Wailing wall (14)
欣怡と安東が益体もない話ばかりになってきた(情報の読み合いを発生させないために、この二人は当たり障りない話をはじめると本当に当たり障りがない……)ので、理逸は三杯目を飲むとそそくさとその場を離れた。
串焼きも食べた気がしない。飲まされた白酒三杯分の重さだけ腹に抱えながら、屋台料理の方に近づく。見れば沟の幹部《竜生九子》・饕餮にして《三把刀》でもある男が包丁振るう、川菜館も出店していた。辛そうだが食欲そそる匂いが立ち込めている。
「うまそうだな」
思わずぼやく。とはいえあまり他派閥の場に近づくのはいただけないので、理逸は安全組合傘下の店が軒を連ねるあたりに来た。
二九九亭という、南古野市外で猪肉を狩猟で調達してくる店が屋台そっちのけで一頭まるまるを豪快に火にかけていた。脂が散るたびにぱちぱちと表面が爆ぜている。肉の香りが弾けている。
たまらず近寄って、店主を片手で拝むようにした。がっつり肉にありつこうとする。
「おつかれさまです」
「あぁん? おう、おつかれ」
「どうも。俺《七ツ道具》三番の、」
「《蜻蛉》の坊主だろ。いい焼き加減のときに来たな、食え、食え」
「……どうも」
通り名の方で呼ばれるのも名前呼び同様気に入っていないため微妙な反応になる自分を自覚しつつ、理逸は軽く頭を下げた。
陽気な店主はひげ面の奥で笑って、手にしていた分厚いナイフを丸焼きへ向ける。刃先を沈ませただけでほろりとほどける肉は、切り取ったというよりも掬い取ったのではと言いたくなるほどやわらかでなめらかだった。
皿に盛りつけたこれを箸でいただきつつ、理逸は深々たちを探した。織架たちの容態が大したことなさそうだと、報告に行くつもりだった。
大抵はこの広場でも、己の拠点である電波塔方面に近い場所を使っているものだが。そう思ってきょろきょろしていると、ほどなくして見つけた。安全組合の人間たちが、近づきがたい……というわけではないだろうが遠慮して少し距離をあけている空間。そのなかに陣取っている。
《七ツ道具》の面々は、天蓋のない卓を囲んでいた。譲二と蔵人は丸焼きの肉を大皿から分け合いながらぼそぼそと隣同士の席でしゃべっており、朝嶺亜は鯖サンドをかじりながら向かいに座る十鱒とチェスに興じている。
十鱒が最初に、近づく理逸に気付いた。片手を挙げて手招く。
「やあ。お疲れ」
「お疲れ様です十鱒さん」
「織架と婁子々の様子はどうだったね?」
「織架のやつはしばらく仕事サボろうとしてる程度には元気でしたよ。婁子々はいつもの服装じゃないこととかにショック受けて落ち込んでました」
肉の皿を横に置きつつ端的に状況を伝えると、十鱒はうなずいて朝嶺亜ははぁ? と言いたげな顔をする。
「……なにがあいつを、そうまで奇抜ファッションに駆り立てるがじゃ。同じ女であってもうちにはわからん」
「俺もわからないですけど。そういうもんだと吞み込んでおいた方がいいんだろうな、とは、思いますよ」
朝嶺亜に肩をすくめてみせると、キャップのつばを持ち上げながら「できた男じゃの」と言い、醸造酒を入れた小瓶を掲げてくる。理逸も近くにあった同じ瓶をつかんで掲げ、瓶の底同士をかちんと打ち合わせてから飲む。ぬるく、細かい泡の立つ酒が喉を滑り降りていく。
ひとりで白酒をたしなんでいた十鱒は、そんな二人を眺めながらくわえたパイプに火を入れた。静かに深く煙を取り込んで口の端からあふれさせ、理逸たちに言う。
「無事だと聞けて僕はうれしいよ。今回はイレギュラーが多く、人的被害が大きかったからね。僕自身も危ない局面がいくつもあったくらいだ」
「ひとりで第一種を三人も殴り倒しとった奴がなん言っとるが」
「三人も……ですか」
「間合いと相性がよかったんだろうね」
平然と言ってのけるが、かなり異様な戦果だ。理逸は畏怖の念を抱く。
蔵人がそんな十鱒を見て、鼻を鳴らすと肉を嚙みちぎる。
『一番』と『二番』で多少なり競い合っているつもりがあるらしく、十鱒とのあいだには緊張感のある空気が流れていることが多い。
ちなみに己について考えると、理逸は『三番』だが上二人とは実力があまりにかけ離れているため見上げる気にもならないという感じだ。
ぼんやりとそんな物思いにふけっていると、十鱒がパイプを置いて卓上に指を組んだ。
「その意味で言うなら。君たちと深々が遭遇した《陸衛兵》なる警備兵は、相性や間合い論のレベルとは隔絶した異能者だったのではないかい」
「……まあ、それはそうですね。あれは、」
スミレがいなければ、どうにもならなかった。
当人不在の場でそのように褒めるのもなんだったので区切ったが、十鱒には伝わったらしくこくりと深くうなずく。
「六年前の静かなる争乱でも、プライアらしき能力を操る警備兵の存在は確認されていた。よもや実在するとは思わなかったが」
「俺もそれ、聞いたことはありましたけど。都市伝説かと思ってましたよ」
「実際に見た者は複数居たが、大半がその警備兵に致命傷を負わされていてね。目撃証言を残してすぐ、亡くなった。だから実情を伝えられる者がおらず、都市伝説のようになってしまっているんだよ」
見た者も少ないとの事実を、十鱒はそのように語った。
朝嶺亜は「六年前だと、うちはまだこっち来とらんし知らんがじゃな」と言って興味なさげにチェス盤へ次の一手を指しはじめる。ドライというか、自分に関わらないことにはとことん興味がないのだった。
十鱒はそんな彼女の指した不用意な手に「チェック」と返して「ああぁ?!」という悲鳴を引き出した。
長考に入った彼女を放置し、彼は理逸に向けて視線だけで自分たちの奥の席を示す。
彼ら《七ツ道具》からさらに奥まった位置、背もたれのある椅子に腰かける深々が、左手に酒の入ったカップを持ったままで中空を眺めていた。
疲労の溜まった様子であるが、周囲の音に反応しているあたり鼓膜の治療はある程度終えているらしい。
「深々も当時、噂を信じなかった。あれは、己の目で見て印象のなかに固定化したものしか信じない性質なのでね」
「なんとなく、わかる気はします」
「だろうね。君はあれに比べて自分を脇に置いた思考が得意だから、あえて懐疑を差し挟まない」
含みのある物言いをした十鱒は、その効能が十分に染み渡ったと判じたらしいタイミングで「もしいまの僕の言葉になにか感じたのなら、自分でも薄々そうではないかと気づいている証左だ」と言った。
自分を脇に置いた、という物言い。
思うところがあったのはそこだが、理逸がそれについて問いを投げるより早く十鱒は話をつづけ、パイプを再び手に取りふかす。
「思考の指針、こればかりは気質というものだからね。疑り深さというのは治らない。僕も何度か深々を諭したが、けれど、諭せばそれで済むという問題ではない。思考を変えるには経験か熟慮のどちらかが要るし、それは機会がなければなかなか訪れないものだ」
「深々さんは、その機会にめぐまれず、意固地だと?」
「そうなると君は逆に、意志薄弱ということになってしまうかな」
意地悪を言うのではなく「そうであるならどうすべきか」とじっくり考えているような顔で、十鱒は頬杖をつき理逸を見る。
なんとも、居心地が悪い。十鱒に感じる緊張は、深々から感じる刺々しい態度によるそれとはちがい沈みこんで飲み込まれてしまいそうな底知れなさへの緊張だ。虎穴への恐怖と暗い水底への恐怖のちがい、という印象。
やがて視線を逸らし、チェス盤に目を向けた十鱒は朝嶺亜の熟考の一手に一秒かからず次手を返した。朝嶺亜からまた悲鳴があがる。
「まあ、それはそれだ。話を戻すとするかい……ともあれ、《陸衛兵》なる連中。今後も我々の脅威になるかもしれないね」
「ですね」
「実際に戦ったのは君たちだ。記憶が鮮明ないまのうちに状況と戦況のすり合わせ確認をして、次に備えておくのがいいと思うよ」
「……そうですね」
話は以上なのか、それきり十鱒は視線をチェス盤から上げなかった。
どうやら深々との時間をとるよう促されているらしい。別段、お膳立てされずともそのつもりではあったが。それでも気が進むイベントではない。
肚をくくらないと正面からはとても向き合えない。
それが理逸にとっての武術の師──そして義姉である、深々だ。
ただでさえその関係性がゆえに、接しにくいというのに。いまは事前準備戦の直前にあったなんとも気まずい会話を意識しすぎている。
息を深く吐き、二歩、三歩と進んだ。
椅子に腰かけていた深々は、下草を踏みしめる理逸の足音の接近に気づいたのか左眼だけでこちらを見る。とぷんと手の内のグラスで琥珀色の酒が揺れた。
「来たか。様子を見るに、織架と婁子々は無事だったようだね」
こちらが切り出すより早くそう口にして、深々はグラスを傾けた。ひとくち、舌を湿らせる程度に彼女が酒を口に含むのを見てから、理逸はええ、と首肯する。
「それほど時間をおかず、復帰できると思います。完全に戦闘をこなせるようになるまではいましばらくかかるでしょうが」
「構わない。スミレのおかげで資金繰りに多少余裕もできた、次の事前準備は笹倉に回るのだし水泥棒さえうまくこなせれば二人が抜けたとて支障はないよ」
「深々さん自身の調子は?」
「奇蹟的というべきか、突発性難聴などは発症していなかった。多少頭は重いが」
こめかみをこつこつと左手の親指付け根でこづき、グラスをひじ掛けに置いた。胸ポケットからするりとパラフィン紙の包みを取り出すと、取り出した煙草へ片手でこするマッチにより火をつける。
じりじりと先端を灰に変えながら、深々はつぶやいた。
「これからの安全組合の方針について、考えていた」
「どのように?」
「あの《陸衛兵》の連中が今後も戦場に現れると想定したなら、現在の人員配置では対処に無理がある。そろそろ連絡用の暗号コードも局の連中に読まれそうな時期だったしな、指揮系統から刷新しようかと」
「また大がかりな手入れですね」
「そうなるな。ついては、その手入れにあたって指揮系統へスミレを組み込もうかとも考えている」
「それは……、」
なんと返したものか、理逸は迷った。
指揮系統に組み込むとは、織架の立場に似た「現場での指揮決定権を付与する」ということだろう。所属からひと月足らずでの昇進としては、異例の抜擢と言える。
戸惑う理逸に、深々は煙草の灰を落としながら言う。
「統率型はロストした。他組織に狙われるおそれと共に、他組織に対して優位を取れるツールがなくなったと言える。しかしスミレ自身が、十分以上に働きの良い拾い物だ。今回の一件で決着を導いた手腕と共に紹介すれば、組合員にも否やはあるまい」
「それは、そうなんでしょうけど」
「不満があるかな」
言い淀む理逸へ視線を向けずに問う。
「あるいは不安か」
「両方ですかね。不満は、俺に負担が増えそうだということ。不安は、あいつ自身がそういう立場の重責に耐えられるのかということ」
「前者は自分が拾ってきた種なのだから責任を持て。後者は、当人にはすでに了解を得ている。二一時に全体へ紹介する予定だ」
「あいつが?」
「めぐり巡ってそれが希望街の為になる、と伝えたところ謹んでお受けしますと言ってくれたよ」
「……ですか」
希望街のためになるというのは、たしかに事実だ。理逸自身も尾道との一件の際に、スミレに対して自分たちの仕事が希望街の──ひいては2nADの生きていく場を護る一助となる旨を伝えている。
まだ子どものくせに子どもを護ろうとする彼女にとっては、それが一番の行動動機となる。そこは理解している。
「ずるい大人だ、という気はしているよ。我がことながらね。しかしそれで確かめたいこともあった」
「なにをです」
「あの子は他者のためにしか動かない。自分の利得については投げやりだ……ということさ」
うなずける話では、あった。2nADの人々のために動く態度などはまさにそうだろう。もちろん彼女のなかでも『自分を受け入れてくれた希望街住人への恩義を返そう』との、返報性に基づく思考はあるのだろうが。
この南古野においてそうした善性は、稀なものだ。
「ところで、お前と話したいことがある」
煙草の火を握り消した深々は、ふうと息を吐きながら理逸へ向き直る。
左眼のみで理逸を見上げて、その胸元……下がっている双つレンズのゴーグルを見る。
「いつまでそのゴーグルを、ぶら下げているつもりだ。《蜻蛉》」
呼ばれるのが苦手なその称号を浴びせられ、理逸は不快さを隠しきれない。
これを表情から読み取り、深々は怒気を滲ませ──そうになり、取り繕って押さえ込んだ。そのように見えた。
ひと呼吸置いてから彼女はつづける。
「……責めたいわけではないんだよ。ただ、お前に昨日言われたように『明日のこと』を考えてみて、そう思った」
「明日と、俺のゴーグルと、《蜻蛉》の称号と。どう関係するんですか」
「朔明の真似はやめてほしい、ということだよ」
理逸の言葉を遮るように、深々は言った。ゴーグルから視線を逸らさないままに名を呼んだ。
この六年、ほとんど聴かなかった名前を。
深々の口から出ることなど、ついぞなかった名前を。
「私はお前があいつを辿るがごとく生きようとしていることに、どうしても納得できない」
「……そんなつもりじゃないです」
「だったらあいつの遺品を使いつづける必要もないはずだよ。お前はそれを身につけるからこそ、あいつの異名だった《蜻蛉》の名で呼ばれる。《七ツ道具》であいつの居た席に座ることになる。これがあいつを辿っているのでなくて、なんだという」
「辿ってるわけじゃない。すべきことだと思ったからやってるだけだ」
「すべきこと、など誰にもない」
「じゃああんたもリーダーなんてガラじゃないこと辞めたらどうなんです。あんたの言葉を借りるならそれだって『すべきこと』じゃないんでしょう? でもどうせ辞められないんだ。それはあんたが兄貴の影を辿っていて、兄貴が居た安全組合に未練しかないからだ」
「私はそれらを自覚してやっている。……ここに、残すために、やっている」
「なにを?」
「あいつが残そうとしたあいつの大切なものと、お前とを、だ」
「それは深々さんの好きにすればいい。でも、頼んでないです。俺はべつにあんたに護られようと思ってない」
言い切ると、深々は傷ついたような顔をして、左眼を左手で覆った。
こうして表情が隠れても、縦一閃の刀傷で潰された右まぶたのひくつきに大体の表情が現れることを、深々当人は昔から気づいていない。知っているのは幼少からの彼女を知る十鱒と、彼女を真正面から見つめる時間がもっとも長かった朔明。そして彼からこの秘密を伝え聞いた理逸だけだ。
深々は、苦痛そうな顔つきで指の隙間からこぼすようにつぶやく。
「……ほら見たことか」
「なにが?」
「やっぱりお前は、明日なんて見ていない。他人を頼ろうともしていない。他人には明日がどうこうと口を出しているが、お前本心では──自分のことは、使い潰そうとしているのだろう」
それは。
あまりにも行き過ぎた言葉だった。
たとえ深々であっても、踏み込みすぎた言葉だった。理逸が引いていた一線を、彼女は大きくまたいでその言葉を口にしている。
常に距離を測りながら、この数年を過ごしてきた。朔明が居なくなって、二人のあいだに出来た溝を、手探りしながらここまできた。
でももう限界だった。
おそらくは、お互いに。
「……兄貴は、いろんなものを残そうとしていたけど。ひとつだけ言えることがありますよ」
吐き捨てる言葉を一度区切るが、もう加熱されきっている深々も退く気配がない。
嫌なやり取りだ、と思いながら。
理逸は言うべきか最後まで迷っていた言葉を口に出す。
「俺のことは、残そうとしてねえ。兄貴にとって俺は、大切じゃなかった。あんたは俺と兄貴のことを、なにもわかっちゃいない。当然だ、あんたは俺じゃないんだから」
「……お前、なにを」
「それでも俺は兄貴に感謝している。使命感やその他いろんなものがないまぜになった結果なんだろうが、どうあれ俺を生かしつづけてくれたのは兄貴だ。兄貴にとっての俺の存在がどうであれ、俺は兄貴が大切だ。だから兄貴のやり遺したことを俺がすべきだと感じている、そう思っている。……『すべきこと』なんて誰も持たないとしても、俺は自分でそれを見つけて決め込んでおかないと、生きていられない」
楔がなければ留めておけない。必要だからそうしている。己を使い潰そうとしている? そう見えたとしても、いっぱいいっぱいなのだ。自分を決め込んでおかなければ不安で、不満で、仕方がないのだ。
理逸の言葉に戸惑う色を見せる彼女は、理逸の言葉を否定しようとする。
「いや、朔明は。お前のことだって大切に、」
「俺の名、理逸という名の由来、知ってますか」
唐突な問いに、深々は首を横に振る。予想通りの反応だった。
兄の言葉を信じるならば、朔明は理逸の──自身の弟の名の由来について他者に口外したことが一度もない。自分がつけた名だから、彼だけが知るはずの、その由来を。自分のなかだけに留めていた。
ただ一度、別離の日に理逸へ語った最初にして最期の一度を除いて。
「由来や意味なんて、ねぇんだ」
「意味が、ない……?」
「『お前の名に由来も意味もない』。兄貴は、朔明は俺にそう語った。静かなる争乱に向かったあの、最後の夜に。……それでも俺が、兄貴にとって大切だったって言えるのかよ。深々さん」
「……ばかな。朔明が、そんな」
「あんたにとっての円藤朔明と、その生き様についての思いがあんたの中にあるのはわかるよ。でも俺にとっての兄貴、円藤朔明ってものも確実に存在していて、それは俺にしかわからねぇんだ。俺にしか感じ取れねぇんだ」
ゴーグルを握り締めて、激してしまいそうな自分を押さえる。
深々の顔を見ていられず、理逸は背を向けて歩き出した。
「俺は兄貴になりたいわけじゃない。《蜻蛉》と呼ばれるのは不愉快だし、兄貴が無意味だと思ってたこの名でも呼ばれたくない。それでも俺は……俺でしかいられなくて、兄貴に育てられた俺は、兄貴に近づく以外の生き方が見つからねえ」
だから、頼むから。
放っておいてほしかった。教えを乞うて弟子となった身で勝手が過ぎるとは思うが、気にしないでいてほしかった。
どんなに深々が望んでも、理逸は深々の望むように生きることはできない。同時に、理逸はもはや深々の一存だけでは安全組合の要職からはじき出せない。そうするには仕事に、安全組合の組織図に深く絡み過ぎているからだ。
後戻りなどとうに、できないのだ。お互いに。
「……スミレのことは、本人に了解を得ているならそれで進めましょう。俺はあいつをサポートするし、あいつは俺をサポートしてくれる。俺も《七ツ道具》としてこれまで通りに務める。いままでとなんら、変わりなく」
それだけ言い残し、理逸は去った。
六年前、静かなる争乱。理逸が兄を失い、深々が想い人を失った戦いの影響はいまだ色濃く、二人とその周辺に影を落とし、縛りつづけている。
その実感はまた一層、強くなった。
#
夜風に吹かれるままに歩みを進めた。
倒れている旧電波塔の方を見ると、大時計が9を指そうとしている。功労者としてスミレを組合員に紹介する時刻が迫っていた。
居づらくなったので深々の元を離れ、結果的に安全組合の陣地からも遠ざかることとなり。うろうろしていた理逸は次第に疲れて、街路樹の根元に腰を下ろした。
視界の中で賑わいは増している。
屋台に群がって飲む人々、焚火を囲みリズムをとって踊る人々。
ふらふらしている酔っ払いがなにやら探す素振りを見せていたり、賭け事で軽いトラブルが起きたりはしているようだが、おおむね平和そうだった。
屋台のひとつが置いているらしい、鉱石ラジオを通じたパーソナリティの声が低く微かに届く。なにやらバックに控えていた楽器隊が演奏をはじめたらしく、軽快な弦楽器のサウンドが響いていた。
ぼんやりと音楽に耳を澄ましていると、不意に焚火から差す光源を遮る影が現れる。
顔を上げるとスミレが立っていた。このあとに控える紹介のパートに備えてだろう、普段と似た白のベアトップワンピースだが真新しいものを着ておりサンダルも綺麗なものに替わっていた。
いつも通りの無の表情で、小麦色の頬はぴくりともしない。目尻に赤いメイクを施した紫紺の瞳で理逸を見下ろし、じろじろと顔をうかがってきた。
「なんだよ」
「ぃえ。座ってぃるので、ぉ酒で体調を崩されたのかと」
「べつにそこまで飲んでねぇよ。腹は減ったけど」
結局ろくに食べていないので、腹が鳴る。するとスミレはため息をついて、きびすを返すとどこかに去った。なんだったのか。
またひとりになったと思いつつラジオに耳を傾けていると、しばらくしてスミレが戻って来る。なにかと思えば、魚の身が入った粥……紫薯粥の盛られた器を抱えていた。
「ぉ酒だけでなく、消化にょいものも摂った方がぃいでしょぅ」
「気遣ってくれるなんざ珍しいな」
「ぁなたには多少、返さなくてはぃけない……と思ぅことがぁりましたので」
スカート部の裾を均しながら横に腰かける。ふうん、と言いながら理逸は受け取った器に箸差し込み麦粥をつまむ。出汁がきいていてたしかに胃にやさしかった。
もくもくとすする時間を挟んでややあってから、スミレは小声で口を開く。
「ぁなたの名前、呼ばなぃ方が、ぃいですか」
「……聞いてたのかよ。返さなくちゃいけない、って俺に悪いことしたと思ってか」
「失礼ながら、立ち聞きしてしまぃましたので。名につぃて、そこまで重大な理由がぁるとは、思ってぃなかったのです。何度か軽率にぉ呼びしたことはすみません」
「べつに。今後気を付けてくれりゃそれでいいよ」
首から下がるゴーグルを指で撫で、理逸は器を脇に置いた。
話題が話題だったため、会話を続けづらい。といって露骨に転換するのも意識しすぎていることを伝えてしまう。
悩んだ結果、似ているが少し逸れる話題を投げる。
「お前の名前」
「?」
「スミレっていうのは、あいつらが付けたのか。ほら、ハシモトたち」
「ぁあ……そぅです。彼らが迎ぇ入れてくれたとき、付けてくれました」
「気に入ってるんだな。その名」
語るときの顔からそう感じ、理逸は素直に口にした。スミレはこくりとうなずき、立てた両ひざに顔をうずめた。
「この地で咲く、ゎたしの眼と同じ色をした花の名だと、ハシモトから聞きました。ゎたしも花は嫌ぃではぁりませんから、気に入ってぉります」
「そうか」
「そぅいぇば花の名がつぃたひとが多ぃですね。この地は」
「水に困らず人から愛されるように、って由来らしいな。花が咲くには水が要る」
「なるほど。そぅいぅ」
「あとは直接、水に関する字を名に入れたりするな。深々さんなんかもその系統……だ」
つい彼女の名を口にしてしまい、途端に自分でもトーンダウンするのを感じた。横に居るスミレはより強く、それを感じたのだろう。気まずい沈黙が満ちる。
思えばスミレとはつっかかられたり言い合いになったり(勝てた試しはないが)したことは多いが、口数が減って黙り込むということはこれまでなかった。
深刻ぶってしまっているようで、なんとも言葉を繰り出しづらい。
「サポート、してくれるのですょね」
すれば、向こうから口を開く。
「ゎたしが、ミミさんのもとに指揮系統をぁずかったとしても……」
首をかしげるようにこちらを見るスミレが、立ち聞きしていたという先の深々との会話内容を持ち出してくる。
理逸はうなずいた。
「ああ。指示役となると、立場的にはお前が上になるんだろうけど」
「ゎたしの判断、ゎたしの指示に従ってぃただくことになりますね」
「……いまと大して変わらねぇ気もするな」
「不安に、思ぃますか?」
スミレは、喉元のチョーカーに触れようとする仕草を見せた。
けれどそこにはなにもない。統率型拡張機構は破損し、あの泉に持ち帰らせた。
いまやスミレに機構運用者としての能力はなく、そこに理逸が不安を覚えていないか……気にしている風だった。
「もうゎたしは、機構を使ぇませんから」
その眼に青の光はもう宿らず、凪いだ日暮れの海を思わせる紫紺だけが広がっている。
彼女の物言いにかぶりを振って、理逸は返す。
「この街で生きるなら機構より、能力より、重要なことがある。お前からはもう何度もそれを見せてもらった」
「なんでしょぅ」
「希望街と、ハシモトたち2nAD。あいつらのためにお前が見せた本気の態度が、一番重要だ。それがあれば俺はお前を信用できる。だから不安はねぇよ」
言えば、スミレは。
ふっ、と吹きだして。
「……ァホなのですね。そのょうに、不確かなものを信用するだなんて」
そう笑った。
こばかにした節のないスミレの笑顔を、はじめて見たような気がした。
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屋台の前で足下覚束ない、酔っ払いの名は志門といった。
《七ツ道具》・七番の朝嶺亜と同様に都落ちの人物で、けれど所持していた装備型・腕輪型末端子拡張機構のアクセス権限などは削除されている。いまはあくまでも拡張による強化ができるだけの人間だ。
それすらも、度重なる拡張とその際の調律を怠ってきたため厳しくなってきている。強化された感覚を基準値としてしまって意識が追いつけない、いわゆる『感覚酔い』で彼は身動きが鈍くなりつつあった。先日も《七ツ道具》・三番の《蜻蛉》とかいう男に捕まえられ、お灸を据えられた程度には。
「……また濃くなったか」
腕の皮膚を見てぼやく。
拡張すると、肌に《焼け憑き》の刻印が出るようになって久しい。それでも新市街で暮らしてきた人間である自負が、機構に他人の手が触れることを許せなかった。
誰にも触れさせはしない。
誰にも。これだけは──
「──っと、」
「すぃません」
「気を付けろ」
ぼうっとしていたのか、目を閉ざした少女とぶつかりかける。目になにか入ったのか開かないようにしてたのか、ぎゅっと強くまぶたに力を入れた顔だった。
異邦人の色が強い少女だったように思う。
純粋な日邦人の血筋を持つこともまた自負するところである志門からすると、流氓である彼らへの感情は憐憫と嫌悪を寛容で薄めたそれだ。良くは思わない。
ホルターネックをひっつかんで、説教してやるべきか? そうしよう。
そう思って伸ばす己の左手を見て、
彼は固まった。
「ない……」
手首にかかっていた、末端子拡張機構。
生まれてこの方ともにあった、そう言って過言でない腕輪型が、忽然と姿を消していた。
有り得ないことだった。
力づくで外すのならそれこそ、志門の手指を砕いて引っ張るほかない。あるいは、物理法則を越えるプライアであれば物体をすり抜けさせることも可能かもしれないが、仮にそんなことができたって意味がない。
機構にかけられている個人登録のアカウントロックは非常に厳重で、取り外したところで他者に使えるわけではない。ただの腕輪、重くて使い道のないソレとしてしか扱えないはずなのだ。
だから志門はすぐさま這いつくばった。奪う意味がないのだから、やるとしたらいたずらだろうと思ったのだ。プライアを利用したタチの悪いいたずら。
「返してくれ……頼む、返してくれ」
ふらふらしながら、志門は屋台の周りを這いずり回る。
彼の脳裏にはかすかに……最上位権限級と呼ばれる機構。統率型拡張機構をも超える、個人登録書き換えすら可能な御伽噺じみた機器のことが思い出されていたが、酔夢のごとく意識の上からすぐ消えていった。
#
「……信用を得たぃのなら、捧げものをしたと思ゎせるのが、もっとも合理的でもっとも早ぃ」
ひとのいない物陰までやってきたスミレは、目を開いた。拡張済みの聴力があれば、目を閉じていても人込みを避ける程度訳は無かった。
紫紺の双眸にわずかに残っていた青の光が、ほどけて消える。
手の内には、先ほど酔漢から失敬した腕輪型の末端子拡張機構があった。
「Give it first, when you want.」
ただし。
相手に与えるものが、本当に自らにとって『捧げもの』と呼べるほど『最良』のものである必要はない。相手が『最良を捧げられた』と思い込んでいれば、それでいい。
安全組合の人間たちが『スミレは自分たちのために、もっとも大切な統率型を犠牲にしてまで戦ってくれた』と。そう思い込んでくれればいい。
「とはいえ、普段使ぃできる機構がなぃと、なにかと不便ですから──」
前の普段使いに比べればスペックは落ちるが、そこは致し方ない。彼女は腕輪の表面を撫でる。
指先に茨状の階路が走り、微機が数条飛ぶ。内部の個人登録に対する懐柔が終わり、登録は完全に書き換えられる。スミレの内に眠るもうひとつの機構が、端末を隷属させる。
其は絶対なる君主にして法。最上位権限級の機構。
──最終焉収斂機構。
「……さて戻りましょぅか。このぁと、ゎたしを紹介ぃただくとのことでしたし」
懐に腕輪型機構をしまいこみ、物陰を出る。
来た道を戻ろうとしていたところ、木の根元に腰を下ろしている理逸が目に入った。
体調を崩している、というよりはおそらく、深々との言い合いが原因と思われた。
落ち込んでいる。
ならば、どうすべきか?
「ぁの人に頼られて、ゎたしもぁの人を頼る」
これが男を立ち直らせるには、もっとも早い。
ため息をつきながら彼の前に出ていく。先ほど、彼の名に関する事情を聴いてしまった手前、放っておくわけにもいかない。
良くしてくれている彼には、それなり以上に恩義を感じていた。
「とはぃえ……面倒では、ぁりますが」
本音もひとつこぼしつつ、スミレは彼の傍に近づいた。
顔を上げた彼は、憔悴しているのだから仕方がないにせよ、新しい服をおろしたばかりのスミレをじっと見たくせになにも言わなかった。
スミレはまたひとつため息をつきそうになった。
Chapter4:
end.




