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36:地下牢の影

 調理場のすぐ先は、ちょっとした小部屋のようにも見える廊下になっていて、その次は左右に分かれた長い廊下だった。

 外が曇り空ということもあって、窓から射し込む光は弱く、屋敷の中はどこもかしこも薄暗い。

 左手の方に進むと、大扉が開け放たれた向こう側に、食堂として使われていたらしい大広間が見えていた。

 少しだけ頭を入れて中を覗き込む。

 扉の後ろやテーブルの下に隠れたらどうかしら、という考えが浮かんだけど、単にやり過ごすのではなく、相手はわたしのことを捜しているのだから、それでは不安だわと思い直す。

 近くの別の部屋も覗いてみるが、そういう目線で見ると身を隠せそうな場所はどこにもなかった。

 調度品の類がほとんど引き払われている。

 元の家主が売り払ったのか、野盗がそうしたのかは分からないけど。


 身を隠せそうな場所がないと分かるとどんどん焦りが強くなってくる。

 今にも野盗がここにやってきて見つかってしまうのではないかという恐怖で心がいっぱいになる。

 何もできずにウロウロとしている間に遠くの方で物音が鳴った。

 わたしが入ってきた調理場の方だ。

 とっさにまだ見ていない二階へと伸びる階段に視線をさまよわせる。


 上? 上に逃げる?

 でも、隠れる場所がなければ結局追い詰められるだけだわ。


 そのとき、不意にルギスの書簡に書かれていた文言の一つを思い出す。


 〈地下牢、またはその用途に十分な密室〉


 それが思い浮かんだから気が付くことができたのか、それとも先にそれが目に入ったから思い出したのか分からない。

 ──どちらでもいいわ。今大事なのは、二階へと続く階段の真下に、怪しい跳ね板が見えているということだ。

 間に噛まされた木片によって少し浮いているから、どうにか気が付くことができたけど、それを外して完全に閉じれば上からでは容易に見つけられないだろう。


 それから先の行動は自分でも驚くくらい機敏だった。

 わたしは僅かに開いた隙間に手を差し込むと、音を立てないように祈りながら思い切り持ち上げた。

 その跳ね板は、見た目からは想像も付かないほど重たかった。

 でもこっちは死に物狂いだ。

 普段から力仕事に慣れているリゼの肉体だったことにも助けられたと思う。

 その下に見えた階段に自分の身体を押し込み、ゆっくりと跳ね板を下ろす。

 つっかえにされていた木片を取り除くと、隙間から光すら漏れて来ないほど、ぴったりとはまり込み完全な蓋がされた。

 視界が暗闇で塞がれた瞬間、上の方で乱暴な足音が響く。

 一瞬焦ったけど、耳を済ますと足音はわたしの真上を通り過ぎ、二階の方へと歩き去るのが分かった。

 それでホッと胸を撫で下ろす。


 とりあえず身を隠すことができた。

 あとはノイン君が奴らを蹴散らして戻ってくるまで身を潜めていればいいだけ?

 でも、本当にあの人数にノイン君一人で勝てるのかしら?

 門の外に見えた野盗は、墓地で出会った数より大分多かったような気がするけど……。

 けど、気になるけど、わたしが出ていっても役には立たないわ。

 むしろ、わたしが人質に取られるようなことになれば、逆にノイン君の足手まといになってしまう。

 だからノイン君もあいつらの気を引いて、わたしとは逆向きに走り去ったのよ。

 わたしの役目はあいつらに捕まらないようにすることだ。

 ……ノイン君を信じて、ここで助けが来るのを待つしかない。


 わたしは地下へと続く階段の下り口でジッと息を潜め、そう結論を出してから、ほのかに見える明かりを目指して真っ暗な階段を下りていった。

 転ばないよう慎重に、靴の裏で一段一段階段のへりの感触を確かめながら下りていく。


 地面の下にあるはずのこの空間に、どうして光があるのかしら?

 その理由は光の真下までたどり着いてみると分かった。

 地上から光と空気を得るための穴が開けられているのだ。

 人の頭一つ分も通らないほどの小さな穴が斜め方向に伸びて地上まで続いている。

 今にも雨が降り出しそうな曇り空の、頼りない光だったけど、真っ暗闇の地下ではこの上ない慰めになった。

 まず気持ちが落ち着いた。

 そして、落ち着いた気持ちで目を凝らすと、その穴からの光が届く位置に、ランタンが置かれていることに気が付く。火付具もいっしょだ。


 少し迷ったけど、この暗闇に広がる地下室のことを知りたいという誘惑には勝てなかった。

 覚束ない手つきでどうにかランタンに火を灯す。

 浮かび上がった地下室の様子にわたしは目を見張った。

 思いのほか、人の手が入っている。

 テーブルや椅子、棚などの調度品。

 それだけでも、荒れ果てた一階より、よほど人が暮らしていた痕跡が見て取れる。

 それに、燭台や書き物をした跡、装丁のしっかりした書物までもが置いたままにされていた。

 隣のテーブルにはガラス瓶やすり鉢など、薬の調合に使われそうな器具も沢山並んでいる。


 ……これは、当たりかもしれない。

 荷車にあった大量の毒草のこともある。

 やっぱりここが、メフィメレス家の秘密の実験場なんだ。


 手元しか照らせない僅かな明かりでは物足りなくなったわたしは、ランタンからテーブルの上にあった燭台に火を移した。

 机の上に乱雑に広げられていた紙片に目を通す。

 アダナス語だった。

 殴り書きにされた読みにくい文字を辛抱強く読み解いていくと、それがいずれも薬の材料の比率を示したメモ書きであることが分かった。

 失敗、失敗、失敗。失敗の文字が並ぶ。


 もっとないかしら。

 こういうメモではなく、ミハイル様が心配なされていたような、メフィメレスの良からぬ企みの証拠となる文書は?


 調子付いたわたしが、別の場所も探ろうとランタンを片手に、広い地下室を振り返ったときだ。

 光が届かない暗闇の先から物音が聞こえた。


 ネズミ!? ……ではない。もっと大きな何かだ。


 用心深くランタンを掲げると、その先に鉄格子が見えた。

 〈地下牢〉?

 本当にそんなものがあったんだ。

 でも、一体そんなもの、何に使うの?


 当然、何者かを閉じ込めるために使うに決まっている。

 牢とはそういうもの。

 そんな当たり前のことを、わたしは分からない振りをしようとしていたのだった。

 こんな場所で、そんなものを見つけたくはないと思った。

 良くない想像が頭に浮かんで離れない。

 こんな光も届かない暗闇にずっと閉じ込められているだなんて、そんなこと……!


「うう……」


 ネズミなどではありえない、明らかな人の(うめ)きを聞き、わたしは現実を直視する。


「ミハイル様……? ミハイル様なのですか?」


 ランタンを頭上高く掲げ、わたしは牢のさらに奥を見ようと目を凝らす。

 そうだ。もともとこんな最悪の考えを胸に秘め、危険も顧みずにここまでやって来たのだった。

 ミハイル様をお救いするために。

 だから、ここで発見できたのは喜ぶべきことだ。

 たとえ酷い拷問を受けていたとしても、お命があるのだから。

 わたしはそう思い直すことで恐怖心を振り払い、硬直していた足を前に踏み出した。

 鉄格子のギリギリ近くまで顔を寄せ、さらにその向こうまで腕を伸ばしてランタンを掲げる。


「──っ!」


 突然瞳に射した光に思わず顔を逸らす。

 光の正体は鏡だった。

 どういうわけか牢の奥に大きな姿見(すがたみ)が立て掛けて置いてあり、そこにランタンの光が反射して目に入ったのだった。

 そして、そこから僅かに視線を下ろすと、鏡の前に男が一人、その鏡にしがみ付くようにしてその中を覗き込んでいるのが見えた。

 座り込む、というより、半ばうつ伏せに寝転がるような体勢から、上体だけを起こして顔を鏡面に密着させている。

 何が男にそうさせるのか……。

 狂気を思わせるその異様な姿にわたしは息を飲む。


 このときのわたしの感情は一言では言い表しづらい。

 見るも無残な光景を目にしたというのに、わたしは驚きや憐みを抱くよりも先に、それがミハイル様でなくて良かったと安堵していた。

 その非情さ、自分勝手さに失望し、自分自身を責め(さいな)む。

 そんな苦い感情が、一瞬は安堵したわたしの心を覆い尽くし、飲み込むように広がった。


 鏡の前の男の人は、ミハイル様とは似ても似つかぬ痩躯そうくで、黄土色おうどいろの頭髪は色艶もなくバサバサに乱れている。

 鏡越しに映る顔は、頬骨が突き出て見えるほどにこけ、目元も落ちくぼみ、まるで亡者のよう。

 唯一目を逸らさずまともに見出せたのは、彼が身に着けた上等な縫製の衣服についてだった。

 この衣装には見覚えがある。

 この国、オリスルトに所属する正規の魔法士隊に与えられる隊服だ。

 そのときになって、ようやくわたしは、ミハイル様がお話しされていた、行方不明の魔法士のことを思い出した。

 彼だ。彼が、その魔法士なのだ。


 なんて酷い。一体いつから?

 立派な魔法士であったかたが、どうしてこのような有り様に?


 わたしは牢の中に突き入れていた腕を引っ込め周囲を探った。

 そして壁に掛けられていた鍵束を見つけると、急いで牢の鍵を開けた。

 正気を失くしているかもしれない相手に近付くなんて、不用意だったと思う。

 わたしがそれほど慌てて駆け寄ったのは、酷い目に遭わされていたのがミハイル様でなくて良かった、という不道徳な考えを頭から追い払いたかったせいかもしれない。


「ご無事ですか? 助けに参りました。お話し、できますか?」


 彼がしがみ付くようにしていた鏡から彼の手をどかし、身体をゴロリと仰向けにして起こす。

 無惨に痩せ細った手足や首筋を直視して、思わず嗚咽を漏らしそうになる。

 だけど、声を発したのはわたしではなかった。

 彼の、色を失いカサカサに干からびた唇が大きく開かれていくのを、わたしは呆然と見守るしかなかった。


「キェエエエエエエエエッ!」


 およそ人の発したものとは思えぬ恐ろしい叫び声。

 その痩せ細った身体の、張りをなくした喉の、一体どこにそんな力があったのかと思うほどの大絶叫が、地下室いっぱいにこだましたのだった。


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