【2】お仕置きと花冠
秋の青空はどこまでも晴れやかだ。澄んだ湖畔に爽やかな風が渡るたび、水面がきらきらと輝いている。
湖畔の野原に、ふたりは並んで腰を下ろしていた。
エヴァンジュリンは白いシロツメクサを摘み、その茎を器用に編み込んでいる。花を傷つけないよう優しく動く細い指を、グラディウスは穏やかに見つめていた。
「エヴァ。それは?」
「この前、孤児院の子どもたちに教えてもらったんです」
「そうか」
ふっと、グラディウスは笑う。
先日、二人で孤児院を訪れた。
子どもたちは最初こそ緊張していたけれど、すぐにエヴァンジュリンになついた。
「私は『ディーおじさん』だったが、君は『おねえさん』と呼ばれていたね」
「……ちょっとホッとしました」
二人で、小さく笑い合う。
グラディウスは何気なく湖の対岸へと視線を向けた。堤防の石組みが、目に入る。
(……随分劣化しているな。あれでは、来年の増水時には耐えられないかもしれない)
水位の変化や補修時期、予算配分などが自然と頭の中で組み上がっていく。
(冬が来る前に簡易補修をするべきか。……いや、むしろ雪解けを待ってから根本的に施工するほうが――)
「グラディウス様」
と、柔らかな声がした。
ふり返ると、エヴァンジュリンが微笑んでいる。にっこりとしているのに、どこか圧のこもった笑みだ。
「お仕事中の顔になっていますよ」
「……そうだったか?」
彼女はグラディウスと同じ方向に目を向けて、言った。
「グラディウス様が思っていたこと、当てましょうか。頭の中で、堤防を修理していたでしょう」
図星だ。
「……すごいな、君は」
エヴァはスカートの隠しから小さな手帳を取り出すと、さらさらと書きとめた。
「……『堤防の補修について、王城に戻ったら担当部署に確認』。――はい、記録しました」
ぱたん、と閉じる。
「ですので、この件はあとにしましょう」
彼女の秘書っぷりに驚かされつつ、グラディウスは苦笑した。
休暇中も油断すると、頭がつい仕事に戻ってしまうのだ。何度もエヴァンジュリンに注意されていた。
「せっかくのお休みです。もっと本気で休んでください」
「……努力するよ」
本心では、思い切り楽しんでいるつもりなのだ。
だが長年染み付いた癖は、そう簡単には消えないらしい。湖面を見つめているうちに、ふとまた思考が走っていた。
(そういえば、今年の夏は藻が増えたと聞いていたな。流れが滞っているのなら、下流の村への影響も――)
「グラディウス様」
またも、呼び止められてしまった。
「休む気概が足りません」
エヴァンジュリンは少し不満そうに唇を尖らせている。
「私とのんびりするのは、退屈ですか?」
「まさか。だが、つい――」
「お仕置きします」
――お仕置き?
その瞬間、ふわりと軽い感触が頭の上に乗った。
草の香りが広がって、エヴァンジュリンはいたずらっぽく笑っている。
「ふふ。よく似合っていますよ、グラディウス様」
「……これは?」
「花冠です」
彼女の手にあったシロツメクサの花冠が、いつの間にかなくなっている。
「これが今日のあなたの王冠です」
優しい瞳で、エヴァンジュリンは笑っている。
「……ずいぶん軽い王冠だ」
「今日はこれくらいがちょうどいいんです」
グラディウスは、頭の上の花冠に手を伸ばそうとした。
「取ったらダメです。もっと重いお仕置きをしますよ?」
「どんな?」
「もう一つ乗せます」
「あはは」
思わず、笑っていた。
「だが、こういうのは君のほうが似合うよ」
「でしたら、私の分はグラディウス様が作ってください」
「……どうやるんだ?」
エヴァンジュリンがすぐそばに座り、グラディウスの手を導いた。
「茎を折らないように、優しく編んでいくんです。――少しずつ、ゆっくり」
「……こう?」
「はい。そうしたら、ひとつ隣の花を、こうやって――」
細やかな作業に、思いのほか苦戦する。
「壊れてしまいそうで怖いな」
この花も、エヴァンジュリンの細い指も。
壊したくないし、誰にも絶対壊させない。
「ふふ。お花って、柔らかいですよね」
「ああ」
王冠の重みなら、誰よりも知っている。
けれど、この軽やかさが――愛おしい。
「――できた」
編み上げた花冠を、エヴァンジュリンの頭にそっと乗せた。
「似合いますか?」
「ああ。とても」
花冠の王と、花冠の花嫁だ。
やわらかな秋風に包まれて、寄り添い合ってふたりで笑った。
***
そんな二人を、今日も密かに見守る者たちがいる。
諜報部の私服護衛に紛れ、外務大臣ヨハン・ペールマンもそこにいた。
本来ならば、デートの観察は職務に含まれない。だがバルデンに「お前も一回見て来いよ。面白いから」と勧められ、人の恋路を覗くなど下品だと思いつつ好奇心に負けた。
そして――
(……なるほど。これは甘い)
片眼鏡を押し上げながら、ペールマンは静かに息を吐く。
花の冠を乗せられて、あんなに素直に笑うとは。
(陛下。あなたは、変わられました)
学生時代に出会った頃から、彼はいつも軽やかに微笑していた。けれどそれは、『王子の仮面』だ。
グラディウスは感情を隠し、能力を抑え、いつも半歩引くような生き方をしている男だった。
『グラディウス殿下! どうしてあんたは本気を出さねぇんだ!』
学院の剣術大会。バルデンが彼に怒鳴ったことがある。
優勝を決する局面で、彼がさりげなくバルデンに勝ちを譲ったからだ。そのとき、彼は笑って言った――『本気を出し過ぎるのも、考えものなんだよ』と。
前王崩御の夜も同じだ。
急遽、王位が転がり込んだときでさえ、グラディウスは動じなかった。
異母弟ランスに譲ることを前提として組み上げた、鉄壁の政治体制。
けれど、実際は――
(ランス殿下ではなく、エヴァンジュリン嬢のためだったのですね)
湖畔で笑う令嬢を見つめる視線は、王のそれではない。
守ると決めた男の目だ。
ペールマンは、小さく笑った。
「……なるほど。たしかに、悪くない眺めだ」
傍らの私服護衛が、小声で言った。
「はい。連日、このようなご様子でございます」
「そうか」
一拍置いて、ペールマンは静かに告げる。
「――感謝する」
穏やかな秋風が、湖面を渡った。





