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「リーゼロッテ、大変よ!」
自室でかなりおざなりに苦手な刺繍の練習をしていたリーゼロッテに、慌てた様子の母親がノックも無しに飛び込んできた。
いつも淑女らしくと言う母親にしては珍しいと思いながらも、作業を中断する。
「どうしたの?お母様」
針を針山に刺すと、リーゼロッテは小首を傾げた。
「あなた、このあいだウォルウィッシュ家に行ったときに何かしたの?」
「いや何も」
人聞きの悪い。
しっかりと猫を被っていたというのに。
「ウォルウィッシュ家の嫡男のクレメンス様が、あなたに会いたいって来ているのよ」
「嫡男?」
ますます首を傾げたところで、ああと思い出した。
おそらくは怪我をした少年のことだろうとあたりをつける。
「そういえば少し話したわ」
「とにかく早くいらっしゃい」
言われるままに応接室に行くと、そこにはやはり先日会った紫がかった黒髪の少年がぼんやりした無表情で長椅子に座っていた。
「お待たせいたしました」
母親に連れられて入ってきたリーゼロッテに、少年はひとつゆっくり瞬きをすると立ち上がってリーゼロッテの前まで来た。
なんだなんだと思っていると、そっと右手を取られその上にピンク色のハンカチを乗せられる。
「あの時はありがとう。ハンカチを返しに来たんだ」
確かにそのハンカチはリーゼロッテの物だった。
血は綺麗にされていて、よく落ちたな、なんて見当違いのことを考える。
「別によかったのに」
律儀だなあと思って、ふと少年の右手に包帯が巻かれていることに気付いた。
「怪我、治ってないのね。魔法って怪我も治せるんでしょ?基本だって本に書いてあったわ」
すると少年は少し眉を下げて。
「魔法で治すのを禁止されたから」
「何それ横暴」
思わず口からポロリと零れて、しまったと後ろの母親を盗み見たら青筋を立てている。
少年の方もアメジスト色の瞳を丸くしていた。
本人がいないとはいえ侯爵の悪口を、しかも息子の前で言うのだから驚いたのだろう。
ついでに言えば彼の前で猫を被っていないことにも母親は青筋を立てているようだけれど。
まあ彼の前では最初から猫を被っていなかったので、今更だと結論付けることにした。
「お母様、お茶請けをクッキーにしてちょうだい。その方が左手で食べれるわ」
「そうね、お茶の準備をしてきます。お待ちください」
ペコリと頭を下げて応接室を出ていった母親を見送った。
「そういえば、あなた名前は?」
「クレメンス。クレメンス・ウォルウィッシュ」
「ふうん。舌噛みそうな名前ね」
人の名前にそんな感想を返すと、クレメンスはおかしそうに小さく笑った。
応接室に母親から遣わされたメイドがお茶を運んで来ると、リーゼロッテがあとは自分で出来るからと二人きりになった。
リーゼロッテは堅苦しいのは好きではないから、なるべくメイドに世話をやかれないようにしている。
もしかしたら使用人を侍らせる方が貴族らしいのかもしれないが、前世で一人ぼっちの生活をしていたせいか自分の身の回りの事をやってもらうということに、どうしても慣れないのだ。
薄紅色のティーカップに飴色の温かな紅茶を注いでクレメンスの前へ置く。
「ありがとう」
お礼を言われたことに驚いた。
貴族というものは身分が上だと威張り散らすものだと思っているからだ。
たとえばクレメンスの母、ウォルウィッシュ夫人のように。
「無理して飲まなくていいわよ」
ぼんやりしたような表情のクレメンスはリーゼロッテの言葉に小首を傾げる。
「せっかく淹れてくれたのに?」
「その手じゃカップ持つのも痛いでしょ。一応淹れたけど、お茶はいいからクッキーにしたら」
ほらとクッキーの乗った皿を押しやる。
まじまじとクレメンスがリーゼロッテを見つめてきた。
そのアメジスト色には、少しの困惑が浮かんでいる。
「そんなふうに気遣われたの初めてだ」
「そうなの?侯爵家って薄情ね」
ティーカップを持ち上げてこくりと一口飲む。
目を見張ったクレメンスが「驚いた……」と呟いた。
「身分が上の人間にそんなこと言う人、見た事ない」
「あら、私だってちゃーんと時と場所を選ぶわよ」
手を伸ばして砂糖入れから小さなトングで白い角砂糖をひとつ取り、紅茶に入れる。
ついでにミルクも入れると、紅茶の飴色が底の方からまろやかな色に変わっていった
「あなたが言いつけるなら別だけど、そんなことしそうにないし」
「どうして?」
「えー……言いづらいな」
カチャカチャとティースプーンで紅茶を混ぜていたリーゼロッテは、思わず苦虫を噛み潰したような顔をした。
それを見て、クレメンスが笑みを浮かべる。
「僕が家族と不仲そうだから?」
「はっきり言うのね、家族とっていうかお父さんと?」
「そうだね、ただ父上だけじゃないかな」
苦笑するクレメンスに、リーゼロッテはことりと首を傾げた。
「お母さんや妹とも?まあ確かにお母さん性格悪い感じだけど」
ズバッと思ったことを言えば、小さくふっとクレメンスが噴き出した。
思わずといったふうに、口元を緩めている。
「確かにいいとは言い難い性格だし、母親とも不仲だよ。妹は母に僕と近づかないように言われてるしね」
「家族っていないのも大変だけど、いるのも大変だったりするのね」
前世の親が蒸発してしまった事を思い浮かべながら、口の中で呟き嘆息する。
不思議そうに小首を傾げたクレメンスに、何でもないと首を振った。
「君って不思議な子だね。貴族らしくない」
まあ、当たり前である。
今は貴族でも根底は底辺の貧乏人だ。
「人前ではちゃんと猫被ってるわ。あなたの前では被り損ねたけど」
「そっか……被らなくていいよ」
アメジスト色をしんなりとさせて、クレメンスが笑う。
ならいいけどと頷いて、リーゼロッテはカップを口に運んだ。
「それより魔法が使えるのよね、風の魔法!」
キラキラした目でクレメンスをじっと見れば、少年はとまどいながらも頷いた。
「他には?なにか使えるの?傷を治す魔法は使えるのよね」
「四大元素は全部使えるけど……」
「本当!?」
おずおずと口にしたクレメンスに、リーゼロッテはガチャンと勢いよくカップをテーブルに置くと立ち上がった。
「庭に行きましょう、魔法見せて!」
クレメンスの左手を取ると、困惑する彼を無視してリーゼロッテは急いで玄関に向かった。
玄関を抜けて庭の方へクレメンスを引っ張っていき、人目につかない庭仕事の道具がしまわれている小屋の方まで行くと、くるりと少年へ振り返る。
「さあ!なんの魔法からにする?」
「本当に見るの?」
「うん、面白そうだもの」
「君は変わってるな。みんな僕に魔法を使うなって言うのに」
苦笑するクレメンスに、リーゼロッテの脳裏で初めて会った時の光景が浮かぶ。
「怖がってるんでしょ、気にしなきゃいいのに。そんな小心者な言い分。あの時あなたちゃんと使いこなせてたもの」
リーゼロッテは興味がなかったので知らなかったが、後々聞いたところによるとクレメンスはとても強い魔力を持っているため、将来は王子付きの魔法使いだと噂されているとのことだった。
けれど。
「この年で僕みたいに魔力が高いのは珍しいから」
なんともバカバカしい。
「使えるものは使わなきゃ勿体ないじゃない」
くすりとおかしそうに笑ってクレメンスは包帯の巻かれている右手のひらを上に向けた。
すると大気の水分が集まるように、ふよふよと水の塊が出来る。
「凄い凄い!」
間近で見た魔法に、リーゼロッテは興奮で頬を蒸気させた。
ためすがめつ水球を眺めまわして、指を伸ばす。
触ろうとするリーゼロッテに、濡れるからとクレメンスが手を遠ざけて水球を消してしまう。
それに唇を尖らせるが、次の瞬間にはリーゼロッテは気を取り直したように、ぽんと手を合わせた。
「じゃあ次は土ね」
「まだやるの?」
「もちろんよ」
リーゼロッテが大きく頷く。
クレメンスは眉を下げたあと、足を小さく上げてトンと地面を踏んだ。
瞬間、クレメンスの足元からぼこぼこぼこと芝生のない土がむき出しの場所が、盛り上がって波打った。
その光景にリーゼロッテがぽかんと口を開ける。
しゃがんでまじまじと盛り上がった土を眺めやった。
おもいっきり手加減しているのだろう魔法は、けれどリーゼロッテには充分魅力的だった。
「何でもありね」
立ち上がって感心したように頷いて。
「風は見た事あるから次は火よ」
勢いよく言ったが。
「駄目だよ危ない」
クレメンスが首を振った。
「えぇー」
「火はそんなに使った事がないから慣れてないんだ」
あからさまに肩を落としたリーゼロッテに、ごめんねとクレメンスが謝る。
けれど、それで諦めるリーゼロッテではない。
「家ではあんまり魔法使えないんじゃない?」
突然の言葉に。
「まあ……練習はこっそりだね」
歯切れ悪くクレメンスが答えると、にやりとリーゼロッテは笑みを浮かべた。
「じゃあうちで練習すればいいじゃない」
ぱちくりと、クレメンスは目を丸くした。
リーゼロッテは含みのある顔でにっこりと笑う。
「ここで練習すれば、家でコソコソしなくていいわよ」
「それは……駄目だよ」
「どうして?」
名案を駄目だと言われて、リーゼロッテは眉を寄せた。
ここで練習すれば、魔法が見放題だと思ったのに。
「うちの屋敷は魔力を抑えるように出来てるんだ。魔法使いの家系だからね。だから、普通の屋敷で練習は危ないから無理だよ」
「つまんなーい。じゃあ一回!一回だけ見せてくれたら諦めるから!ね?」
クレメンスの左腕を掴んでぶんぶん振ると、少年は小さく溜息を零した。
「……一回だけだよ」
あまりのしつこさに折れたクレメンスの言葉に、リーゼロッテはパアアッと顔を輝かせた。
言質はとった。
一回でもいいから全部の種類の魔法が見てみたい。
こんな機会、次にあるかわからないのだから。
「約束する、一回だけよ」
きゃっきゃっとはしゃぐリーゼロッテに、苦笑しながらクレメンスは水球を作った時と同じように右手のひらを上に向けた。
「わあっ」
ぽうっと小さな炎がそこに浮かび上がる。
「不思議だなあ、何もないところから水や火が現れるのは」
「僕はこれが当たり前だったから、不思議だと思った事はないかな」
「ふーん」
じっと炎を見つめると、クレメンスが危ないと手を遠ざける。
「もうちょっと」
その右手首を、止めるようにリーゼロッテが掴んだ刹那。
ゴウッと炎が強く立ち上がった。
「うわ!」
いきなりの炎の立ちあがりに、肩をびくりとさせたリーゼロッテのドレスの裾にも炎が灯った。
「きゃあっ」
思わず上げた悲鳴に、クレメンスの顔から血の気が引く。
慌ててドレスを叩こうとしたリーゼロッテの頭上から、次の瞬間大量の水が降ってきた。
「うぶ!」
あまりの大量の水の勢いに潰れたカエルのような声が出る。
「ご、ごめん!」
クレメンスの焦った声が上がったことから、この水は彼の仕業だとわかった。
ぽかんとしとどにずぶ濡れになったリーゼロッテが立ち尽くしていると、クレメンスが慌てて着ていた上着を脱いでその小さな肩にかける。
「大丈夫?」
「……ふ」
顔を覗き込んでくるクレメンスに、しかしリーゼロッテは思わず小さく吐息を吐くと。
「ふ、ふふっふふふっあは、あっはっは」
突然大口を開けて笑い出した。
今度はクレメンスがぽかんとその様子を見て立ち尽くす。
「はは、はー……おかしい、こんなずぶ濡れになったの久しぶりだわ」
ケラケラと笑うリーゼロッテの脳裏には、傘を買うお金すら惜しんで雨の中走って帰宅した前世の出来事があった。
あの時はひたすら惨めだったけれど、今は魔法を見れたテンションも相まって何だか笑いが止まらなかった。
「こんな目にあった事あるの?」
まさか伯爵令嬢がと驚きに眉を上げるクレメンスに。
(おっとヤバイ)
思わず笑いを飲み込んだ。
そして白々しく話題を変える。
「こんな面白い経験初めてだわ」
「面白い?」
「魔法でずぶ濡れなんて面白いじゃない」
重くなったドレスに動きにくさを感じながら、濡れてしまったフィッシュボーンに編んでいる髪をぎゅっと握る。
ぽたぽたと絞られる水を見て、クレメンスが我に返ってリーゼロッテの手を掴んだ。
「それより怪我は?」
「ああ、ないない」
ふるりと首を振ると、あからさまにほっとクレメンスが安堵の息を吐く。
そして、シュンと叱られた子犬のように肩と眉を下げた。
「うまく制御出来なくてごめん」
サラリと長めの前髪を零して頭を下げたクレメンスに、リーゼロッテは肩をすくめた。
「火を出すように言ったのは私だし、謝らなくていいわよ」
ポンとクレメンスの肩を叩くと、少年は顔を上げた。
「とりあえず着替えに戻ろう。風邪を引く。伯爵夫人にも謝らないと」
「えぇ……バレたら怒られる。こっそり部屋に戻って着替えるわ」
思わず顔を顰めると、クレメンスはふるりと首を振った。
その顔は真剣な表情だ。
「駄目だよ、もう少しで怪我させるところだったんだ。怒られるのは僕だけにしてもらうから」
「頭固い……」
「君は破天荒だ」
結局ぶーたれるリーゼロッテを連れて屋敷へ戻り、クレメンスが頭を下げた。
リーゼロッテを叱らないように頼むと、リーゼロッテもクレメンスが魔法を使った事を秘密にしてくれと母親に言い、結局事なきを経た。
それが二人が幼馴染となったきっかけだった。
あれからクレメンスはたびたびリーゼロッテを訪ねてくるようになった。
リーゼロッテとしては、何が彼の琴線に触れたのかわからないが、まあ友人としてならクレメンスの妹のユリーアよりよほどいいというものだ。




