29
夕方、混む前にと思いリーゼロッテは食堂に向かっていた。
クレメンスとは朝以来、顔を合わせていない。
夜までに一度戻るということは、それ以外は籠るということだろう。
夕食を持っていこうか考えたが、またジュリアと一緒にいるのを見るのは嫌だと思い首を振った。
さっさと食べて、一人で寝よう。
クレメンスとはどうしてか顔を合わせにくい。
自分らしくないと考えながら歩き、中庭の回廊に差し掛かると正面からユリーアが歩いてきた。
「あら、あなたは」
「こんにちは」
リーゼロッテに気付いたユリーアにペコリと頭を下げる。
子供には優しいのか、口元に小さくユリーアが笑みを浮かべた。
「前に会ったときより小さいのね」
「色々あって魔法で……」
詳細は言えないのでしどろもどろに答えると「そう」とすぐにお人形の無表情に戻ってしまった。
「……あの」
じっとユリーアを見つめてリーゼロッテは言いにくそうに口を開いた。
「クレメンスお兄ちゃんの、婚約者候補がいるっていつから?」
そこでハッと我に返る。
そんなことを聞いてどうするのだ。
ユリーアは不思議そうに小首を傾げた。
ぱちりと兄とはまったく違う、青い瞳を瞬かせる。
長い金色のまつ毛が蝶々のようにひらめいた。
「あ、いや」
「八歳だったかしら」
「そんなに、前なんだ」
自分と会った頃に婚約候補として名前が挙がっていたのかと思うと、何だか気持ちが萎れていくようだった。
けれどユリーアの続いた言葉は。
「釣り書きは来てたけど、お兄様は興味を示さなかったし、婚約に関してはお父様に対してもかたくなに拒否をしていたようだと訊いたわ」
意外な言葉だった。
クレメンスが拒否していたなんて。
けれど確かにクレメンスは結構頻繁にリーゼロッテの家に来たり、一緒に出掛けたりしていた。
釣り書きに興味を示したりしていれば、ただの幼馴染よりも婚約者候補に沢山会っていたはずだ。
「お兄様には幼馴染がいるそうで、その子と会うからと婚約は全部断っていたそうよ。お父様もお兄様の婚約には消極的だったようだし」
「それ、本当?」
思わずリーゼロッテの声が震えた。
「メイドに聞いた話だから本当だと思うわ」
だって幼馴染なんて、リーゼロッテしかいない筈だ。
もしかしたらティモシーも幼馴染なのかもしれないが、クレメンスはティモシーと会った時はリーゼロッテがせがむから必ず話してくれた。
つまり、そんなに小さい時からクレメンスはリーゼロッテを優先してくれていたことになる。
その考えにいきつくと、何故か頬にカーッと血がのぼり出した。
胸の鼓動がドクドクといって、心臓を口からこぼれ落としそうだ。
(なな、なに、どうしちゃったの私)
自分の状態が常になく異常をきたしていることに、リーゼロッテはぐるぐると混乱し始めた。
「大丈夫?顔が赤いけれど」
「だ、だいじょうぶ」
全然大丈夫じゃない。
林檎のように頬を真っ赤にしたリーゼロッテをユリーアが心配そうに一歩近づく。
それに慌てて答えた瞬間。
「やだ、あの人また」
「え?」
ユリーアが珍しく眉を顰めて回廊から出られる中庭の方へ目をやった。
不思議そうに目線を追って見ると、木の陰からズールがその太い体をはみ出させながら、こちらを赤い顔で見ていた。
「あいつ」
思わず唸ると、ユリーアもわずかに眉根を寄せている。
「知り合い?」
「ずっと小さい頃から手紙を送ってくるけれど、内容が少し気味が悪くて受け取らずに送り返してたのよ。最近は来ないから諦めたのかと思っていたけれど、いつも私を見ているの」
嫌悪を露わにしたユリーアに、そういえばと思う。
「あのひと、あなたの絵を買ってたわ」
「ッ」
リーゼロッテの言葉に、ユリーアが息を飲んだ。
その表情には先ほどの嫌悪だけでなく恐怖も滲んでいる。
それもそうだろう。
深窓の令嬢がストーカーされているのだ。
怖いに決まっている。
リーゼロッテはふんと鼻を鳴らすと、大股でズールの方へと足を踏み出した。
「あ、ちょっと」
ユリーアが慌てて追いかけてくる。
リーゼロッテが近づいていくと、ズールはじりじりと後退し始めた。
「ちょっと!盗み見なんて最低よ!」
「何でこ、ここに!もう学園にいないと、おもっ、思ったのに」
思わぬズールの言葉にリーゼロッテは片眉をひそめた。
「なにそれ」
それではリーゼロッテに何かあったのを知っていると言っているようなものだ。
「まさかあんたがネックレスの犯人?」
「ネックレス?」
思わず口をついた言葉にユリーアが不思議そうにしたけれど。
「う……うぅ」
ズールはあからさまに動揺して冷や汗を流し始めた。
視線を忙しなくまわしている。
なんてわかりやすい。
「そうなのね」
子供相手にも関わらず、ズールはびくりと肩を跳ねさせる。
「ネックレスってどういうこと?」
ユリーアが不審気に二人を交互に見やったので、リーゼロッテはネックレスを指差した。
「あたしはリーゼロッテよ!これのせいで小さくなっちゃったの。これのせいで死にそうなのよ!」
リーゼロッテの大声に、ユリーアがまあっと両手を口に当てて驚く。
そしてズールの方へと一歩踏み出した。
その顔はいつものお人形さんのようでいて、しかしいつもより表情がわかりやすい。
嫌悪、侮蔑、そういった感情だ。
「どういうことなの?」
険しい眼差しをユリーアが向けると、ズールはあからさまに動揺しだした。
「僕じゃない!僕は言われたとおりにしただけだ!君のために!死ぬなんて聞いてない」
「はあっ?」
ズールのまくし立てた言葉にリーゼロッテがキリキリと眉を寄せて。
「それどういうことよ」
凄い剣幕で一歩詰め寄ると、ズールの足がジャリと後ずさった。
「僕は関係ない!それがユリーアさんのためになるって!」
動揺のままにズールが身を翻して中庭の奥へと走り出した。
思わずリーゼロッテも走り出す。
ぼてぼてと走るズールは鈍足だが、リーゼロッテも歩幅が小さいので追いつかない。
思わず舌打ちが出たときだ。
ぐいと横から右腕を引っ張られた。
ユリーアかと思ったが、そこにいたのはジュリアだった。
憤怒の形相は周囲のことなど考えていないようで。
「あんたさえいなければ!」
リーゼロッテの腕を掴んでいない左手を掲げた。
その手の先にゴウッと赤い炎が渦巻き現れる。
怪我をさせるとかそんなレベルではなかった。
(呪いより先に死んじゃう!)
ガッチリと掴まれた腕を振りほどこうとするが、爪がギリギリと逆に食い込んでくる。
痛みに顔を顰めたとき。
「やめなさい!」
がばりと何かに抱きしめられた。
その人物はユリーアだ。
ぐいっと力任せにジュリアから離され、炎からかばおうとさらにリーゼロッテの小さい体を抱きしめる。
けれどジュリアはそれさえお構いなしに、炎をリーゼロッテへと襲わせた。
赤い炎が飲み込むように向かってくるのに、ユリーアを巻き込むわけにはいかないと腕を振りほどこうとする。
「やめろおぉ!ユリーアさんになにする!」
ズールの声が響いたかと思うと、大量の水が鋭利な刃物のように炎に襲い掛かった。
リーゼロッテ達の頭上で、大量の水蒸気が炎と水の相殺によって溢れかえる。
「邪魔しないで!」
再び炎を繰り出すジュリアに、リーゼロッテ達を挟んでズールが水で応戦する。
そのどれかひとつでも当たれば致命傷になると、頭上で相殺し合う魔法にリーゼロッテはユリーアと姿勢を低くして蹲った。
「ま、待てよ!狙いはリーゼロッテだろ!こ、こいつなら、もうすぐ死ぬ!ユリーアさんが王妃になるために!」
「なんですって?」
その言葉に、訝しげにジュリアは止まった。
「そいつはあと少しで、し、死ぬって聞いたんだ、ユリーアさんを巻き込むな!」
「勝手に殺すな!」
ズールの言葉にリーゼロッテはがばりとユリーアの腕の中で顔を上げた。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
ヒステリックな声が中庭に響いた。
それはズールではなく、ジュリアだった。
「そんなの関係ない!」
拳を握りしめて叫んだジュリアの目は真っ赤に充血している。
あれはもう、リーゼロッテに何かするまで止まらないと思い、ユリーアの腕の中で彼女の体を突っぱねる。
「離しなさい!あんたまで巻き込まれる!」
「駄目よ、子供をみすみす怪我させられない」
「あたしはあんたと同い年よ、子供じゃないから!」
ユリーアを巻き込まないように離れようとリーゼロッテがさらに身じろいだところで。
「きゃあっ」
ふいにユリーアの体が離れた。
見れば、ズールがユリーアの体をリーゼロッテから乱暴に引き離したのだ。
「き、君は王妃というふさわしい地位に就くんだ!こんな奴に慈悲なんてかけなくていい」
「やめて離して」
喉を引きつらせるユリーアを乱暴に抱き寄せるズールに、リーゼロッテがその腕を離させようと飛びついた。
「乱暴するな!変態!」
「うるさい!」
バシンと頬を殴られてリーゼロッテの軽い体は、簡単に地面へと叩きつけられた。
「うくっ」
殴られた右頬がジンジンする。
口の中に血の味が広がっていくので、切れたのだろう。
(何やってるの私、にっくきライバルを助けて殴られるなんて)
顔を顰めながらも口元を拭って立ち上がろうとしたとき、ぐいと前髪を細い指がわし掴んだ。
「うあっ」
顔を無理矢理上げさせられた先には、ジュリアが口元を歪めている。
「あと少しなんて待ってられない!今すぐにこの手で消してやる。クレメンス様をずっとずっと好きだった!何にも心を動かさない物静かな彼が!孤高の存在であるクレメンス様が!婚約者にしてほしいって抱きしめたら拒絶されたわ。あんたの一大事に邪魔するなって!やっとこっちを向いてくれた、バラをくれたとおもったのに、勘違いざせてしまったなんて謝られたわ。どうして私を見てくれないの!あの人にふさわしい外見も魔力も持ってるのに!」
まくしたてるジュリアに、誰の事だそれはと思った。
リーゼロッテの知っているクレメンスは全然違う。
おかしくなってリーゼロッテは口元に笑みを浮かべた。
「なによその顔」
「心を動かさない?孤高?目が節穴なんじゃない。あいつはすぐに母親みたいに注意してくるし、思いっきり過保護の過干渉よ。孤高の存在なんかじゃない」
リーゼロッテの知っているクレメンスは、いつだってぼんやりしていたり、笑っていたり、たしなめてきたりと表情がよく変わった。
「そんなのクレメンス様じゃない!」
その言葉にカチンときた。
クレメンスは人間だ。
色んな感情を持っている人間なのだと、リーゼロッテは皮肉気にニヤリと口元を歪めた。
「上っ面しかみてないのに、勝手に幻想いだくな」
言った瞬間、前髪を掴まれた力が強くなった。
けれど気にならなかった。
自分の言葉で、リーゼロッテは頭の霧が晴れたように気づいた。
自分もそうだと。
ティモシーのことを王子という表面だけしかみていない。
彼を、血の通った人間として見ていない。
(一緒じゃない、こんなやつらと)
自分が幸せになるためだと他人を意のままにしようとして、自分以外の人間のことなんて考えたこともなかった。
それが、こんなに醜くて最低な行為だったなんて。
(何よ何よ何よ、馬鹿みたい。いまさら、気づくなんて)
呆然とジュリアを見上げるリーゼロッテに、ジュリアは彼女が諦めたのだと確信して優越を感じる笑みを浮かべた。
「あんたなんか消えればいい!」
前髪を掴んでいない方の手で炎を呼び出し、ジュリアの手が振りかぶる。
(もう、また人に殺されるなんて、自業自得かもしれないけど、やな終わり方ね)
ああ、でもそういえばクレメンスはずっと守ってくれたなと思う。
素のリーゼロッテを見ても、大事にしてくれて。
(なんだ、母親なんかじゃ、ないじゃない)
ユリーアの悲鳴が耳を打つ。
(今になって、あんたのこと好きと思うなんてね)
ゆっくりとスローモーションに映るジュリアの動きに目を閉じれば、クレメンスの顔が浮かんだ。
(冗談じゃないわ)
最期の最期で未練が出来るなんて。




