から、“【ストレス状態】との【葛藤】”を経て、【観客】を“広義の【カタルシス】”へ導いたなら、さてどうでしょう。【ストレス状態】が【解消】されたことで【期待】の【前借り】に【相当】する“【快楽】の【欠乏】”は(その時の【ストレス状態】に応じて)【解消】(【前借り】に対して【返済】)されることになりますね。


 そしてここで【重要】なのは、“【動】の【快楽】”の【潜在能力】です。もちろん【作者】の【技巧】次第のところはありますが、“広義の【カタルシス】”は単に“【快楽】の【欠乏】”を【充足】するに余りある【快楽】を【提供】します。そうして単なる【充足】を超えた分の【快楽】が、(上手くすれば“【静】の【快楽】”による分を大きく上回って)【利息】として【機能】するわけです。


 こうして、【作者】(およびその【作品】)と【観客】との間に【貸借関係】が【円満】に【成立】することになります。


 【作者】から観れば【期待】が【快楽】の【前借り】つまり【借り入れ】、“【快楽】の【欠乏】(=【ストレス状態】)”とその【解消】がそれぞれ【借り入れ】の【元本】とその【返済】に【相当】するわけです。そして【ストレス状態】を【解消】することで生まれる“広義の【カタルシス】”、つまり“【動】の【快楽】”はほぼ丸々【利息】というわけです。


 私はこれを【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と【認識】しています。これは同時に“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”でもありますね。


 ◇


 さて、今回は一旦ここまで。


 【我流】で考えるところ、『【作品】における【期待】とは、【観客】が抱える“(【静】と【動】とを問わず)【快楽】の【欠乏】”に対して【作品】が【充足】をもたらしてくれる、という【信用】・【信頼】』というものです。

 そしてこの【信用】・【信頼】に【快楽】、特に“【動】の【快楽】”としての“広義の【カタルシス】”が【条件付け】されていくことで、【期待】は“【後天的】な【快楽】”になっていくわけです。


 ただし『【期待】とは、(【観客】の)【快楽】の【前借り】』です。

 ここで“【快楽】の【欠乏】”を含め【ストレス状態】が【借り入れ】の【元本】、この【ストレス状態】の【解消】が【元本分】の【返済】、そして【ストレス状態】の【解消】で生じる“広義の【カタルシス】”が【利息】に【相当】します。


 こうして、【作者】(およびその【作品】)と【観客】との間に【貸借関係】が【円満】に【成立】することになります。

 私はこれを【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と【認識】しています。これは同時に“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”でもありますね。


 次回はこの【貸借関係】の中にある【ストレス】について【考察】してみましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
いろいろな考え方があって良いかな 本人なはベストでも 傍から見るとベターかめ いろいろな解釈も出来ますね ( ・∀・)イイ!!
 大変、ご無沙汰しております。  今回の考察、興味深く拝読させていただきました。 「予想は裏切っても、期待は裏切るな」というのは、外に向かって発信し、評価を求める表現者にとっては絶対的な課題の一つで…
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