162.押す【表現】、引く【理解】(第5回)(2024.06.08)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。
「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、同時に「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。
つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。
ということは、【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。
あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。
【自分自身】を振り返ってみるなら、『【興味】や“【理解】の【意志】”が育つという【現象】は、【自由意志】に基づき、【自然発生】的にしか起こらない』という【事実】が見えてきます。
そして【自由意志】は個々人の【個性】と【価値観】にのみ基づいて生じます。
ということは、つまり『【興味】や“【理解】の【意志】”は外からは【制御】できない』わけです。よって【作者】や【作品】として【理解】を求めるなら、『【興味】や”【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】のところへ行って、寄り添う』しか【方法】はないことになります。
ここでもし逆の【観客】までも取り込もうとするなら、その時はせっかく【興味】を持ってくれた【観客】から、【興味】も“【理解】の【意志】”も削っていくことになりかねない――というわけですね。
前回はこれら【事実】を元に、【理解】と【表現】の【関係】に【考察】を巡らせてみました。
確かに【表現】は、【観客】の【視界】へ押し出さなければ届きません。これ自体は【事実】です。
ただし一方で、『【理解】とは、【観客】の中に予め【存在】する“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すもの』、これもまた【事実】です。
であれば『【表現】は押し出すもの、【理解】は引き出すもの』と【イメージ】してみれば、腑に落ちるところもありましょう。
つまり【表現】を押し出すこと自体は【必須】ですが、一方で【理解】を引き出すという【繊細】な【作業】のためには、【表現】の押し出し方もまた【繊細】にならざるを得ない――というわけです。
【目的】はあくまで“【理解】を引き出すこと”と捉えれば、自ずと【優先順位】は定まるというものですね。
そこで今回は、【理解】されるための【表現】について【考察】を巡らせてみましょう。
◇
○【考察】:【理解】されるための【表現】
さて。
改めて【確認】しますが、『【表現】は【観客】の【視界】へ押し出さなければ【認識】もされない』、これ自体は【事実】です。
ただし同時に、『【理解】は【観客】が【自発的】に【合意】せずして【成立】しない』、これもまた【事実】です。
ゆえに【作者】から見れば、『【理解】とは、【観客自身】の【合意】と【協力】を得て引き出すもの』。言うなれば『【表現】は、【作者】と【観客】の【コラボレーション体験】』ということになりますね。
ここで、【作者】としての【目的】はあくまでも“【理解】を引き出すこと”です。その【目的】が“引き出すこと”であるのに、【手段】としての“【表現】を押し出す【力】”が強すぎたり、あるいは乱雑にすぎたりすれば、さてどうでしょうか。“押す【力】という【手段】”が“引くという【目的】”を【邪魔】するであろうこと、【想像】に難くありませんね。
【イメージ】としては、押し出す【力】を込めすぎて【観客】の【心理】を遠ざけてしまえば、そこから引き寄せるのに【支障】をきたすのも【当然】――というところです。
つまりは『【観客】の【理解】を引き出す上では、“【表現】を押し出す【力】”は弱い方が【好都合】』ということになります。もちろんこの【力】には【繊細】な【制御】が【必要】ですから、その点からしても『【力】は弱い方が【好都合】』という考え方は【説得力】を帯びることになりますね。
ここで“【作者】が【表現】を押し出す【力】”の【構成要素】として、私は“【作者】の【主観】の強さ”を挙げます。【言語化】を試みるなら、“【作者】が【表現】の【表層】に込める「こう思って!」という【意志】の強さ”というところでしょうか。
実際のところ、【作者】が【表現】の【解釈】を指定したくなる――という【心理】は、私としても【理解】できないわけではありません。『驚くべきことに』であるとか『絶対に~でなければならない』であるとか、【登場人物】の【主観】でもないのに(あるいは【作者】が【講談調】で語りかけるような【作風】でもないのに)【観客】の【心理】を【断定】するような【記述】がなされている【事例】は少なからず見かけるものです。【観客】としての私は『これは【観客】の【解釈】を指定したいのだろうな』と受け取っておりますが、つまりこれは【作者】が「こう思って!」と【表現】の【表層】で叫んでしまっているわけです。
しかし一方で、【表現】を受け止めるのはあくまでも【観客】です。【観客】が一個の【独立】した【人格】の持ち主である以上、『その【心理】を思い通りに操ろうとすること』は“【思考の自由】に対する【侵略】”である、という【事実】に違いはありません。【作者】の【都合】など、【観客】からすればお呼びではないのです。
では――ということを考えるに。
【力】の【形】や【在処】を【工夫】すれば――という考えは、少なくとも一手ではあるはずです。『“【表現】を押し出す【力】”を込めてはいけない、というわけではない』のですから。
そうすると、『【表現】として押し出すのに向く【形】』というものが【存在】するであろうこと、ここに改めて【意識】が至ります。これは【観客】としての【自分】を振り返るに、上手く【理解】を引き出された【表現】が間違いなく【存在】するからです。
そうやって振り返るに、私には思い至るところがあります。『【表現】として押し出すのに向く【形】』、少なくともその一つは、『【作者】は【力】(【主観】)を込めずに押し出せる一方で、【観客】としては【拒否】できない【存在感】を備えるもの』です。
「実際にそんなものが【存在】するの?」という【疑問】は、私としても【予測】するところです。
私が思い当たるのは、“【現実】そのものの一部を用いた【表現】”ですね。【現実】そのものに“【作者】の【主観】”は【存在】しませんし、よって【作者】の【力】もまた【存在】しません。そして同時に、【現実】そのものの【存在感】を【拒否】できる人もやはり【存在】しないのです。
では実際の【表現】としては。
“【現実】そのもの”では、もちろん【無理】も色々ありましょう。ですが、“【現実】の【シミュレーション】”ならば【作者】として扱いきれないわけでもありません。
そう考えてみれば、『【観客】の【理解】を引き出す上で向いている【表現】の【形】として、少なくとも“【現実】の【シミュレーション】”を挙げることはできる』とまでは言えそうですね。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【観客】へ向けて【表現】を押し出すに、その【力】は弱く済ませるに越したことはありません。
ただ一方で、私が【観客】として上手く【理解】を引き出された【表現】があることも確かです。
少なくともその一例は“【現実】そのものの一部”です。
これなら【観客】も【理解】を【拒否】できない【存在感】を備えていますし、【作者】としても押し出す【力】を込めずに済みます。もちろん“【現実】そのもの”では【表現】としての扱いに【難】を抱えますから、【表現】の【形】としては“【現実】の【シミュレーション】”というところが挙げられそうです。
次回はこの“【現実】の【シミュレーション】”という【表現】の【形】について掘り下げてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




