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153.【自己満足】と【シラケ性】(第5回)(2024.03.30)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。


『それって単なる【自己満足】じゃない?』


 この【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。【自己満足】とともに、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりません。

 ですが、【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。


 ならば、ものは使いよう。

 実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。

 つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。


 【自分】の【シラケ性】と向き合うには、【反論】を用意するのが大変【有効】です。ただし、【反論】自体は【論理】でかつ【厳選】するのが望ましいところです。

 実は【安易】や【短絡】で【ゴリ押し】に走る、“【好評価】を【観客】から【強奪】する【姿勢】”は、【逆】に【自分】と【観客】の【シラケ性】を【誘発】する【結果】を招きますので。


 ということで、前回は望ましい【姿勢】、つまり“【観客】の【心理】に向き合う【姿勢】”について掘り下げてみました。


 【他者満足】も含め、“【シラケ性】に対する【反論】”として【必要】なのは“【観客】を【人格】として【尊重】する【姿勢】”です。【人格】を【尊重】されずして【満足】は生まれませんから。


 【ゴリ押し】は【作者】の【情動】から生まれます。【情動】は【論理】たり得ず、従って“【シラケ性】に対する【反論】”にもなり得ません。【反論】であるためには、【論理】であることが【必須】です。


 【論理的】な【根拠】を持ち、かつ【観客】の【人格】と【心理】を【尊重】した上で「どうぞお好きなように感じて下さい。【作者】が【確信】する【良さ】は、【論理的】に揺るぎませんから」というわけです。


 では、どうやって――という点について、今回はお話しいたしましょう。


 ◇


○【論理的】に表す【心理】


 ここで、私としても【予想】する【反発】があります。


「【論理】(【客観】含む)だけで【心理】を動かせるはずがない!」


 ですが、落ち着いてよく考えてみて下さい。

 【文字】も【単語】も、果ては【文章】自体も、“【論理】の【存在】”です。いかに【感動】を呼ぶ【名作】であろうと、【表層】はこれら“【論理】の【集合体】”でしかありません。


 では【名作】の【作中】に、【観客】の【心理】や【情動】に訴えるものが【存在】しないのかと申せば――とんでもない。【観客】の【心理】や【情動】に訴えるものは、“【論理】の【存在】”が表す【背景】、つまりは“【深層】の【表現】”にこそ【明確】に【存在】しています。


 【我流】で捉えるところ、【心理】や【情動】というものは“【論理】の【組み合わせ】”、もっと申せば“【論理】の【流れ】”によって【表現】し得るものです――ただし“【深層】の【表現】”、つまりは【間接表現】としてですが。

 例えば『【登場人物】の【言動】や【表情】の移り変わりが、【登場人物】の【心理】や【情動】の移ろいを【反映】している』というように。


 この際に【表現】として行われているのは、『【表層】の【論理的事実群】とその【流れ】をもって、【背景】にある【心理】や【情動】とその【流れ】を、【行間】に込める形で【間接表現】として表す』ということです。


 誰であれ【心理】や【情動】を、眼で【直接】に【確認】することはできません。実際【現実】において、『【他人】の【心理】や【情動】は【外観】から観えず、【推測】するしかない』のですから。

 つまり『【外観】に現れる【論理的事実群】を用いて、【背景】あるいは【深層】にある【心理】や【情動】を【表現】することは、【不完全】ではあれ【現実】並みに【可能】』ということになります。


 この一事が示しているのは、『“【小説】という【存在】に【没入】する人々”の【存在】そのものが、“【論理】の【並び】”である【文章】、“【文章】の【並び】”である【物語】で、【登場人物】の【心理】や【情動】を【表現】すること、さらには【観客】の【心理】や【情動】に訴えること、いずれも【可能】であることを【証明】している』という【事実】です。


 実際に【観客】または【作者】、いずれの【立場】であれ、こう感じたことはないでしょうか――『【小説】という“【論理】の【並び】である【表現形態】”でありながら、【登場人物】の【心理】や【情動】を感じた、または【観客】の【心理】や【情動】に【反応】があった』と。


 こう感じたことのある人は【自動的】に、『“【論理】の【並び】”で、【心理】や【情動】を表す【表現】、【観客】の【心理】や【情動】に訴える【表現】を【構築】できる【可能性】、というものが【存在】する』という【事実】の【証拠】を得たことになるわけです。


 仮にこの【事実】を認めないなら、そもそもその人は『【小説】をはじめ、“【文章】で【心理】や【情動】を表す【表現】や、【観客】の【心理】や【情動】に訴える【表現】”に関しては、【観客】としても【作者】としても【可能性】を持たない』ということになります。つまりその人は『そもそも【小説】という【表現】に【適性】を持たない』というわけです。であるならば、『【小説】という【表現】において、その人の言に耳を傾ける【理由】は、【論理的】に一切【存在】しない』ということになりますね。


 ◇


 さて、今回は一旦ここまで。


 【現実】に【他人】の【心理】をどう感じ取るか――と考えてみれば、実は『【他人】の【情動】は、【論理的事実群】やその【流れ】から、その【背景】として読み取るしかない』と判ります。

 つまり【現実】を模する形であれば、『【論理】を用いた【間接表現】として【情動】を表すことは【可能】』なわけです。


 これは【文章】という【論理的表現】で、【心理】や【情動】に【影響】を受けたことがあれば、その【事実】こそが動かぬ【証拠】ということになりますね。


 次回は、こういった【論理的表現】と【心理】の間にある【関係性】を掘り下げてみましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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