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カシャカシャと泡だて器でボウルの中の生地をリーゼロッテはかき混ぜていた。
本日は学校にある食堂の調理場を借りてマフィン作りの最中だ。
混ざった生地を銀色のカップに流し込んでオーブンに入れると、ふうと一息ついた。
今日はティモシーにプレゼントするためのお菓子を作っていた。
「貴族らしくはないけど、私の得意なことってこれしかないもんね」
逆に言えば、これだけは自信があるのだ。
小さい頃から何度も作ってきた。
味はクレメンスもお墨付きだ。
漂ってきた甘い焼き菓子の匂いに鼻をひくつかせ、そういえばと思う。
「はじめてクッキーつくった時のこと思い出すなあ」
あの時はクレメンスが隣にいて、ドタバタと色んな場所を汚して作った。
あれ以来、クレメンスが来るたびにお菓子作りをしていたのだ。
「クレメンス以外に食べさせるの初めてだ」
そう考えると、途端に上手く出来ているだろうかと不安になってきた。
そわそわとオーブンの前を行ったり来たりして、ようやく焼き上がったマフィンをテーブルの上に出す。
「よかった、上手く焼けてる」
うんうんと自画自賛して、リーゼロッテはラッピング用の袋とリボンを用意し始めた。
焼き菓子は本当なら一日置いた方がしっとりして美味しくなるが、このテンションのまま渡しに行こうと決意する。
そこではたと気づく。
「クレメンスにも持って行ってあげようかな」
クレメンスはリーゼロッテのお菓子をいつも一緒に食べていた。
ティモシーにだけ渡してもいいのだが。
「ま、このあいだのお礼もあるしね」
そうと決まればと、マフィンをラッピングした。
エプロンを外して髪がボサボサになっていないか手で軽く整えて、いざ出陣。
食堂を出て、ティモシー達のいるであろう上級生の教室がある階へと向かった。
ティモシーのクラスに向かっていると、ちょうどよく前方からクレメンスと連れ立って二人が歩いてきた。
ラッキーと思いながら、マフィンを大事に持ち直して。
「殿下」
よそ行きの声で呼び止めた。
「やあ、リーゼロッテ嬢」
「こんにちは」
なるべく可愛く見えるようにっこりと笑うと。
「あの、これよかったら」
マフィンの入った青いリボンの袋を差し出した。
その途端、ふんわりと甘い香りがただよう。
「町で買って来たのかい?」
「あ、そうでは」
「しかし私は甘い物が苦手なんだ」
作ったのだと言おうとして、リーゼロッテは笑顔を浮かべたまま固まった。
ティモシーの横で、クレメンスが眉根を寄せているのにも気づかない。
「すまないが、それはリーゼロッテ嬢が食べるといい」
「あ、そう……ですね。失礼しました」
差し出していたマフィンをパッと後手に隠した。
口の中がカラカラになっていくような気がしたとき。
「殿下」
「やあ、レイナ嬢」
ふんわりとしたピンクのウェーブヘアを揺らしながら、レイナが本を胸に抱いて歩いてきた。
そして、持っていた本をそっと差し出した。
「図書室でお会いした時に探してらした本を見つけたので、よければと思い持ってまいりました」
「そうなのか!ありがとう」
ぱあっと笑みを浮かべたティモシーは、嬉しそうにレイナから緑色のカバーの本を受け取った。
「いえ、お気になさらないでください」
レイナは淑女らしい控えめな笑顔で静かに会釈をした。
その様子は、ご機嫌伺いというような不純さは見当たらない。
急に自分が惨めになって、リーゼロッテはティモシーがレイナへ目線をやっているあいだに、そろそろと後ずさり走り去った。
走る途中で、食べてもらうつもりだったマフィンの袋がカサカサと音をたてる。
普段は考えないようにしていたが、ここまで盛大にから回ってしまうと、さすがに落ち込んだ。
中庭まで来たところで足を止めると。
「リジー!」
名前を呼ばれて振り向けば、黒いローブを翻してクレメンスが追いかけて来ていた。
さっきの一部始終を見られたことが恥ずかしくて。
「甘いの苦手ってなんで教えてくれなかったの!」
クレメンスは何も悪くないのに、非難する言葉が口をついて出てしまった。
唇を噛みしめると、クレメンスの長い指がそっと唇を撫でる。
「リジー、傷になるから……僕も殿下の嗜好は知らなかったんだ」
すまなさそうに言うクレメンスに、八つ当たりだと分かっていてもキッと睨み上げて、手を振り払った。
「こんなの作って馬鹿みたい!」
持っていた袋を地面に叩きつけようとしたが、それはクレメンスの手によって阻まれた。
ひょいと奪われ中身を手早く取り出すと、クレメンスはマフィンに齧りついた。
思わずそれを見て目を丸くするリーゼロッテの目の前で、クレメンスは二口三口と口に運んで食べきってしまった。
「やっぱりリジーの作るお菓子は美味しいな。殿下はもったいないことしたよ」
完食してしまったクレメンスに、リーゼロッテは唇を引き結ぶと潤みそうになる目に力を入れて、ぼすんと幼馴染の胸に小さくパンチをした。
「馬鹿みたい。変な同情なんていらないのよ、クレメンスの馬鹿」
ぼすぼすと何度も胸を叩いてから気まずそうに視線を逸らすと、リーゼロッテはスカートのポケットからクレメンス用にラッピングした、緑のリボンの袋を取り出した。
それをクレメンスの胸に押し付ける。
「リジー、これは?」
きょとんとしたクレメンスがそれを手に受け取ると、ことりと小首を傾げる。
「あんたの分よ。このあいだのお礼なだけなんだからね」
苦しい言い訳をするリーゼロッテに、クレメンスがしんなりと瞳を細めた。
「じゃあこれは夜にゆっくり食べるよ。ありがとうリジー」
嬉しそうに小さく笑うクレメンスに、リーゼロッテは余りものだからと小さく唇をとがらせていたのだった。
その後、クレメンスに女子寮の前まで送ってもらった。
不覚にも半泣きのような姿を見せてしまったことを遺憾に思いながら玄関のロビーに入ると。
「ごきげんよう、リーゼロッテさん」
そこにはクレメンスに釣り書きを送ったというジュリアが腕を組んで仁王立ちしていた。
その表情は険しくて、どう見ても機嫌がいいとは言い難い。
面倒だなあと思いながらも名指しされては無視も出来ない。
内心溜息をつきながら、リーゼロッテはのろのろと会釈した。
「あなた、自分の立場はわかってるわよね」
「え?」
突然の言葉に、リーゼロッテはなんのことだと、ぱちりとまばたきした。
しかしジュリアはイライラとしたように、きりりと眉を吊り上げていく。
「あなたは殿下の婚約者候補であって、クレメンス様とは無関係なはずでしょう。なのにいつもちょろちょろ付きまとって、どういうつもりなの」
「へあ?」
思いもかけない内容に、思わず素でぼんやりした返事を返してしまったが、そんなことに興味はないのかジュリアはなおも口を開いた。
「いいこと?クレメンス様の婚約者になるのは私なの。釣り書きだって送ってるし、筆頭候補だと言われているわ。幼馴染だか何だか知らないけれど、あの方に近づかないでちょうだい!」
ぐいとフィッシュボーンに編んである髪を無造作に掴んで引っ張られた。
「わかったわね」
低く冷淡な声で言い聞かせるようにゆっくりと口を動かすと、まるでゴミを捨てるように髪から手を離した。
次いでおまけのように突き飛ばされる。
リーゼロッテはドシャリと地面に尻餅をついてしまい、髪もリボンが解けてくしゃくしゃとみずぼらしく乱れた。
言うだけ言ってしまうと、ジュリアは鼻を鳴らして立ち去って行った。
「……なんなのあれ」
ぽかんとあまりの剣幕に吃驚して立ち尽くすリーゼロッテだ。
「今日は厄日か!」
思わず舌打ちしてしまう。
「大体なんで私がクレメンスの事で文句言われなきゃいけないの。あいつも私に口うるさくしてる暇があったら筆頭候補とやらをどうにかしなさいよ」
憤って思わず声を上げたが。
「まあ……今日はいてくれてよかったけど」
無駄にならなかったお菓子の事を思い出して、リーゼロッテはポツリと唇を尖らせたのだった。




