三十八話
「ししょー」
地元に戻ってきて4日目の夜。私は師匠の部屋を訪ねた。昼間はエルくんたちを扱いている師匠もこの夜更けには自室にいるはずだ。いなかったらたぶん広間。
師匠は部屋の中にいた。上半身裸で何か書類を読んでいる。
「ノックしたことは褒める。次は返事を聞いてから部屋の中に入れよ」
「何読んでるんですか?」
「少将から届いた書類」
風呂上がりらしい師匠の髪はまだ少しばかり濡れている。それを乱暴にタオルで拭きながらも師匠は書類から目を離さない。この人の体力はどうなっているんだろう。
師匠は色々あって軍を辞めてはいるが、今回のように時たま少将から何か頼まれごとをすることがある。そんな頻度は高くないけど。
「師匠、髪拭きますよ」
「ん? あぁ、悪いな」
師匠の後ろに立ち、タオルを受け取って師匠の髪を拭う。師匠は私よりも結構背が高いので背伸びをしないと届かない。しゃがめよ師匠。
なんとか師匠の頭を拭いているとふと師匠の背中にある無数の傷が目に入った。
師匠の身体には数え切れないほどの傷がある。
以前エルくんが話していたように師匠は類稀なる運動神経と戦闘のセンスを持っているため、常人よりも戦闘に秀でている。だから師匠は上層部から結構無茶を言い渡されていたらしい。少しでも反抗的な態度を見せれば家族を人質に取られたという。
これらの傷はその仕事でできたものだ。
痛かっただろうに。
師匠の傷を見て思う。私にはもう痛みを感じることはできないけれど、昔、私がフィオーレではなかったころは痛覚がきちんとあった。だから、痛みを知っている。
軍の医療班では急患が出たときのために魔力は温存される。つまり、少し前私が受けた傷程度では完治までもっていってくれないのだ。
師匠の受けた傷は確に酷いけれど致命傷ではないものが殆ど。多少は治してもらえただろうが、完治まではもっていってもらえなかっただろう。だから師匠は自分で傷を治すしかなかった。痛覚のある師匠には少しの傷ですら邪魔で、煩わしかったはずだ。
「フィオーレ」
「はい?」
「擽ったい」
「師匠いい身体してますよね!」
「セクハラか?」
「素直に褒めてるんですよ」
そう言って、師匠の背後から前面に回る。
背中だけじゃない。身体の前面にも傷がいっぱいある。その中でも一際目立つのが肩と腹部についた切り裂かれたような傷跡。無理やり治療したから酷い跡が残っている。
これは、師匠がこの領地で仲間に殺されかけたときの傷。私が師匠を拾ったときに負っていた傷だ。
師匠を拾ったのは本当に偶然だった。私はただ森の中を散歩しに行っただけ。そこに師匠が落ちていた。
実は師匠を拾ったとき、彼がエルくんの兄だとは知らなかった。小説の中ではもう故人で、一度も出てこなかったから。出てきたのは名前だけ。その名前すら殆ど忘れていて、師匠が私の師匠になると決まったあとの改めて行われた自己紹介で彼の家名を聞いて初めてエルくん兄だとわかった。あの時は心底驚いたものだ。
じっと師匠を眺める私に何も言わず私を見下ろす師匠の長い前髪に手をかける。
少しだけ身じろいだ師匠を気に留めず前髪を退ければそこには肩の傷と同じように酷い切り傷が現れた。
師匠の右眼はもう見えない。
「……どうした?」
「いたい?」
「もう痛くない」
これも、あの時つけられた傷だという。この傷が原因で師匠の右眼は見えなくなった。他人に治療されるまで気づけなかった傷。軍を辞める時はこれを理由に辞めたらしい。距離感もわからず危ないからと。
しかも師匠の仲間だった人が師匠は死んだと軍で言い回ってくれたおかげで結構すんなり辞められたと師匠は笑っていた。
「そういえばその資料には何が書いてあるんですか?」
「エルベルトたちについて。ちょっとな」
ふぅん、と相槌をうつ。取り敢えず師匠は服を着るべきだと思う。
「あ、そういえばキーラお婆さんが魔法を見たいそうです」
「……いいんじゃないか?」
前日お婆さんが洩らしていた言葉を何となく師匠に言えば予想外の返事が来た。訓練以外では基本的に魔法の使用を禁止されていたのでビックリ。
「いいんですか?」
「あの婆さんももう長くない。少しくらい夢を叶えてやれ。危ないことはするなよ」
はーい、と返事をしてから師匠の部屋を出る。さて、何をしたらキーラお婆さんは喜んでくれるだろう。




