第6章ー4
そのために、スモレンスクやタリン、キエフ等が、まずは米英等の戦略爆撃機群の攻撃目標となった。
ドイツ本土空襲で効果を上げた、昼間は米陸軍航空隊が爆撃を行い、夜間は英空軍が爆撃を行うことで昼夜を問わない警戒態勢を、ソ連空軍に余儀なくさせ、それによるソ連空軍の加速度的な消耗を図るという作戦がこのソ連本土空襲でも用いられた。
そして、更にソ連空軍にとって厄介なことに、昼間は日本空軍の99式戦闘機群が護衛するのだ。
加速度的にソ連空軍は疲弊することになり、1942年3月頃には。
「西沢、今日は何機落とした」
「1機だ」
「勝ったな。俺は太田との共同撃墜だが、2機落とした」
「明日は俺が勝ってみせるぞ」
「勝てるならな」
そんな会話を、坂井三郎と西沢広義が交わしていた。
その会話を小耳に挟んだ笹井醇一空軍中尉は、複雑な表情を浮かべた。
ここ連日の出撃において、日本空軍の戦闘機乗り達は、ここ最近は20対1と豪語するだけの大戦果を挙げていた。
とは言え、空中戦における戦果誤認を考えるならば、よくて半分、下手をすると1割程度の戦果しか上がっていないと考えるべきだった。
それでも、ソ連空軍戦闘機隊の消耗は、かなりの程度に達しつつあるらしい。
ソ連本土に対する本格的な戦略爆撃開始当初は、送り狼阻止のための戦闘機が別に必要なほどだった。
幾ら99式戦闘機が優秀な戦闘機とはいえ、一度、派手な空戦を行えば、銃弾はかなり減るし、燃料も大量に消耗してしまう。
そういった銃弾や燃料が欠乏したところに、ソ連空軍戦闘機の第二波が襲い掛かってくることが多発し、同盟国の英仏空軍等に助けてもらうことがあったのだ。
だが、最近はそういった送り狼戦術があまり見られなくなりつつある。
そういったことから考えると、ソ連空軍の戦闘機はかなり減少しているとみるべきなのだが。
「そうは言ってもな。幾ら敵国とはいえ、都市爆撃と言うのは、民間人が犠牲になる気が重い戦術だ。幾ら効果的で戦争を早く終わらせるためとはいえ。そして、自分は爆弾を落としてはいないとはいえ」
下手に口に出すと、上層部批判と取られかねない。
そういった危険に鑑み、内心で想うだけだが、笹井中尉は、単純に戦果を誇る気になれなかった。
「自分は海軍に志願した方が良かったかな」
笹井中尉は、そうも想いを巡らせた。
笹井中尉の耳にまで、日本海軍航空隊が、大規模な作戦準備をしているという噂が届いていたのだ。
1942年3月、バルト海沿岸を人為的な大嵐が襲おうとしていた。
その嵐を引き起こそうとしていたのは、日英米三国の海軍、それも空母機動部隊だった。
「仏伊海軍は、正式に不参加の断りを言ってきました」
「当然だろうな。仏伊海軍は、まともな空母を複数保有していないからな」
第1機動艦隊首席参謀の大石保中佐の言葉に、第1航空戦隊司令官の角田覚治中将は、仏伊海軍をバカにしている内心が垣間見える口調で言った。
その言葉に、第2航空戦隊の山口多聞中将も肯いている。
第1機動艦隊司令官の小沢治三郎中将は、同盟国の海軍を誹謗したと取られかねない発言をした角田中将を、後で陰で叱ることを内心で決めつつ、角田中将のいう事も間違っていない、と自分でも想った。
1942年3月当時、仏海軍は「ベアルン」しか空母を保有していなかった。
日英米からカタパルトや艦載機等、様々な支援、提供を受けてはいたが、所詮は1隻しかなく、更に竣工したのも1927年で、最高速力21ノットに過ぎない代物である。
そんな虎の子の空母を、冒険的な作戦に投入してくれ、と依頼する等、仏海軍首脳部にしてみれば、日英米海軍は発狂したのか、と思われても仕方のない話だった。
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