第35話
グラディウス様に会えない日々が続いている。
これまで毎日のように政務補佐をしていたのに、この一件以来まったく執務室には入っていない。
彼自身が生まれるよりも過去のこと……三十年近く前の疑惑を覆すなんて。それはきっと、雲を掴むほど難しい。
「……何か、反証の手掛かりはないの?」
ここ数日、私は自室にこもりきりで本を読み漁っていた。魔導科学や筆跡鑑定術、文書の劣化処理技術。様々な資料に手を伸ばしてきたけれど、結論は変わらない。
――アリシア妃本人の筆跡である可能性が高いが、精度には限界がある。
――インクや紙の年代は確かに古いが、当時のものとまでは断定できない。
つまり、どちらもグレーなのだ。
自筆資料がほとんど現存していないアリシア妃の筆跡照合は、精度が低くて『可能性が高い』という結論に留まらざるを得ない。
インクと紙の製造年代は10年から30年前という鑑定結果。……そんなに幅があったら、死後の捏造だって十分に疑わしい。
本物だとは証明できない。
つまり、同時に否定もできない。
「これはもう、真実を突き止める戦いじゃあないわ」
論点は、皆が『どちらの提示した真実』を信じるか。
罪歴のあるアリシア妃の不貞疑惑が浮上した時点で、グラディウス様には圧倒的な不利だ。完全な勝利を収めるなんて、さすがの彼でも難しいはず……。
(グラディウス様を信じていない訳じゃない……)
あの人はこれまで、どんなに不利な局面だって切り抜けてきたんだもの。でも今回のは、あまりに理不尽すぎる。
一方で、ランス殿下は今も投獄されたままだ。
あの不祥事の映像記録は、まだ公にはされていない。情報の早い宮中で彼の愚行は密かに広まっているようだけれど、表立って口にする者はいない。
沈黙の中の政治戦。
次の王がどちらになるか……誰もが息をひそめて盤面を睨んでいる。
提出できないままの映像記録。
グラディウス様が今それを出せば、『論点を逸らした』と切り捨てられてしまう。王家の血筋という最重要の議題に比べれば、ランス殿下の不祥事なんて取るに足らないことだから。
……悔しい。
気づけば、爪先が白くなるほど拳を握りしめていた。
私は、いつかグラディウス様の妃になるのだと思っていた。
その前提が、今はぐらぐらと揺れている。
(……私、怖いの?)
誰が王であろうと、その人の妃になるだけだ――そう割り切っていたはずだったのに。
今なら分かる。
私は、グラディウス様でなければ嫌。
これ以上部屋に籠っていたら、重苦しい気持ちに飲まれてしまいそうだ。
借りていた本を返そうと、政務棟の図書室へと向かった。
図書室に足を踏み入れた瞬間、書物の香りに包まれた。
この静けさが、なつかしい。
図書室は比較的新しい本をその場で読める閲覧席と、年代物の文献のみを保存する蔵書庫とに区切られている。閲覧席側にはいつでも自由に出入りできるけれど、蔵書庫に入るには記名が必要だ。
私のお気に入りの場所は閲覧席の一番奥、蔵書庫のすぐ手前にある席。
(……ここに座るのも、久しぶりね)
昔は、毎日のように通っていた。
「どうせお前はお飾りなんだ」とランス殿下に言われても、せめて無学なままではいたくなかったから。ひとりぼっちで、政治書を読み漁った。
「……」
そんな私に、グラディウス様は「お飾りの王妃に留め置くつもりはない」と言ってくれた……それがどれほど特別だったか、今なら痛いほどわかる。
――お願い。いなくならないで。
恐怖心を鎮めようと、すぐそばにある王国史の棚をふり返った。
革張りの、ずっしりとした分厚い本。独学で勉強しようと決めた少女時代、最初に手を伸ばした一冊だ。
本棚の上の方にあるその本を、踏み台に昇って引き抜いた。
――その瞬間。
「エヴァ……?」
「……グラディウス様?」
抜いた本の向こう――蔵書庫の側から、思いがけずグラディウス様の顔が見えた。
この本棚には背板がない。だから、本を抜き取れば向こう側が覗ける。……でも、まさかグラディウス様がいるなんて。
「……グラディウス様!」
彼のいる蔵書庫に向かいたくて、私は踏み台を降りようとした。
けれど――。
「エヴァ。そのままで」
グラディウス様は、私を止めた。
「……え?」
「このまま話そう。今は、私が王妃内定者と二人きりになったという記録を残したくない」
――記録。
そう言われて、ハッとした。
「君が蔵書庫に入る記録が残れば、同じ時間に名が並んでしまう」
静かに息を継いでから、彼は続けた。
「君の名前が議会に上がれば――私の負けだ」
胸がずきりとしたけれど、納得はできる。
「……分かりました」
「すまないね、エヴァ。顔色が悪いが、大丈夫かい」
グラディウス様の声は、いつものように柔らかい。
「私のことは、心配いりません。でもあなたは、どうしてそんなに平然としていられるんですか……?」
「この程度でうろたえていたら、王なんて務まらないだろう?」
笑っている。ゆったりとした口ぶりだ。
……その余裕の下に、本当はどれだけ緊張を隠しているの?
そう思うと、胸が苦しくてたまらない。
「……勝てるんですか?」
「勝つさ。少々時間はかかるだろうが、最終的には私が勝つ。君の『ご褒美』がほしいからね」
「ご褒美って……チェスのことですか?」
彼は目を細めて頷いた。
「……でも、どうやって勝つんです?」
「今は内緒だ。君だって、チェスの勝ち筋をあらかじめ打ち明けたりはしないだろう?」
ハッとした。
……その通りだ。
「ごめんなさい」
「私を心配してくれているのか?」
「はい……」
「ありがとう」
そんなに嬉しそうに笑わないで。
胸が、苦しい。
「……あなたが勝ってくれないと、私、困ります」
「そうだね。夫がランスでは、君があまりにかわいそうだ」
そんな消極的な理由じゃない。私は――あなたじゃなきゃダメなの。
なのに言葉が喉から出ない。気持ちが込み上げすぎて、なにも言えなくなってしまう。
「……もっとたくさんご褒美を付けます。勝ってください」
「誓うよ」
本棚のすき間から伸びてきた彼の指が、そっと私の手をとらえた。
柔らかく繋がれて、引き寄せられ――。ほんの一瞬、指先にキスをされる。
「……っ」
そのぬくもりが、胸に刺さった。
――何か。どうしても、私にできる何かを探したくてたまらない。
「グラディウス様。私にできることはありませんか? 私物化などではなく、女神の代行者として堂々と議会であなたを支持すれば……」
「君が議会に?」
「ええ。女神の代行者が『あなたを王に望む』と表明したら、空気を少しは変えられませんか?」
「いや。それは結構だ」
きっぱりとした声で、彼はそう言った。
「君を政治の駒にしないと決めている。君は王妃として今後も政治に関わるが、他人に都合よく利用されていい人じゃあない。絶対にそんな生き方はさせない」
――違うのに。
少しでもあなたの力になれるなら、私は何だってしたいのに。
「……少し文献を調べに来ていたんだが、長居し過ぎてしまったな。そろそろ、戻るよ」
そう言うと、本棚越しの笑みが遠ざかった。
「心配いらない。勝つのは私だから」
その声が、いつまでも私の耳に残った――。





