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稜戦姫の恋  作者: 三茶 久
第一章
22/84

−閑話− かつての主従

 夏。

 大陸の北に位置する稜明も、湿気の多い土地柄、李公季の執務室も必然的に蒸し風呂状態になる。

 朝から何度も冷や水を撒かせているし、こっそり足元に井戸水の入った桶を用意させているが一向に効果がみえない。

 ちゃぷんちゃぷんという水の音が、執務室に響き渡る。外からはけたたましい程の蝉の鳴き声が主張してくるため、余計にまとわりつくような夏の熱気を感じずにはいられない。よって、こうやって桶の中で足を泳がすことで、気分だけでも紛らわせたかった。



 今、稜明の中央はどこもかしこも目の回るような忙しさだ。干州の平定に尽力したからこそ、朝廷に対する発言力が増している。出来れば干州の中枢に稜明出身の官吏を据えられないかと交渉材料を大量に用意しているのだ。



 勝負は新年。慶賀の挨拶に参内する時だろう。各州各領の主たちが一堂に会し、直接朝廷に赴く機会となるため、各勢力の外交の場となる。

 あと半年。いや、現地へと赴く期間を考えると、あと五ヶ月といったところか。そんな短すぎる期間の中で、どこまで案を詰めれるかが勝負になってくるわけだ。


 しかしながらこの陽気だ。ただでさえ作業効率が上がらない中、今は楊炎も側にいない。裏でも表でも、彼にどれ程助けられていたか今更ながら思い知る。


 だが、こうやって仕事に追われる身も、今日でひと段落である。少々、頬が緩むのも仕方ないだろう。

 あまりの忙しさに、稜花が見るに見かねて、しばらく楊炎を救援に寄越してくれるらしい。普段の執務も滞りがちな今、正直とてもありがたい。




「失礼致します」


 色々思考していると、丁度楊炎が顔を出した。相変わらず何を考えているのか全くわからない無表情で、部屋の入り口で一礼する。


「ああ、来てくれたか。すまないな」

「いえ。公季様の激務については、姫も心配なさっておいででしたから」


 楊炎は短く言葉を切り、ちらと周囲を見渡す。心待ちにしていた彼の登場に、李公季の補佐をしている宇文律(うぶんりつ)も表情を緩めていた。


「楊炎、来てくれて本当に助かりました。ほらほら、そこに座って下さい」


 宇文律はここ最近李公季に取りなされた宇文斉(うぶんせい)の兄だ。今までは楊炎が陰に日向にと行ってきた執務を、彼の異動によって急遽誰かに引き継ぐ必要が出てきた。そこに白羽の矢が立ったのが、宇文律だったわけである。

 楊炎の存在自体はほとんど知れては居なかったため、宇文律の世間での評判は、勢力拡大の為に取り立てられた若手、ともっぱらの噂。楊炎の代わりに取り立てられたなど、まさか思われていないらしい。

 もちろん、噂が立つだけあり彼も優秀な人物だ。もともと楊炎不在の間も、李公季は彼を頼りにしていた。しかしこの熱気の最中、動ける者は一人でも多い方が良い。



「では、失礼して」


 それぞれの卓に積み上げられた書簡の山に目を通し、現状の酷さを悟ったのだろう。彼はすぐに座し、目の前の書簡を読み解くことから始める。

 今期の各地の収穫量を見込んだ報告書やら、生産品の流通に関する書類だ。一度専門の部署でまとめられているそれらを読み込み、裁定を下すのは李公季と李永の仕事だ。

 しかし、楊炎がいた頃はそれを下読みし、楊炎自身が一度判断を下していた。判断内容について李公季も目を通していたが、彼のことを全面的に信頼していた。だからこそ、李永が戦に出ようとも、李公季がいればなんとか稜明の運営は回っていたのである。



「公季様、これは本格的に人を増やさないといけませんよ」

「……そうだな。いつまでも楊炎に頼っているわけにもいくまい」

「それだけでなく、干州(かんしゅう)に人を送るのでしょう? 物資以前に、人材不足が深刻すぎます」


 呆れ返るようにして宇文律はため息を吐く。確かに人材については以前からの課題だったし、李公季も極力手を打ってきている。しかし、今の領土の勢いに、まったくついてきてないのだ。結果、この力技で仕事を片付けねばならぬ現状だ。




 ううむ、と李公季は声を漏らした。しかし、暑さでどうにも頭がついてこない。

 ちゃぷん。と足元の桶で足を泳がせ、李公季は思った。


 ーーぬるい。


 小姓を呼びやり水を変えさせねばなるまい。少しでも良い環境を作らねば、良い仕事はできそうにないのだ。

 人材の悩みは一旦横に置いておいて、李公季は小姓を呼びやった。

 ついでに、すでに黙々と書簡と向き合い始めた楊炎を見やる。



「楊炎」


 先程まで人材の話をしていたからだろうか。楊炎は身構えるようにぴくりと眉を動かし、宇文律は期待に目を輝かせる。

 しかし、今の李公季には人事など些末なことだ。

 じい、と楊炎を見つめていると、李公季の真剣さを感じ取ったのだろう。相変わらずの真っ黒な装束に身を包んだ文官姿の楊炎は、はい、と短く返事をした。

 そして、ごく真剣に、彼の目を見つめながら、李公季は言い放つ。


「次から、黒の衣は禁止だ」

「は……?」


 楊炎にしては珍しく、口をぽかんと開けてこちらを見てくる。先の言葉で悟れぬなど、楊炎の頭も少し熱にやられているのだろうか。だが、この要求は重要だ。彼には是非、今後黒以外の衣装で来て欲しい。

 李公季は頭からつま先まで真っ黒な楊炎を見据えて、端的に告げた。


「見ていて暑苦しいのだ」





 ***





 ふう。と。ある程度まとまったところで、李公季は筆を置いた。

 桶の水を何度もかえたため、足の皮はふやふやだ。しかし、後悔はしていない。あの水がなければ今日の自分は使い物にならなかったろう。


 一心不乱に職務に全うしているうちに、すっかり日も落ちてしまったらしい。外はいつの間にか真っ暗になっており、蝉の代わりに鈴虫が柔らかい鳴き声を響かせている。

 蒸すような暑さもなりを潜め、ようやく涼しい空気が部屋に流れるようになっていた。



「公季様、お茶になさいますか」


 柔らかな物腰で、宇文律が問いかける。ああ、そう言えば昼食すらとっていなかったと今更ながらに気がついた。

 ふむ、と一つ頷いてみせると、心得たように宇文律が部屋を出て行く。この時間だ、何かつまめるものもついでに用意させてくるつもりだろう。




 そうして執務室の中に楊炎と二人取り残され、はた、と李公季は気がつく。

 何やら、彼と二人になるのは随分と久しぶりな気がする。


 幼少期から共に育ち、影ながら自分と同じ教育を受けさせ、自分と同じ目線で物事を考える力をつけさせた。

 生きることに絶望していた幼い少年は、命を助け、生きる環境を与えた事により、自分に随分と懐いてくれたことを覚えている。最初は疑心暗鬼だったものの、いつの間にやら当然のように隣にいて、自分にの為に生きると誓ってくれた。

 その忠誠心に甘えて、随分と汚いこともさせてしまったように思う。影で生きると決めていた彼は、裏家業に身をやつすことを躊躇わなかった。むしろ、表の世界に出ることを随分と嫌っていたようにも思える。


 ふと、楊炎の横顔を見た。

 相変わらずの真面目さで、未だ黙々と仕事に没頭している。相変わらずの無表情であるのだが、ここ最近の彼は随分と纏う空気が柔らかくなったように思う。そして李公季自身も、それが稜花の影響によるものだと気がついていた。



 ——稜花に楊炎を任せたのは、正解だったのかもしれぬな。


 自然と頬がゆるむ。

 幼い頃からともに育ったというのに、彼はいつも無表情で、感情を表に出すことを恐れているようだった。誰かと打ち解けることも厭い、主と認めた李公季にさえ、一定の距離を保っているように思えた。いや、親しくなりうる状況だったからこそ、主とあがめ、距離をとったのかもしれない。


 それほどまでに他人と接することに躊躇する楊炎なのに、ここ最近随分と変わったと、周囲も認識している様だ。……そう、噂になっているのだ。彼のことが。



 もちろん、楊炎自身が表に出てきたからこそだ。存在すらも隠していた昔とは、立場が違う。しかし、それでも誰かの目にとまり、印象として残る。これがどれだけ大きな変化か、李公季以外はわかり得ないだろう。


 条干(じょうかん)の防衛戦での王威(おうい)との一騎打ちは、もはや稜明でも兵たちの語りぐさになっている。

 あの時、稜花達とともに駆けた騎馬兵たちは自慢げにその事を他の兵たちに話回っている。

 それにともない、今や稜花とともに楊炎の強さに憧れる兵も少なくないと聞く。そのため、最近は稜花だけでなく、楊炎にまで稽古相手の希望者が後を絶たないらしい。

 稜花と楊炎。二人とも目立つ風貌なものだから、この主従はたちまち兵たちの噂になった。それを宇文律あたりが面白可笑しく噂を聞きつけてくるものだから、必然的に李公季の耳にも入ってくるわけだ。




「楊炎」

「……? 何か?」


 呼びかけてみると、楊炎はふと視線をこちらに寄越す。筆を置き、立ち上がろうとしたものだから、李公季は手でそれを制した。


「よい、少し話を聞きたいだけだ」

「本日の作業内容については、こちらの報告書にまとめておりますが」

「仕事の話をしたいわけではない」


 あまりにも真っ直ぐな答えが返ってきて、李公季はくつり、と笑みを漏らした。とたんに、楊炎は少し眉を寄せ、不安げな様子を見せる。

 仕事の話ではない話題——つまり雑談にここまで身構える男も他にはいないだろう。



 李公季のよく聞く噂は三つだ。

 一つは彼の強さについて。これについては李公季以上によく知るものなどいないだろうから、気にすることではない。

 もう一つは、彼のこれまでの経歴について。もちろん、李公季は余すことなく知っているわけだが、世間ではそうではない。

 うすうす李公季の部下であったことは出回っているようだが、その前は海を渡った向こうからやって来た剣客だの、剣帝楊臥(ようが)の末裔だの、実は朝廷から来た使者だの好き勝手言っては盛り上がっているらしい。このあたりはどう背ひれ尾ひれがついているのか、あまりの的外れな様に聞いているだけで興味深い。



 そして最後のもう一つ。

 これこそ、李公季としても確認してみたい噂ではあった。


 ——李家の戦姫、稜花とただならぬ関係であるとか。


 もちろん、楊炎に限ってそんなことはないだろうと確信している。

 単にいまや渦中の人であり、凄腕の男女が四六時中共にいるわけだ。噂にならないはずがない。

 娯楽の少ない軍部では、稜花の人気はなかなかのものだと聞き及んでいる。だからこそ、彼女の側に控える全身黒の傷だらけの男が目に入らないわけがないのだろう。

 李進軍の者などは特に、埜比(やひ)の攻城戦の時から共に行動しているのを見ているわけだ。勘ぐりたくもなるのは当然だ。

 さて、どう聞き出したものかなと、李公季はしばしかける言葉を考える。


「随分と稜花に良くしてくれているようではないか」

「私の主でいらっしゃいますから、当然の行いをするまでですが」

「正直、私以外の者にそこまで仕えてくれることになろうとはな。以前のお前からすると想像できなかったろう?」


 李公季はからかうようにして笑った。相変わらず楊炎は涼しげな様子だが、李公季の言葉に考え込むようにしてひと息ついた後、首を縦に振る。


「それは、そうですね」


 どうやら、自身が変化していることについて、自覚があるようだ。このように、楊炎はどんな話題でも、李公季の問いかけであれば包み隠さずに話してくれる。

 李公季以外に心を開いていることが本人の口から確認できて、李公季の頬は緩んだ。


「稜花が無理を言ったりはしていないか?」

「いえ。ここ最近は随分と様子が変わられました。周囲に対して気遣いをなさるようになっていらっしゃいますし——その……」


 ここで楊炎が言い淀んだ。躊躇する楊炎の雰囲気がふと柔らかくなったような気がする。おや、と思い、李公季は何度か瞬いた。


「姫は、私個人にも随分と心を砕いて下さるので」

「……なるほど」


 あまりに意外な楊炎の言葉に、動揺を隠せない。端的な物言いだが、彼は随分と稜花に心を開いている様子だ。

 李公季に仕えていた時にはけして見せなかった、緩んだ空気に戸惑う。本当に、稜花に仕えるようになって彼は変わった。



 これは、噂が立つのも頷ける。

 単に、共にいる時間の長さの問題だけでもなかったようだ。誰も寄せ付けぬ雰囲気の楊炎がここまで空気を柔らかくすることに、戸惑わない者は居ないだろう。

 誰から見ても、彼は近寄りづらい。初対面であろうとなかろうとお構いなく、彼は他人に対して不動の壁を作る。そんな彼を受け入れる稜花。稜花だけを受け入れる楊炎。——なるほど、納得の噂だ。



 さて、どうしたものか、と李公季は思う。

 楊炎にとってこれは、良い変化なのだろう。しかし、稜花も年頃。本格的に輿入れ先を探さないといけないだろうし、実際、打診がないわけではない。少々特殊な経歴の彼女だ。この噂が悪影響を及ぼさねば良いとも思うわけだが——とそこまで考えて、李公季はやめた。

 そう言えば、例の相手は、稜花と楊炎の関係性について知っているはずだ。


 ——それに、あそこの領主は、今更噂のひとつやふたつ増えたところで、動揺するまい。


 それならば、放っておくべきだろう。楊炎にとっても、稜花にとっても、お互い良い影響を与えているようだし。

 李公季は頬を緩めた。自分とずっと一緒に成長してきた彼は、手元から離れてようやく、彼自身の人生を歩み出した気がする。



「知っているかと思うが」

「?」

「……稜花がこの地を離れることになれば、其方は共に行ってくれるか?」


 突然の質問に、楊炎は僅かに目を見開いた後、その片眸をぎゅっと閉じた。

 彼の中で何か葛藤でもあるのだろうか。それは李公季の元を離れることになるのかもしれないし、彼の過去に関する想いからかもしれない。彼の地より稜明に来た楊炎が、再び彼の地に戻ることを心安くは思わないだろう。

 しかし、そんな心配とは裏腹に、彼はやがて真っ直ぐに李公季を見返した。


「そのつもりです」

「そうか」


 辛い思いをさせるかもしれない。

 自分自身も、彼のことを手放したくない気持ちは当然燻っている。しかし、ひとつの未来を願ってやまない自分がいることにも気がついていた。


「其方が、私の元から離れたら……」


 ふ、と笑みがこぼれる。

 自分だけの力ではなし得なかった関係性。彼が稜花と出会い、そして稜明から去ることで、ようやく叶うかもしれない願い。

 我ながら、都合が良いものだと笑えてくる。


「離れたらようやく——真に、其方と友になれるかもしれぬな」



 李公季の言葉に、楊炎が息を飲むのがわかった。

 片眸を大きく見開いてしばし。ふと、彼自身も、戸惑うような、悲しむような、複雑な表情を浮かべながら口を開く。


「そのような日が、来るのでしょうか」

「ああ。其方がよいのであれば、今からでも良いぞ」

「……承知しないことはご存じでしょうに」


 くつりと、笑みを漏らす。

 未だ見たことのない彼の柔らかな表情を目の当たりにして、李公季は稜花に深く感謝することになった。

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