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199.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第10回)(2025.03.15)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。


 【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。


 これを【我流】なりに考えてみますと。


 【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。

 であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。


 では、この【快楽】はと申せば。


 【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。


 ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。

 ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。


 この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。

 “【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。


 この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。


 “【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。


 この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。

 つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。


 ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。


 “【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。

 であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。

 ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。


 そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。


 実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。


 何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。


 しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。

 これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。


 そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。


 ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。


 この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。

 『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。

 それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。


 つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。


 【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。

 これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。


 要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。

 だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。


 では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。

 私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。


 前回は、この『やりようはある』という【考え方】を掘り下げてみました。


 そもそも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。

 そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。


 ならば、ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。


 何かと申せば、『【観客】にも“決して【操作】できない【存在】”に向き合ってもらう』というわけです。

 『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。


 つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。


 今回はここから、【期待】を“【動】の【快楽】”へ導いていく【考え方】を【考察】してみましょう。


 ◇


○【期待】を【裏切らない】ための【考え方】(2)


 さて、ここで。

 『【観客】に“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というからには、【物語】には【困難】や【課題】の【存在】は【必須】です。しかも【登場人物】にとって【相応】に【切実】なものが。


 ただし【要注意】。

 私は『【登場人物】にとって【相応】に【切実】』と【表現】しました。なぜなら『もう一つの【現実】』とは【作品世界】における【登場人物】たちのものだからです。【観客】のものでも【作者】のものでもありません。


 【詳細】はさておき、ここでは『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が極めて重い【意味】を帯びます。


 人は【他人】の【思考】を覗き見ることはできません。また【他人】の【価値観】が【自分】のものと【完全一致】することもあり得ません。

 従って【作品】という【物語】の中で、一個の確たる【人格】が【相応】に【切実】な【課題】や【困難】に【直面】して困っているなら、それは『“【物語】という、もう一つの【現実】”とそこに生きる【登場人物】たちにとっては、【相応】に【切実】な【問題】』なのです。これは【他人】である【観客】からは動かせないものです。


 そして【作者】が【思考の自由】を【尊重】するとき、【観客】の中にも【思考の自由】を【尊重】する人が現れます。こういった【観客】が、【登場人物】つまり【人格】の【切実さ】を【認識】してくれるわけです。

 もちろんそうでない【観客】もいるのですが、そもそも【作品】を楽しみに来てくれているならば【問題】はそれほど大きくはならないはずです。

 ただしもちろん、【作者】が【観客】の【思考の自由】を【尊重】するのが【大前提】ですけれども。


 さて、【観客】が【登場人物】の【切実さ】を【認識】してくれたならば、何が起こるか。


 実は【切実】な【困難】や【課題】に【直面】するとき、【人格】は【ストレス状態】に入ります。もちろんその【ストレス】は、【切実さ】に応じて強くなります。


 これは、その【状態】を観ている【人格】(つまり【観客】)にとっても【基本的】に【同様】です。

 もちろん【他人事】ではありますから、【ストレス】は【相応】に【軽減】されますし、【感情移入】の【程度】にもよるのですが、【ストレス状態】に入ること自体に変わりはありません。


 と、ここでお気付きの方もおいででしょう。

 【ストレス状態】があるということは、同時に“【ストレス状態】との【葛藤】”と、同じく【解放】を経て“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた、【存在】することになります。


 つまりは“【動】の【快楽】”とその【時間的変化】が、【快楽】へ繋がる【期待】の扱いに絡んでくるわけですね。【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があるわけです。


 そして【密接】な【関係】があるからには、もちろん【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生みやすいことになります。


 なのでここは『【期待】と“【動】の【快楽】”が【密接】な【関係】を持つ』という【事実】を【確認】した上で、【両者】の【関係】というものを掘り下げてみましょう。


 ◇


 さて、今回は一旦ここまで。


 “【物語】という、もう一つの【現実】”であるからには、そこに【存在】する【困難】や【課題】は、【住人】である【登場人物】にとっては【相応】に【切実】なものであるはずです。

 ここで『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が、極めて重い【意味】を帯びます。

 何かと申せば、【作者】が【観客】を一個の【人格】として【尊重】するとき、【観客】の中にもまた【登場人物】を一個の【人格】として見る人が現れます。そういう【観客】は、【登場人物】が【直面】する【困難】や【課題】の【切実さ】に応じて、【ストレス状態】に入るのです。

 【ストレス状態】があるからには、“【ストレス状態】との【葛藤】”と【解放】があり、すると“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた【存在】することになります。

 よって【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があることになります。よって【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生むことになりますね。


 次回は【期待】と“【動】の【快楽】”の【密接】な【関係】について、掘り下げて参りましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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