198.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第9回)(2025.03.08)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。
【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。
これを【我流】なりに考えてみますと。
【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。
であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。
では、この【快楽】はと申せば。
【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。
ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。
ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。
この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。
“【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。
この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。
“【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。
この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。
つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。
ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。
“【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。
であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。
ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。
そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。
実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。
何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】されるようになる――ということです。
しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こっていくことになりますね。
これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。
そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。
ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。
この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。
『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。
それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが。
これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということにもなります。
つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。
前回はこの続き、【期待】を【裏切る】ことの【重み】について掘り下げてみました。
【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。
これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。
要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。
だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。
では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。
私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。
今回は、その【考え方】を掘り下げてみましょう。
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○【期待】を【裏切らない】ための【考え方】(1)
さて、私はここまで“【期待】を【裏切る】【リスク】”についてお話ししてきました。また【他人】の【感情】を弄ぶ【罪深さ】についても、さらには【観客】が抱く【期待】そのものは【曖昧】で、【高精度】に報いようにも極めて【困難】であることも。
ただし、【我流】なりに『やりようはある』とも捉えております。
もちろん【簡単】とは申しません。同時にこれが【唯一】とも【絶対】とも申しません。
以下はただ【有望】と私が捉える【やり方】という、ただそれだけです。それだけですが、私は私なりに【希望】と捉えているものです。
そのために、まず【大前提】があります。
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・【大前提】:【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない
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要は『【観客】の【思考の自由】を【尊重】する』わけですが、裏を返すと『【観客】に【特定】の【思考】を【強要】してはならない』ということです。
もちろん、【反発】は私としても【予想】のうちです。
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・【反発】「【観客】に【自由】に【思考】させたりしたら、【期待】を持たせることも応えることもできないじゃないか!」
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ただし私としては、ここで申し上げておくべきことがあります。
“【思考の自由】に対する【侵略】”というものに【巨大】な【リスク】があるのは(私が常より【言及】していることなので)【当然】として、私はむしろ『【作者】が【観客】の【思考の自由】に【干渉】しないからこその【突破口】がある』――と、そう踏んでいるのです。
ここで、【固定観念】の裏を行きましょう。
【観客】には【自由】に感じ、【自由】に【思考】してもらいます。いかなる【思考】も、それは【観客】の【内面】から【自然】に湧き上がったものです。決して【外部】からの【操作】によるものではありません。
その上で、です。
【作者】が【観客】に【提示】するものは、ただし『【観客】から決して【操作】できない【存在】』です。
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1.一個の確たる【人格】としての【登場人物】
2.【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】
3.【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】
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『これらの【存在】が【物語】の【構成要素】として、【説得力】を示しつつ【密接】に絡み合う』という【要件】については、ここでは【当然】のものと扱うこととして【詳細】を語りません。
【重要】なのは、『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』ということです。
つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。
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さて、今回は一旦ここまで。
そも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。
そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。
ならば、ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。
何かと申せば、『【観客】にも、決して【操作】できない【存在】に向き合ってもらう』というわけです。
『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。
つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。
次回はここから、【期待】を“【動】の【快楽】”へ導いていく【考え方】を【考察】してみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




