161.押す【表現】、引く【理解】(第4回)(2024.06.01)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【表現】が【意図】した通りに【理解】されない……』という【お悩み】について【考察】を巡らせております。
「【理解】されたい!」という【願望】は誰しも持つものですが、同時に「【押し付け】なんてまっぴらご免だ」という【意志】もまた同様でありましょう。
ここで“【無理解】の【意志】”というものの【存在】は明らかですが、同時に『好んで【理解】したくなるもの』が【存在】するのもまた【事実】。
つまり“【理解】の【意志】”の【存在】も明らかですが、これらは元々【別個】の【存在】です。ただし【押し付け】のような“【思考の自由】に対する【侵略】”が“【理解】の【意志】”を削り、同時に“【無理解】の【意志】”を育ててしまうであろうこと、これは【ご理解】いただきやすいものと考えます。
ということは、【観客】に【理解】を求める上では、“【理解】の【意志】”を知らねば始まりません。
あくまでも、“【理解】の【意志】”は“【観客自身】の【自由意志】”によるものです。これを【尊重】せず【押し付け】を試みるなら、【作者】は“【思考の自由】に対する【侵略】”に出たことになり、むしろ“【無理解】の【意志】”を育ててしまうことになります。
ならば【作者】として真っ先に【認識】すべきは、【観客】の【個性】を認め、その【人格】と【思考の自由】を【尊重】すること――ということになりますね。
その上で、前回は“【理解】の【意志】”が育つ【条件】を【考察】してみました。
【自分自身】を振り返ってみるなら、『【興味】や“【理解】の【意志】”が育つという【現象】は、【自由意志】に基づき、【自然発生】的にしか起こらない』という【事実】が見えてきます。
そして【自由意志】は個々人の【個性】と【価値観】にのみ基づいて生じます。
ということは、つまり『【興味】や“【理解】の【意志】”は外から【制御】できない』わけです。よって【作者】や【作品】として【理解】を求めるなら、『【興味】や”【理解】の【意志】”を持ってくれる【観客】のところへ行って、寄り添う』しか【方法】はないわけです。
もし逆の【観客】までも取り込もうとするなら、その時はせっかく【興味】を持ってくれた【観客】から、【興味】も“【理解】の【意志】”も削っていくことになりかねない――というわけですね。
今回はこれら【事実】を元に、【理解】と【表現】の【関係】に【考察】を巡らせてみましょう。
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○押す【表現】、引く【理解】
ここで、私としては【予測】する【主張】があります。
・【主張】:そんな【消極姿勢】では、【観客】に【表現】が届かない!
確かに【表現】は、【観客】の【視界】へ押し出さなければ届きません。これ自体は【事実】です。
ただし一方で、『【理解】とは、【観客】の中に予め【存在】する“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すもの』、これもまた【事実】です。
よくよく考えてみて下さい。
そもそも【観客】の中に【存在】してもいない【理解】は、引き出しようがありません。かといって【押し付け】などで“【思考の自由】に対する【侵略】”を働けば、今度は【理解】の源である“【理解】の【意志】”を【作者】自ら削ることになるわけです。のみならず“【無理解】の【意志】”を育て、【将来】に渡って【理解】の源を封じることにすらなりかねません。
つまり【理解】とは、【観客】の“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すものですが、それ以前に“【理解】の【意志】”を削って涸らしてしまっては、それこそ元も子もないわけです。
即ち、『【作者】から【観客】へ【表現】を押し出すのは【必須】ではあれ、そのためには【観客】へ寄り添いつつ【理解】を引き出す【繊細】な【作業】が【必要不可欠】であって、これを【邪魔】してしまうのは【下策】』ということになります。
ここで【イメージ】を【ご提示】するなら、こういうことです。
・【イメージ】:【表現】は押し出すもの、【理解】は引き出すもの
『【観客】から【理解】を引き出す』という【目的】のために、『【観客】の【視界】へ【表現】を押し出す』という【手段】そのものは【必須】です。ですが、かといって押し出し方が【雑】だったり【力任せ】だったりしては、今度は【理解】を引き出すという【繊細】な【作業】に【支障】をきたすことになる――という、これは考え方ですね。あくまでも【目的】は“【理解】を引き出すこと”であって、“【表現】を押し出すこと”はそのための【手段】でしかありません。【手段】のために【目的】を忘れるなら、その時は何が起こるか【自明】というものでありましょう。
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さて、今回は一旦ここまで。
確かに【表現】は、【観客】の【視界】へ押し出さなければ届きません。これ自体は【事実】です。
ただし一方で、『【理解】とは、【観客】の中に予め【存在】する“【理解】の【意志】”から【慎重】に引き出すもの』、これもまた【事実】です。
であれば『【表現】は押し出すもの、【理解】は引き出すもの』と【イメージ】してみれば、腑に落ちるところもありましょう。
つまり【表現】を押し出すこと自体は【必須】ですが、一方で【理解】を引き出すという【繊細】な【作業】のためには、【表現】の押し出し方もまた【繊細】にならざるを得ない――というわけです。
【目的】はあくまで“【理解】を引き出すこと”と捉えれば、自ずと【優先順位】は定まるというものですね。
そこで次回は、【理解】されるための【表現】について【考察】を巡らせてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




