第40話《Epilogue①》
――『私が勝ったら、褒美がほしい。君と一緒にチェスがしたいんだ』
――『朝から晩まで、ずっと盤面を囲んでいよう』
――『……わかりました。ぜひ、よろしくお願いします』
そんな約束を交わしてから、ずっと。
あなたがいなくなってしまうんじゃないかと、私は怖くてたまらなかった。
でも。
そんな不安も、今は完全に過去のこと。
*
ここは王宮内の、グラディウス様の私室。
私たちは今、念願のチェスを楽しんでいる。
それはすべてが終わったら一緒に指そうと約束し合った、私たちの『ご褒美』だった。
心地よい沈黙の中、ことり。こつん。と盤上で駒を動かす音が響く。
その音は、まるでダンスの優しい調べ。
今日のチェスでは、ただ勝利を狙うような戦い方はしない。互いの思考を読みあって、言葉の外の対話を楽しむように小卓を囲んでいた。
……でも、やはり勝負は勝負。
さりげなく、私は数手先でグラディウス様の『王』を取れる位置に駒を置いた。良い作戦だと思う。これならきっと、彼に勝てる――。
と、思っていたのだけれど。
「エヴァ。その作戦は甘すぎる」
「え?」
涼しく笑って、グラディウス様は想像もしない方向に駒を動かしてしまった。
「私なら、こうするが」
「あっ」
密かに追いつめていたつもりが、罠を張られていたのは私のほう。いつのまにか逃げ場がなくなっていて、駒を持つ彼の指が軽やかに私の『王』に迫ってくる。
「チェックメイト」
盤上を見つめて、私は「あぁ!」と小さな悲鳴を上げた。……くやしい、また負けちゃった。
「グラディウス様。もう一回お願――……んっ」
顔を上げてそう頼み込もうとしたけれど、最後まで言い終わらなかった。
いつの間にか盤を越えて身を乗り出してきた彼の顔が、すぐ目の前にあって。そのまま、唇を食まれていた。
僅かに離れた唇から、艶やかな囁きが漏れる。
「エヴァは、甘いね」
私の作戦、そんなに甘かった……?
円熟した色香の漂う微笑を前に、悔しがるのも忘れて見入ってしまった。
でもハッとして、すぐに表情を引き締める。
「……こ、今度こそ負けません。もう一回、お願いします」
「いいよ。だがその前に、少し休憩しよう」
小卓から離れると、グラディウス様はゆったりとソファに腰を下ろした。
「おいで」
私も並んでソファに座る。
グラディウス様の合図で、メイドが淹れたての紅茶とお茶うけのクッキーを運んできた。
「そういえば、グラディウス様。本当に2週間もお休みを取られて、大丈夫なのですか?」
紅茶を口にしてから、私は尋ねた。グラディウス様が「2週間の休暇を取ることにした」と言ってきたのは、つい昨日のことだ。私が知る限りでは、国王グラディウスが長期休暇を取るのは即位以来初めてだと思うのだけれど。
「ああ。なにも問題ないよ」
王位継承問題に決着が付き、ベル=ツェルネとの交易も順調。激動続きだった王宮が、ようやく安寧を取り戻したのは間違いない。
……でも、流石にグラディウス様の不在で「なにも」という訳には行かないのでは。
「我が国の臣下と文官は、有能ぞろいだからね。国王が少し欠けても、悲鳴を上げたりはしない」
「そ、そうですね」
三宰相や文官たちがあくせくしている姿が目に浮かんで、ちょっと苦笑してしまった。
「ベル=ツェルネの一件以来ここ数か月、息つく間もなかったからな。流石に命の洗濯をしないと」
グラディウス様は苦笑しながら、お皿のクッキーを一枚取った。そのまま自分の口に入れるかと思ったけれど、なぜか私の口元に運んでくる。
「……なんです?」
「だから、命の洗濯を」
「私に食べさせると、あなたの命が洗えるんですか?」
「かなり洗えるね。ほら、あーん」
洗えるの?
思わず首をかしげたけれど、あまりにも幸せそうなので素直に口を開いた。
さくり。と、軽やかな甘みが口いっぱいに広がる。
「おいしいです。……グラディウス様もどうぞ?」
「君が食べさせてくれるなら」
「な、なにを恥ずかしいことを」
「勝ったらご褒美を増やしてくれるんだろう?」
言いながら、グラディウス様が私を抱き上げた。そのまま膝に乗せられて、後ろから抱きしめられてしまう。さらりとした黒髪が、私の頬をくすぐった。
「グ、グラディウス様……!」
ちょっと……。こんなに甘えん坊な人だった!?
思わず膝から降りようとしたけれど――。
「こんな幸せがあるのなら、頑張ってきた甲斐がある。――もうしばらく、このままで」
(……そんなこと言われたら、逃げるに逃げられないじゃない)
髪や耳に落とされるキスを、もぞもぞしながら受け止めるしかなかった……。
「エヴァ。私の休暇に合わせてくれてありがとう。花嫁衣裳の準備で、毎日とても忙しそうだね」
「ええ。でも採寸が終わったので、ちょうど一段落です」
――花嫁衣裳。
晴れて婚約者になった私たちは、来年に結婚式を行うことになっている。
大陸諸国の諸侯が集う、国を挙げての式典だ。
準備に追われて忙しいけれど、毎日がとてもキラキラしている。
「参ったな。想像するだけで、心が乱れる」
「?」
「花嫁姿の君が、私の隣に立つ姿を」
……。
そんなことを言われたら、私だって心が乱れる。
言葉を探して俯いていると、後ろから抱きすくめられたまま、そっと首元に触れられた。
「――ずっと着けてくれているんだな」
長い指の先にあるのは、私の大事なネックレス。
彼の瞳と同色の、アメジストが輝いている。
「……大切な物なので」
「ひとつでは足りないだろう。新しい物も贈るよ」
「でも、それじゃあ私がご褒美をもらう側になってしまいます」
「君に贈るのが私にもご褒美だから」
「あ、甘やかしすぎですよ……」
「そんなことはない。まだまだ足りない――ようやく私のものになってくれる、可愛い奥さんだから」
ぎゅ。と抱きしめてくる両腕の力が一層強まり、逞しい胸板に響く心音が大きく聞こえた。
その温もりが嬉しくて、私は彼をふり返る。
「……ふふ。チェックメイトですね、グラディウス様」
盤面を挟んでいるわけでもないけれど、そう言わずにはいられなかった。
「ん?」
グラディウス様が、小さく首をかしげている。
「王の心を射止めたなら、私の勝ちだと思いませんか?」
いたずらっぽくそう言うと、彼も楽しげに笑った。
「そうだね」
グラディウス様は、こつん、と額を私の額にくっ付けて囁いた。
「だが私は何年も前から、ずっと君に降参していた。……それに王妃の心を射止めた私も、チェックメイトだと思わないか?」
「クイーンを取っても、チェックメイトにはなりませんよ」
「私たちのチェスだけは、特別なんだ」
そっと吐息が近づいて、互いに甘え合うように深い口づけを交わした――。
こちらでいったん一区切りとなるので、【Epilogue】としましたが、本当のEpilogueは数話先かもしれません。(ゆえにEpilogue①とつけています。)
明日からは「新章:幸せな休暇」として1~2日に一話の頻度でその後の日常編をお送りします。最後まで見届けていただけますと……!
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