【1】惚れた男の顔
こんなに長い休みを取るのは、何年ぶりだろう?
即位して7年になるが、休暇と呼べるものは、ほとんどなかった。
だからこそ、決めていた。
この二週間は、思い切りエヴァンジュリンと楽しもう――と。
「エヴァ、今日はどこへ行こうか」
窓から差し込む柔らかな朝の光を浴びながら、グラディウスはエヴァンジュリンに尋ねた。
彼女も、浮き立つ様子で嬉しそうにしている。
「そうですね……」
しばらく考え込んでから、ぽん、と小さく手を打った。
「王立歌劇場に、お芝居を見に行きたいです!」
「ああ。いいね……だが」
思わず、言葉が止まってしまった。
エヴァンジュリンが、ふしぎそうに首をかしげている。
「だが、どうしたんです?」
「……今月の演目が、ちょっとどうかと」
「演目。悲劇ですか?」
グラディウスは、苦笑しながら首を振った。
「喜劇だよ。だが、『婚約破棄モノ』なんだ」
エヴァンジュリンが目を丸くした。
婚約破棄モノ。長く愛されるテーマで、歌劇の定番とも言える。
だが、わざわざ当事者に見せなくても――と、グラディウスは思っていたのだが。
「面白そうですね。行きたいです」
エヴァンジュリンは、非常に前向きだった。
***
――王立歌劇場は、いつもどおりの華やかさだった。
王侯貴族の席ではなく、平民の座る一階席に二人で並ぶ。二人とも、上流市民の装いに身を包んでいた。
人々の笑顔や声が間近に聞こえるこの場所が、グラディウスのお気に入りだ。
「侯爵令嬢ミリア=レーナ! 貴様との婚約を破棄する!!」
舞台の上で声を張り上げる王子役が滑稽で、客席からどっと笑いが湧き上がった。
エヴァンジュリンも、肩を揺らして笑っている。
その横顔を見つめながら、グラディウスは思う。
(……ああ、エヴァにはすっかり過去のことなんだな)
舞台役のヒロインが、毅然とした表情で顔を上げた。
「殿下のお気持ちは、理解しました――私は、この運命を受け入れます」
ヒロインの声に合わせて、グラディウスはそっとエヴァンジュリンに身を寄せる。
「ほら」
「……?」
「昔の君がそこにいる」
声を落として、エヴァンジュリンに囁きかけた。
「ただのお芝居ですよ」
エヴァンジュリンはそっと囁き返した。
「そうだね。君はもっと気高かかった」
彼女にしか届かない声量で、そっと告げた。
ぴくり。と、彼女が肩を震わせる。
暗がりの中でも、耳が真っ赤に染まっていくのが見えた。
その反応を引き出せるのが、自分一人だと思うと悪くない。
グラディウスは淡く笑いながら、彼女の細い指にそっと自分の指を絡めた。
またもや、ぴくっ、と彼女が震える。
「……グラディウス様」
「ほら。良いシーンだよ、よく見よう」
「もう……」
彼女はそっと指をほどこうとしていたが、離さない。そのまま、ずっと手をつないでいた。
舞台では、物語がどんどん進んでいく。
行き場を失くしたヒロインへの、新たな縁談。
意に添わぬはずの婚姻が、やがて真摯な愛へと変わり――。
「私はあなたとともに生きます!」
そう高らかに宣言し、愛する人と抱擁を交わすヒロイン。
客席から歓声が上がる中、夫を演じる俳優が大きく口を開いた――次の言葉は、「愛している」に違いない。
だからグラディウスは俳優とタイミングを合わせて、エヴァンジュリンに囁きかけた。
「愛している――」
真っ赤になったエヴァンジュリンが、弾かれたようにふり返る。
完全に不意打ちだったらしい。
口をパクパクさせているのは、(お、お芝居中に、なに言ってるんですかっ……!)とでも言いたげだ。
パクパクしているその唇に、一瞬だけキスを落とした。
「……っ!?」
――ああ。本当にかわいい。
華奢な肩を抱きながら、グラディウスは最後まで芝居を楽しんでいた。
やがて、舞台は終幕を迎えた。
ハッピーエンドを告げる楽団の華やかな調べと、観客たちのスタンディングオベーション。
「うん。いい芝居だったな」
グラディウスの隣には、力が抜けきったように座席に沈み込んでいるエヴァンジュリンがいる。
「……グラディウス様」
「赤リンゴのようだね。どうした?」
「もう。からかい過ぎですよ……」
エヴァンジュリンは唇を尖らせ、抗議の顔だ。
観劇の邪魔になるほどのことは、していないはずだ。と、グラディウスは思っている。
「すまない。もしかして邪魔だったか?」
「邪魔なんかじゃあ……。で、でも、……」
エヴァンジュリンは視線をうろうろさせて、言葉を探している様子だ。ふと、そのとき。
「……えっ?」
知り合いでも見つけたらしく、エヴァンジュリンは声を裏返らせた。
「グラディウス様! あそこに立っている方って――」
「ん?」
彼女と同じほうを見て、グラディウスは「ああ」と笑った。
「軍務大臣も来ていたのか」
離れた通路に、平民服だが妙に大柄な男がいる。
烈火のような赤髪を短く刈り、鍛え抜かれた体躯が軍人にしか見えない二十代後半の男――軍務大臣のバルデン卿だ。
こちらの視線に気づいたらしく、バルデンは微かに会釈した。グラディウスも、視線を返す。
「……ぐ、軍務大臣が観劇?」
エヴァはそう呟くと、ふたたび頬を朱に染めた。
「まさか、お芝居中の私たちを見ていたんじゃ……」
「見ていただろうね。私服護衛たちに混じって」
あっさり言うと、彼女は両手で顔を覆った。
「っ~~~!!!」
「今さら恥ずかしがることもないだろう? 見たいなら見せてやれば」
「は、恥ずかしいに決まってるじゃないですか。ああ、もう……!」
羞恥に悶える彼女に向かって、グラディウスは手を差し伸べる。
「次は食事にでも行こう」
覆った両手のすき間から、彼女の瞳が覗いている。しばらく躊躇っていたが、やがてこくりと頷いた。
「……そう、ですね。護衛の方がいるのは、分かっていましたし……」
頬に赤みを残したまま、彼女はグラディウスの手を取った。
そのまま二人で立ち上がり、観客の波に紛れていった――。
**
「……あいつ。完全に惚れた男のツラだな」
軍務大臣ヴォルター・バルデンは、鼻を鳴らして苦笑していた。
グラディウスは彼にとっては君主であり、同時に学生時代からの友人でもある。
『罪人の血を引く第一王子』として不遇な立場に甘んじていたときも。
中継ぎの王として即位したときも、ともにいた。
グラディウスは他人に腹を読ませない男だが。それが、あんなにも分かりやすく笑うとは。
「……やれやれだ。すっかり幸せになりやがって」
呆れたように言いながら、つい口元が緩んでしまう。
グラディウスが耐えてきた長い年月を思えば、文句なんて言う気が起きない。
あんな笑顔を見せられては、冷やかすほうが野暮というものだ。
今のグラディウスは、王としてではなく一人の男としての姿。
それを守るのも自分たちの役割だと思えば、悪くない。
「ずいぶんと、長い回り道だったな」
だが、悪くない。
むしろ上出来だ。
バルデンは肩をすくめて笑いながら、二人を追うように人波の中に溶け込んだ。





