LXXI ドーセット侯爵家令嬢エリザベス・グレイ
俺が走り始めようとすると、モーリスがやんわりと止めに入った。
「ジェラルド、心配なのはわかりますが、友人の私生活を許可なく詮索するのは良くありませんよ?」
多分モーリスにはアンソニーの助けを求める声が聞こえなかったのだろう。
「いいかモーリス、耳をすましてみてくれ。上の階なのはわかるが俺も聞こえてくる方向がよく分からない。力を貸してくれないか。」
二人でもう一度耳を済ます。
「・・・こしょばいっ・・・ひゃっ・・・やめてっ・・・」
本当にかすかだが、どうにか内容が聞き取れるくらいは聞こえる。どうも辛そうには聞こえないが、明らかにやめるよう頼んでいる。
待っていろアンソニー。
「聞こえただろう、モーリス。アンソニーが窮地だ。助けにいこう。」
「ジェラルド、俗な想像ですが、アンソニーはひょっとしたらこの区画の女官と懇ろになっているのかもしれません。」
「そうかもしれないが、でもアンソニーだぞ?」
誇り高いアンソニーが年上の女官にいじくりまわされるのは全く想像できない。
いや想像できる。残念だがすごくあり得る。
「しかし、アンソニーが困っているなら海だろうと山だろうと助けに行くのが親友というものだ。」
「勇敢なのは結構ですが、その場合は見つかる側のアンソニーと女官も気まずく思うのではないでしょうか。」
確かに。ただでさえアンソニーは俺に対して後ろめたいのだ。これ以上距離を取られるとアンソニー復活計画に差し障る。アンソニーをいじめる年増の女がどう思おうと俺は知らない。
「どうしたらいいのか。」
「ジェラルド、人の私生活を覗き見てもいいことはありませんよ。後でやんわりと話を聞けばいいのではないですか。」
モーリスはいつもの調子だが、少し違和感を覚える。
考えてみればモーリスは性道徳に厳しい奴だった。俺がドーセット侯爵の妹エリザベス嬢を誘ったときも、厳重に注意をされて、その後妨害されたのだ。俺の女性経験の乏しさは一重にモーリスのせいと言っても過言ではない。
それにモーリスはアンソニーが童貞を気にしていたのを知っているから、普段なら「アンソニーが女官と懇ろになっている」なんてアイデアが出てこないはずだ。
怪しい。聖女に触られてお触り全般にオープンになったんだろうか。
「モーリス、いつもはお前、『そんなふしだらな話をしないでください、知性が疑われます』っていうところじゃないのか。」
「いえ、僕は聞こえてきた声からもっともらしい推測を披露したまでです。痛みを訴えているならともかく、くすぐったくなった親友を救うのにドアを蹴破るのはどうなのでしょう。」
確かにそう言われればそうかもしれない。
「わかった、とりあえずアンソニーがいる廊下で様子を見ることにする。」
歩き出そうとする俺と、なぜかまだ俺を引き留めたがっているモーリスが立ち往生すると、またかすかにアンソニーの声が聞こえてきた。
「・・・もう一回・・・もう一回やってっ・・・」
一体何をしているのだ、アンソニー。
「ジェラルド、ここで廊下に行くのは無粋というやつでは。」
いつもだったら同意するところだが、ただでさえ様子がおかしいアンソニーが、変なやつの手にかからないように保護しないといけない。
「庭園の迷路でいい雰囲気の俺たちを邪魔しにきたお前にだけは言われたくない、モーリス。」
「忘れましたか、あなたの婚約者のエリザベスは僕の従姉妹です。あなたが間違ったエリザベスに言い寄らないよう注意するのは当然のことです。」
「いや、俺もベティのことは大事に思っている。ただ、10歳のときから会っていないし、俺だって男だから、その・・・」
大体、女性経験がないまま18になったら親父に一生笑われてしまう。聖職者志望のモーリスには島の文化に理解を示さないだろうが、地元では大事なことなのだ。
俺が言い訳を考えていると、さっきよりも小さな声だったが、衝撃の内容が聞こえてきた。
「・・・いひゃっ・・・まほう・・・いいっ・・・」
魔法だと?
なんてことだ。昨日無罪になった魔女がもう宮殿に入り込んでいるのか。
それならさっきから不可解な声も説明がつく。魔女に魂を乗っ取られたアンソニーはしきりに魔法をかけられたがっていた。
それにしてもこのスピードは尋常ではない。普通なら宮殿に入るだけでも何重ものチェックがあるのだ。身元が不詳な人間はまず入れない。
この区画はヘンリー王子の不在で確かに人手が足りないとはいえ、なぜ昨日の今日で魔女が宮殿の門をくぐっているのか。
すでに魔女がいるなんて想定していなかった。
「ジェラルド、ここは落ち着いて・・・」
「落ち着いていられるかっ」
モーリスに八つ当たりしてしまったが、冷静に考えるとこれはチャンスだ。
ルイーズ・レミントンを捕獲するのは難しくない。凶悪なルクレツィア・ランゴバルドはただの身元不明の侵入者にすぎないから、俺が斬っても大きな問題にはならないはずだ。
俺は人質として王室にとっての価値がある。ランゴバルドの後援者が手を回して俺を処刑したとしたら、きっと親父は島で反乱を起こすだろう。
生まれて初めて人質のステータスに感謝する。
「モーリス、お前にはいえない複雑な事情によって、アンソニーを助けに行く必要がある。悪いがいかせてもらう。」
まだ何かいいたそうなモーリスを振り切って、俺は上の階へ走った。
注)当初「二階へ走った」とありましたが、「上の階」に訂正しました。




