第36話
ザクセン卿に告げられた日から、もうすぐ3週間が経つ。
明日はとうとう、議会の日――。勝ち筋が見えないまま迎えた朝、後宮の侍女が私のもとにやって来た。
「王太后マグダレーナ様が、エヴァンジュリン様との面会をお望みでございます」
行くべきか行かざるべきか。悩んだのはほんの一瞬だけだった。
私は呼び出しに応じようと決めた。
あの女が、何を仕掛けてくるかは分からない。私を罠にかけるのか、あるいは脅しに来るのだろうか?
ろくでもないことを企んでいるのは間違いないけれど、彼女の手の内を探れるのなら行く価値はある。
*
「いらっしゃい。あのお茶会以来ね。エヴァンジュリンさん」
後宮のサロンで待っていたマグダレーナ様は、以前と変わらない余裕ある笑みで私を迎えた。今日は取り巻きの婦人たちはいない。彼女と私の、ふたりきりだ。
前回のお茶会のときとは違って、私はアメジストのネックレスをつけていない。チェス大会の優勝祝いに、グラディウス様が贈ってくれたネックレス――それを、この女の目に晒したりはしない。今日はそれを、お守りのように大事に懐の中に秘めていた。
「ご無沙汰しております、マグダレーナ様」
恭しく礼をして、促されるままに着席した。
不自然な静けさの中、お茶会が始まろうとしている。
メイドが用意する、微かな茶器の音でさえ大きく聞こえる――そんな張り詰めた空気だ。
しかし、マグダレーナ様は突然、「ふっ」と笑い始めた。
「……ふふ。嫌だわ、エヴァンジュリンさん。そんなに怯えないで良いのよ? あなたと仲良くするためにお招きしただけなんだもの」
……仲よく、ね。
相手の意図が、まだ見えない。私は静かに彼女を見つめた。
一方、彼女の機嫌は悪くなさそうだ。
「かわいそうなエヴァンジュリンさん。この短期間に、随分と痩せたみたいじゃない? 肌の色つやも悪くてよ?」
そのとき、メイドが私の前にティーカップを置いた。揺れる液面に映る私の顔は、確かに少し疲れているようにも見える。
「不安で夜も眠れない……と言ったところかしら? 選ぶ男を間違えたわね」
目を笑みの形に細め、マグダレーナ様は話を続けた。
「ランスとの婚約を失って以後、あなたがグラディウスの執務室に通い詰めていたのは知っていたわ。すっかり愛してしまったのね?」
私は口をつぐんでいた。こんな問いかけに、答える必要はない。
けれど、彼女は私の沈黙を肯定と受け取ったようだ。
「エヴァンジュリンさんの気持ちも、理解できるわよ? とても有能な男だもの。――でも、あの男は、もう終わり。王の血も引かず、罪と不貞に塗れた汚らわしい女の息子という事実だけがグラディウスのすべてよ。沈む船にしがみつくほど、あなたは愚かな女ではないでしょう?」
ねっとりと穏やかに。まるで、万能感に浸った母親が愚かな娘を諭すような口ぶりだった。
「グラディウスは狡猾で、あきらめの悪い男なの。だからどれほど劣勢でも、最後まで抗うでしょうね。……だからこそ、あなたがグラディウスを楽にしてあげなさい」
私は、感情を落とした視線で彼女を見つめた。
「……楽にする、とはどういう意味でしょう?」
「明日の議会で、ぜひエヴァンジュリンさんの口から言ってちょうだい。『私が望むのは、あなたではない。ランス殿下です』って。その発言が、グラディウスには一番の薬になるはずだから」
……薬。それはきっと、毒薬だ。
私はただ、底冷えした思考の中で彼女の声を聴いていた。
「あとは、わたくしの臣下たちが上手に片付けてあげるわ。そうすれば、グラディウスだってこれ以上恥をかかずに済むでしょう? 泥沼の争いを続けて汚名を重ね続けるよりも、静かに退位させてあげるほうが名誉のため。――グラディウスを愛しているなら、そうするべきよ。愛する男を救うのは、女の役割。そう思わない?」
マグダレーナ様の思考が、はっきりと理解できた。
この女は、自分の勝利を疑っていない。
でもグラディウス様の抵抗を予想しているから、事前に潰しておきたいのだ。
すばやく圧倒的に勝ちたい――だから加護の乙女にグラディウス様を否定させて、彼の拠り所を奪おうとしている。
「私が実際には、ランス殿下を望んでいなくても?」
「ええ、そうよ。あなたはただの娘ではなく、加護の乙女なんだもの。あなたが『ランスを望みます』と言えば、それがこの国の真実になる。この国のためにも真実をきちんと表明して、すべて丸く治めましょう」
「……その前にひとつ教えてください。ガルシア公爵が提出したアリシア妃の手紙。あれは、本物なのですか?」
硬い声音でそう問うと、彼女は声を立てて笑い始めた。
「それは議会が判断することだわ」
その笑みは、どんな言葉より正直だ。
この女はグラディウス様を玉座から引きずり落すために、虚偽に塗れた『真実』をでっちあげようとしている。
「罪人の子が訴える真実と、王太后の臣下が提出した真実。どちらのほうが信じられるかしら?」
この女にとっての『真実』なんて、嘘と欲望で塗り固めらた言葉でしかない。真実を預かる女神の代行者――加護の乙女さえも、都合よく利用できると思い込んでいる。
ならば、私の為すべきことはたった一つだと思った。
「……マグダレーナ様は、『真実』を明らかにすることをお望みなのですね?」
「ええ。その通りよ」
長い沈黙の後、私は悲しげな表情を作って小さく頷いた。
全てを諦めて、要求を受け入れた女のように見えたはずだ。
「――マグダレーナ様のお考え、よく理解いたしました。ご要望通り、私は『真実』をつまびらかにしたいと思います。ですので、どうか明日の議会への参加をお許しください」
「いい子ね」
勝ち誇った笑みを浮かべ、彼女は手を差し伸べてきた。
その手を握り返しながら、私も薄っすらと笑みを返した――。





