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銀行家の娘とエリートの徒然日記  作者: 夕立
Vatican編 手を携えて

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58話 譲れないもの

 ご飯を食べ終わったイレーネちゃんは掃除の手伝いまでしてくれて、22時前に帰っていった。

 今まで賑やかだったのが急に静かになったものだから寂しくなる。言っても仕方ないのだけれど。


 洗濯が終わってきていたのでアイロンがけを始めた。

 こうして家事をしている時間はまだいい。集中していれば何も考えないですむから。1人で過ごす寂しさを感じずにすむ。

 ベリザリオがいても書斎にこもられてしまったら1人でいるのと変わらないのだけれど、寂しいとは思わない。不思議な話だ。


 玄関でガチャと音がしたと思ったらベリザリオが帰ってきた。

 見た感じは顔が少し赤くなっている程度だけれど、お酒の臭いが強い。他にもタバコや香水、食べ物……。色んな臭いが混ざりに混ざってとても臭い。さっさとシャワーを浴びてこいと言いたくなる。ベリザリオにしても仕事の付き合いで仕方なくだろうから言わないけれど。

 代わりに笑顔で出迎える。


「おかえり」

「ただいま。すまなかったね。連絡が遅くなって」


 そう言った彼はネクタイを外しながらトイレの方に行く。私は台所に行ってコップに水を注いだ。それだけでは足りないだろうから、大きめなペットボトルまで持ってトイレに行く。

 案の定ベリザリオは吐いていた。落ち着いた頃を見計らって水をあげる。それも彼は戻してしまうのだけど、胃の中の物を出しきるまではどうしようもない。

 とりあえず、吐きやすいように彼の背をさすってあげる。


「ありがとう。もう大丈夫だ」


 ぐったりとベリザリオが壁に寄りかかった。そんな彼の口元を私は拭ってあげる。薄っすらと汗が滲んだ顔には疲労の色が濃い。


 あまり質の良くない酒を大量に飲まされたらしき会食の後、いつからかベリザリオは戻すようになった。

 こうすれば次の日に残らないから結果的に楽と言うけれど、見ている側としては不憫でならない。出世のためとはいえ、ここまでして飲まなければならないのかと突っ込みたくなる。


「もう少し飲む量抑えられなかったの?」

「これでもだいぶ水で誤魔化したし、途中でも吐いた。下限だと思う」

「もっと穏やかな会食にできないか交渉すれば良かったのに」

「向こうが会ってもいいと言ってきた条件がこれだけだったんだ。枢機卿位に空きが出るまでおそらく5年もない。それまでに高級職の待機ポストまで上がるとなると、多少無理をしてでも人脈をつなぐしかない」


 ふいっとベリザリオは横を向く。私は小さく溜め息をついた。

 昇進を急いでいる理由は以前聞いたことがある。

 7人いる枢機卿のうち3人がかなり高齢で、近々退任するだろうと言われていると。そこを逃すと、次、空きが出るまで下手すると20年以上待たねばならなくなる。それでは次の教皇選出選挙コンクラーベに間に合わない。

 後々を考えれば、ベリザリオ達3人でその3席が欲しいと。


 そう聞かされてはいても、私としては、落ち着いた生活を優先させて欲しいと思ってしまう。

 けれど、いくら話し合ってもこの部分は平行線だろう。意見が分かれた時は比較的私の好きにさせてくれるベリザリオだけれど、この部分だけは頑として譲らないから。

 だからいつも私が折れる。今晩だってそう。


「それで、会談は上手くいったの?」

「もちろんだ。私を酔い潰してあちらに一方的に有利な話に持っていきたかったようだが。返り討ちにしてやった。こっちはアウローラのお父様に鍛えられているんだ。ザマァ見ろだな」


 あははと彼は笑う。ひとしきり笑ったら疲れたようで、落ち着いた様子でつぶやいた。


「7:3でこちらに有利に話をまとめられたのは良かった。程よく情けも売れたから、いずれ返してもらうとしよう」


 饒舌に上機嫌にベリザリオが喋るのは酔っているからだろうか。彼が自分の手柄をこうして誇るのは珍しい。いつも、仕事の話は全くと言っていいほどしてくれないのに。


「良かったね。お疲れ様」


 私はベリザリオの頬を軽く撫でた。気持ち良さそうに彼の目が細くなる。

 ベリザリオが私の手を掴んで顔を寄せてきた。

 いつもならこのままキスされるのだろうけど、さすがに今は嫌だ。彼、吐いたばかりだし。臭いし。私は身を引いた。

 ベリザリオもすぐに気付いたようで、私から離れる。


「すまない。頭が回らなかった。シャワーを浴びてくるよ。その後でホットミルクと何か果物が食べたいんだが」

「用意しとくよ。シャワー室で倒れないでね?」


 軽くちゃかして私は立ち上がる。途中でベリザリオが私の服の裾を掴んだ。


「言い忘れていたんだが、明日も会食で――」


 なんとも申し訳なさそうに彼は言う。私は柔らかめな表情を浮かべておいた。


「うん。わかった。きちんと教えてくれてありがとう」


 そう言って私は台所に立つ。ご希望のホットミルクを作りつつ果物を切ることにした。

 私としては、強引な出世のために邁進するより身体を労わって欲しいのだけれど。それは言ってはいけないのだろう。


 あとは――。外で闘っている彼には悪いけれど、1人で食べるご飯は寂しい。ベリザリオが定時帰りしてくる日が早く戻ってきてくれないだろうか。



 * * * *



 忙しくてもベリザリオは土曜のジム通いだけは削らない。それはディアーナとエルメーテにしても同じようで、土曜のジムにはいつもの顔ぶれが揃う。


 今週は武道館のような部屋で、ベリザリオとディアーナが長い棒を持って打ち合いをしていた。棒術か槍術かの試しとか言っていた気がするけれど。棒と槍で、扱いの何が変わるのか私にはわからない。

 ただ、その中身は試しという割には高レベルだと思う。

 事前打ち合わせなどしていないはずなのに、2人の動きには淀みがない。一拍も置かず滑らかに攻防が続く。

 武術が不得意な私には到底まねできない芸当だ。


 その様子を私はバランスボールに乗った状態で眺める。落ちないように姿勢は維持しつつ、私の横でさぼって転がっているエルメーテに尋ねた。


「ねぇ。ベリザリオとディアーナ、どっちが優勢なの?」

「んあー。どっちもどっちじゃね? 攻撃を流しミスった方が負けそうだけど。あいつらの戦い方って緻密だよなー」

「エルメーテなら違うの?」

「俺なら真正面から殴られながら相手も殴るわ」


 個性的すぎる意見だったのでスルーしておいた。ベリザリオにしろディアーナにしろ、顔にあざなんて作って欲しくない。真似してはダメな戦法だ。


「というか、最近あの2人武術にはまってるよね。何か影響されるようなことでもあったの?」

「影響? 影響ねぇ」


 考えるようにエルメーテが視線をさまよわせる。しばらくして、「あいつらと俺、省が違うから詳しくはわかんねーけど」と言葉を続けた。


「最近違う省のおっさんにネチネチ嫌味言われてイラつくんだとよ。そのせいじゃね?」

「言い返さないんだ?」

「無理無理。相手、教理省のトップだから。枢機卿の1人だから。今の俺達が下手に歯向かったら、それだけで出世レース脱落確定だから。嫌いな奴相手でも笑顔で靴を舐めて持ち上げないといけないってのは、精神的にくるよなー」

「おぅふ」

「だから、ああやって安全に暴力振るってストレス発散してるんじゃね? ついでに、機会がある時に相手に1発かませるように特訓とか思ってそうだけど。あいつらの本性、めっちゃ攻撃性高いし。やだねー。俺みたいに平和的に遊べばいいのに」


 とかなんとか言いながら、エルメーテが私のバランスボールをつついてくる。


「あ、ちょっ、やめて! 落ちちゃう!」

「はっはー。この程度でバランスを崩すようでは修行が足りんぞ」

「してない! そんな修行してないからっ」


 太らないように体幹を鍛えたかっただけだ。無駄に難易度を上げてもらう必要はない。なのにエルメーテはつつくのを止めない。


「ほーれほーれ」

「きゃーーっ」


 騒ぎながら必死にバランスをとっていたら、ゴンっという低い音がした。時間差でドッとかいう鈍い音も。音の後にはエルメーテの背後から棒が2本落ちた。

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