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売雨戦線  作者: 留龍隆
Chapter8:

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93/125

White whale (13)

 白い法衣を纏う男は、静かに立ち尽くしていた。ブレが無く、重心の落ち着いた様子には鍛えられたものを感じる。


 かなり上背があり、理逸より十センチは高いだろう。長く見える首の先に載った頭は剃髪しており、つるりとした頭頂部を隠すように頭巾を被っている。柔和な表情で、遠くを見ているような目つきは先の植田と似た雰囲気だ。


 けれど彼以上に底知れない印象があった。


 目を逸らせないと感じさせる。


 その一挙手一投足に引き付けられ――被った頭巾の下から額や耳の上に伸びる、あまりにも目立つ酷い傷跡にも、しばらく気づけないほどだった。


「三階の定時連絡が途絶えた。銃声もしていた、すなわちお前たちの仕業だな?」


 ぽつりとつぶやいた彼は、スミレ、理逸の順に目だけ動かして視認していき、顎先を撫でている。ふいに視線を外すと、窓の外、下でこちらを見上げる於久斗を捉える。


「組合幹部のお前が……マル被(・・・)と、あのユニットと行動しているのか」


 組合幹部と言って理逸を見、マルヒと言ってスミレを、最後に於久斗を見据えながら駒と呼び、法衣の男はぶつぶつと語りをつづけた。


「あのユニットがここに居るのなら、追っ手として差し向けた掃討部隊はしくじっている。だが練度が高くないとはいえ事前準備マエオキでもない、戦支度のない状況で南古野の人間が掃討部隊を出し抜けるはずはなし。戦術戦略に秀でた者……水道局崩れの都落ちか、多企業軍レギオンに属した者か。なんらかの助力を得たな? 運が良い」


 こちらを見通したことを述べる。

 於久斗と加賀田を伴って郊外から新市街へ逃避行していたのを、見ていたとでも言うのだろうか。あるいは情報リンクか? 求生総研と慈雨の会がつながっているなら、その可能性もある。

 法衣の男はひっそりと立ち尽くしたままで不気味だ。

 理逸はスミレを背に隠すように半歩前に出ながら、男に問う。


「あんた、慈雨の教祖……だよな」

「無駄な問いかけだな? 是と答えても非と答えても疑いは晴らせない。だがあえて答えておこう。大曾根峰阿おおぞねみねあ。お察しの通り南古野の教祖は私だ、二代目の三番」

「その物言い。兄貴を知ってるのか」

「存じている。ああそういえば……ずいぶんとこの場には多いな? 私に縁のある者が。我が信徒であった義兄を持つお前(サンプルNo.86)。妹が信徒であるあの男(サンプルNo.960)。我々の盛った毒で両腕の神経を蝕まれたあの男(サンプルNo.345)


 なに、と理逸は背筋が粟立つ。

 大曾根が自分たちを呼称するサンプルとはなんだ。それに、盛った、毒? 織架の神経障害は、南古野を広く襲った『不幸な薬害事件』が原因のはずだ。それを、『盛った毒』?


「加えて我が教化型インプラントによる機能拡張ブーステッドで思考傾向をかたちづくったあの少年(サンプルNo.915)


 この言葉に、背後でスミレがキレるのを理逸は感じた。彼女は子どもに手出しする相手を嫌悪し、断罪する。

 だがその直後の言葉の方が、さらなる動揺を招いた。


「そしてマル被――サンプルNo.1。綴じた現実(クローズドサークル)の主、C計画のかなめ。研究を進めるためのモーヴの代わりはすでにできている。娘、我々と共に来い」

「……は?」


 スミレへの呼びかけの意味がわからず、理逸はあっけに取られた。

 けれどスミレにとっては、ここに含まれた用語に思うところがあったらしい。

 殺気に近かった気配がなりを潜め、普段ほとんど見せない、困惑の色が声に感じられた。


「まさか……求生は、ゎたしを、泳がせてぃたと?」


 大曾根は答えない。

 ただ、窓から下の方を眺めた。

 もったいつけたその仕草に、逆に理逸が冷静になった。


  視線誘導。

   同調行動。


 一瞬早く、そこに気付いて理逸は逆を見た。入口側のドアにはいままさに突入してくる兵が居り、選択肢もなく理逸は引き寄せで動きを阻害する。銃撃の方向を逸らし、間合いに駆け込んでから振りかぶる《白撃》を打ち込んだ。

 しかし掌で受け止められている。

 兵の目には青の光。機構運用者だ。

 顔に飛んでくる拳を感じて反応しかけると、腹部に逆の手で掌底が入る。吹き飛んで室内に押し戻され、がは、と反吐を口から放った。


「反応はいいが判断力には欠けるな? 詰みに気づけ」


 かたわらでは大曾根も、目に青の光を宿してスミレの腕をつかんでいる。亜式拳銃は弾かれたのか床に落ちており、抵抗手段は削ぎ取られた。

 しかも窓の外からは、悲鳴が聞こえていた。


「や、やめろぉ!」


 という織架の声につづき、言語にならないハシモトの絶叫が響く。

 襲われている? 誰にだ? その疑問への答えは大曾根から現れる。


多胡於久斗(サンプルNo.960)の洗脳は解けていない。四番の男(サンプルNo.345)は機構運用者以外には、とくに体術に勝るお前(サンプルNo.86)のような相手に勝てない駒であることは明白。おとなしくしろ」


 絶体絶命の状況となっていた。室内にはさらに追加で三名の兵が乗り込んできており、その全員が目に青の光を宿す。

 ひとりでも手間取り数の利がなければ倒せない機構運用者が、大曾根を入れて五名。

 窮地にもほどがあった。


「まだ安心はできないがな。サンプルNo.1、もし階路コースの発動を見せるようであればその男も下の子どもも即座に射殺する」


 腕をねじり上げて吊るすようにしながら、大曾根は無表情にスミレへ言い聞かせた。

 ……階路? 機構運用の際に効率化のため体に刻む、微機ナノマシンの流入経路、だったか。最初に遭ったときからスミレが見せていた、茨のように指先へ伸びる黒い痕跡。

 とはいえあれは、統率型拡張機構《ハイ=エンデバイス》があったから使えたもののはず。いま機構を失っている彼女には、使用できないはずだ。

 そのように考えているのが理逸の顔から読み取れたか。大曾根は告げる。


「統率型の破損はフェイクだ。この娘にとってあれは普段使いのサブでしかない。必要だったのは体内に投与型(インストール)として宿す(されている)――最終焉収斂機構ローデバイス。そうだな? すべての機構デバイスを支配下に置き、すべての拡張を繋いで収斂させる『おわりの機体』よ」


 大曾根の言は、ほとんどよくつかめなかった。

 けれどひとつだけ、ローデバイスという単語はわかる。それは過去に話のなかで何度か出てきた、機構の最上位機種。

 そんなものがスミレのなかに宿っていると?


「なんら、説明がなかったようだな? 無理もない。やんぬるかな。お前もこの何があろうと生き残る(・・・・・・・・・・)女に、振り回されただけだな?」

「なにを、言ってやがる」

「これでは朔明も浮かばれない」


 無視するように、面白くもなさそうに大曾根は言う。

 またも、兄に触れる言葉だった。

 理逸は知らず拳を握っており、きっと、鏡を見れば目は血走っていた。命を握られた窮地にもかかわらず、理逸の内面は波立っておりまるで譲歩ができそうにない。退かねば殺されると知りながらも、退けば己を保てない。

 そう理解し、結局は退けなかった彼は教祖をにらみつけた。


「兄貴に対して親しげだな、お前」

「愚問が多いな? 親しかったのだから、親しく語るに決まっている。お前は朔明とは大違いだ。あるいはあれと私のあいだには言語に依らない理解を得られる信頼というものが多分に含まれたということか」

「いちいち癇に障る物言いするんじゃねえよ。なんなんだ、お前は」

「なにと言われて答えたところでお前の納得するものは多くはない。名をくれてやった身というのが、もっとも端的ではあるが」

「……名を?」


 ざわりとした。汗が引く。

 心の臓をつかまれたようなこの心地が、ひさしく感じていなかった、己の根幹を揺らす心的重圧プレッシャーによる寒気であると、理逸はまだ気づけない。

 気づけないうちに、突き付けられる。


「三番。お前の名乗る【理逸】との名は朔明に頼まれて私がつけたものだ」


 突然の言葉に、理逸は固まる。

 極めてつまらない事実を告げる顔つきで、大曾根はつづけて言う。


「字はなんでもよかったそうだが、あれは学がなく己の名のほかは識字もできない身だった。故、私へ頼んだのだろう。読みの音の案だけはあれが用意したが……リイチ、ニジミ、キーウィ……そんなところだったか? 私は面倒に思い、『道逸すれど道理逸(・・)することなかれ』という慈雨の標語から取ってやった。それだけだ」


 面白くもなさそうに。

 理逸が今日まで抱えてきた、最後の日に起きた兄との確執の原因であるこの名を、大曾根は本当に無意味で無価値なものであると告げた。

 ずっと、「お前の名に由来も意味もない」との朔明の言葉に悩まされてきた。

 それでも、あれはなにかの言葉の綾ないし苛立ちからの虚言で、本当はなにかの意味や願いが込められているのではないかと。そう思い、願ってきた。

 だがちがった。

 本当に、己の名には意味などなかった。

 力が抜けていくのを感じた。


「捕えよ」


 大曾根が指示する。四人の兵が輪を狭めるように近づく。スミレもとうに腕をねじられて大曾根に組み敷かれそうになっている。

 身をよじり理逸は立ち上がろうとする。スミレを助けねば、と思った。これまでもそうしてきたからだ。

 だが、なぜこれまでそうしてきたのだ?

 ……そうすると決め込まねば己を保てなかったからだ。

 無価値な自分が生き残り、多くを助けられたはずの兄が死んだ。

 であれば、自分が兄の代わりをしなくてはならないと、そう思ったのだ。

 だから助けてきた。殺さずにきた。兄なら救えたはずの数多くの命を救わねば耐えられない。なにせ兄は、加賀田の言によれば敵をすら殺さずに封じてきたのだ。

 助けねば。

 助けねば、

 俺の価値はもっと、落ちる。

 だから助けねば。

 でも、

 落ちるまでもなく、俺の価値は元より無かったのだとしたら。

 もはや『耐えられない』などというまでもなく、そのような資格もなく。

 むしろ、『耐えるべきでない』――――兄にとって負担でしかなかった、そんなおぞましい存在であったのなら。

 自分の価値など、そんなものを考えようとするのもおこがましい存在だったとしたら。


 震える視界の中、掲げようとした掌が揺れる。

 手を握り締めることができない。

『引き寄せ』を使うことがこわい。

 兄をこの力で救えたなら、など――そんなことを考えて生きてきたことすら、醜く無様で愚かしかったのだとしたら。


 俺は。



「――――――ッ邪魔ぁぁああああッッ!!」



 思考をすべて吹き飛ばす劈声つんざきごえが響き渡った。

 大音量のスピーカーを設置したような爆音は、おそるべきことにただの個人から発せられている。

 鼓膜が破れたのではないかと思った。きいんとして、ぅワんワンと耳鳴りがする。

 音の方を見た。

 フリルが躍っている。


 長身を躍動させて入口から一歩で間合いをまたぐ女が、暴の風を振りまいた。


 ドレスを構築する不言色いわずいろをした流れるような生地を、ところどころに空気孕み下から押し上げ留めようとしているような……そんな、スカート部で段々になったフリルが、風に舞うように波打つ。

 それが凄まじく長い脚から放たれた蹴りの余波であることに気付いたのは、四人のうち一人が視界から消えた瞬間だった。

 蹴り飛ばされて窓を割り、一人がこの部屋から消えている。

 残り三名が即座にフリルへと銃口を向けていた。撃っていた。速度は尋常ではなかった。

 しかし機構デバイス戦において勝利するのは常に先に動いた側、なのだそうだ。


「遅い遅い」


 空中に跳んで目で追わせ、天井を蹴りつけ即座に戻る。異常な反応速度を示す彼女の厚めの唇の端には、犬歯に貫かれるようにかみしめられた青い切手のような向精神加速薬アクセラが二枚。唾液と舌が青く染まっており、長い睫毛の奥で彼女の目がこれまた青く、血走る。

 二枚使い。これを理解して、三名は動きのギアを変えたと見えた。二枚の向精神加速薬で出せる速度・読みの深さに対応しようとしたのだ。後手であっても問題はない、観察眼があれば機構戦はひっくり返せる。相手の手札になにがあるかを前提として計算しなおせば、けっして勝てないということはまずない。

 しかし彼らにとって最大の問題は。

 相手しているのが前提をひっくり返す怪物・羽籠宮婁子々であることだった。

 彼女が口を開く。

 ぞろりと歯をのぞかせ、三日月を描くように笑う。

 口の中にはさらに二枚の向精神加速薬が、舌に貼りついていた。


 気づけば理逸とスミレは窓の外に居た。


 婁子々によって小脇に抱えられ、飛び出している。あの三名と大曾根はどうした? わからない、と言わざるを得ない速度だった。フリルの暴風が吹き荒れたことしかわからない。抱えられたまま視線を上向け、理逸は婁子々に声をかける。


「婁子々、お前っ」

「だぶんあど、二十秒ぢょいだわ、あだじ」


 先の絶叫は音を操る《陸衛兵》の感覚模倣ラーニングだったのだろうが、無理がたたって喉が裂けたらしく彼女の声はぎざついていた。おまけに無茶な四枚使用の代償か、すでに目の光は明滅しはじめており瞳孔が開き切っている。

 ずどん、と着地。三階からの、しかもひと二人抱えての重さをどのような身体運用でか受け流し、さらに婁子々は走る。


「深々ざんだぢ、たずげたがっだ、けど」

「もういい下ろせ、無理するな!」

「無理、上ば、割りごめ、ながっ」


 目鼻耳口、どこからも細く血が流れ始める。もう限界だった。

 がくんとつんのめり、婁子々は路面に倒れ伏した。投げ出された理逸とスミレがごろごろと転がってから身を起こすと、彼女は長身をぎゅうっと赤子のように縮めてびくりびくりと痙攣している。過剰摂取オーバードーズだ。


「婁子々!!」


 どうする。どうすればいい? 機構調律師デバイスチューナとして織架に応急処置をしてもらえばまだ間に合うか? いや、そもそも織架とハシモトは無事か? 於久斗はどうなった? 大曾根たちは追って来るか?

 パニックのなか、理逸は上を見た。

 大曾根がこちらを見ている、ないし銃撃で狙っていたらまずいと思ってのことだ。

 しかし視線は、そちらではなく――さらに上を、屋上の方を見ることになった。


「あ」


 なんたる、タイミングなのか。

 それは屋上での戦いが決する瞬間だったのか。

 いつも喫煙組が煙草をふかしていた、いつも彼女が片手にくゆらせていた、いつも彼女が不機嫌なときに歩き去っていたあたりの、柵を。


 鱶見深々が越えてしまうところだった。


 戦闘の結果なのだろう、彼女の痩せた身が吹き飛ばされて。

 柵にぶち当たり、少しスピードが緩んだが、勢いを殺し切ることはできず。ぐうっと上体から越えて、身が落ち、屋上の縁より低い位置に体が来て。

 そこから時間が解凍されたかのようだった。

 一気に速度を上げて落ちてくる。

 あの日、下に居たのならきっとこんな景色だったのだろう。

 理逸の視界のなかで、朔明が落ちてくる姿といまの深々の姿とが重なり混ざって幻視されていた。

 


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