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社会人×美味しいもの【現実世界〔恋愛〕】

おにぎり屋『まんまる』の暖簾をくぐって

作者: ゼン

 駅前の路地を折れると、細い道が曲がりながら続く一角に出る。


 瀬楽(せら) (つぐ)()はこの辺りの雰囲気が好きだった。


 古い木造家屋が寄り添うように並び、その合間に新しいカフェや雑貨店が息づいている。

 中でも、古びた豆腐屋の隣にある小さな店『まんまる』へは、もう両手の指では数えきれないほど通ってきた。

 週に二度、水曜と金曜の昼。仕事の合間に決まって暖簾をくぐる。


「いらっしゃいませ」と、店主──(ゆき)()さんというらしい。名札にそう書かれているが、名前を呼んだことはない──が声をかけると、嗣人は軽く頭を下げた。


 雪野さんの髪は肩の少し下までの長さで、軽く後ろで束ね、三角巾にすっきりと収められていた。

 清潔な白い割烹着に袖を通した姿には凛とした気品があり、まっすぐ伸びた背筋がよく映えている。

 目鼻立ちははっきりしているが、強すぎる印象は与えない。


 目の下にある小さなほくろが、不思議と心に引っかかった。

 最近、視線が合う時間が少し長い。そのせいか、どこか見覚えがある気がしてならない。

 昔、誰かに同じ眼差しで見つめられた記憶がぼんやりと浮かぶ。

 ……まあ、気のせいだと言われればそうなのだろうが。


 自分と話す時は少し視線を落としてから微笑む、その控えめな笑い方が、正直言って、ドストライクだったりする。


 とはいえ、嗣人が『まんまる』に通う理由は、店主が可愛いから、というわけではない。

 いや、三割は認めるとしても、残り七割は本気でおにぎりが美味いからだ。


(さて、と……今日は何にしようか)

 規則正しく並ぶおにぎりを前に、嗣人は顎に手を当てる。


 注文は、あらかじめ決めていたわけではない。

 それでも、迷うのはいつも十秒ほどだ。


 木札の文字が、光の角度で白く浮かび上がる。

 その文字を追ううち、自然と「今日はこれだ」という気分が降りてくる。


「枝豆チーズのもち麦おにぎりと、明太子おにぎり。それから、ツナマヨおにぎりをください。あ、店内で食べます」


 雪野さんは、「はい」とだけ応じて、カウンターの中に並ぶおにぎりを一つひとつ、慎重に取り上げていく。


 白い割烹着の袖口が軽く動き、ガラスショーケースが小さく軋んだ。


 嗣人は、カウンターの端に目をやる。


 折りたたまれた紙ナプキン。冷えた麦茶のポットとコップ。

 三切れのたくあんを載せた小皿に、その隣の小ぶりな豆皿には卵焼き。

 それらが、一つ、また一つと、丁寧に並べられていく。


 前回は唐揚げ、その前は真っ赤なタコさんウィンナー。

 さらにもう一度遡れば、鯖の味噌煮が角切りにされて添えられていた。

 おまけというには、あまりにも丁寧な品々である。


 卵焼きは、これで三度目だ。出汁がよく効き、塩気は控えめ。

 けれど、噛みしめるたびに、舌にやわらかな甘みがほわりと残る。


「枝豆チーズのもち麦おにぎりは、昨日から新しくなりました」

 と、雪野さんが静かに告げた。


 何をどう変えたのか、それ以上は語られない。

 たぶん、口にするより、味わってほしい──そんな意図なのかもしれない。


 嗣人はカウンター席に腰掛けて、紙ナプキンを広げた。

 まず手に取ったのは、枝豆チーズのもち麦おにぎり。

 一口頬張る。もち麦の粒が口の中でさらりとほぐれ、枝豆のほっくりとした食感と、チーズのまろやかなコクが舌に広がった。

 その後、ほんのり香ばしい風味に気づき、咀嚼しながら頭の中で呟く。


(……鰹節? 胡麻も入ってる……?)


 雪野さんの言った「新しくなった」の意味を、こんなにもあっさり見抜けた自分に、笑みがこぼれた。


 鰹節と胡麻の香りが鼻に抜けるたび、気分までゆるむ──しかし、頭は仕事へ戻っていく。

 悲しいかな、どれだけ飯が美味くても、頭の中のスイッチまでは切り替わってくれないのだ。


 嗣人の職業はWEBデザイナーだ。

 新しく任されたサイトのトップページは、クライアントの要望が詰め込まれすぎていて、朝からレイアウトの糸口が見つからない。

 このままだと、一度作った案を全部見直して、構成からやり直す羽目になりそうだ。


 頭の片隅にそんな悩みを抱えながらも、ニ口目を頬張る。


(……美味い)


 箸を伸ばし、小皿の卵焼きを口に運ぶ。

 出汁の香りと塩気の余韻、それに、口の中でほどける食感が心地よい。

 卵焼きの優しい味が口に残るうちに、たくあんの塩気を口に重ねる。カリッと音が響く。麦茶を一口含むと冷たさが喉をすべり、ようやく息が落ち着く。


 二つ目の明太子おにぎりは、もう四回連続で選んでいる。ピリ辛の明太子が米粒にほどよく馴染み、期待通りの安定した美味さを届けてくれる。

 ツナマヨおにぎりは王道だ。しっとりしたツナに、まろやかなマヨネーズがよく合う。いつ食べても、変わらず満足をくれる。

 だが今日の一番を選ぶとすれば、やはり枝豆チーズのもち麦おにぎりだろう。


「ごちそうさまでした。……あの、鰹節と胡麻ですか?」


 カウンター越しに尋ねると、雪野さんは目を丸くし、それから、音もなく咲く笑顔を見せた。


「正解です」


(よし……!)


 嗣人は、心の中で小さくガッツポーズを決めた。


(この笑顔が見られるなら、週に二回どころか毎日だって通いたい)


 とはいえ、毎日通うほど大胆でもない。

 それに、がっついて見えるのも気が引けて、結局、水曜と金曜に落ち着いている。


 ◇


『まんまる』で昼を食べた日は、どうも頭の回転がいい。


 この日も、午後の仕事は例外なくスムーズだった。


 昼休憩を終えた頃、やることがはっきりした。朝までごちゃついていたトップページのレイアウトを、潔くゼロベースから作り直すことにしたのだ。

 情報設計をシンプルにし、余白をしっかり取って、タイポグラフィにほんの少しの遊びを足した。気づけば二時間、集中しっぱなしの状態だった。


 ふうっと息を吐いて、椅子から立ち上がる。

 午後のこの時間帯になると、無性にカフェインが欲しくなる。

 タバコはやめられても、コーヒーだけはきっと一生やめられない。そんな謎の確信がある。


 会社の給湯室で紙コップにコーヒーを注ぎ、窓際に寄ったところで、背後から声がかかった。


「先輩」


 声をかけてきたのは、後輩の加藤だった。

 手にしたタブレットを胸の前で抱えたまま、上目遣いで見てくる。


「レイアウト見ました。イラレもフォトショも使いこなせるの、本当に尊敬します。あのスピードでちゃんと整ってるの、すごすぎません? あたしも勉強しなくっちゃ」

「そんな褒めても、なんも出ねえよ」


 コーヒーを一口含み、嗣人は小さく笑った。


「じゃあ今度、先輩がお気に入りのおにぎり屋さんに連れてってくださいよ。あと、奢ってください」

「いや、おかしいだろ。なんで俺が奢るんだよ」

「じゃあ、あたしが奢っちゃいます!」

「後輩に奢らせられっかよ」


 このやり取りも、もう何度目になるのだろう。


 加藤はよく話しかけてくる。

 懐かれている自覚はある。きっと、構えず話せる相手だと思われているのだろう。

 飾らず明るい性格で、どこか放っておけない後輩だ。


 声と笑いがしばらく続き、やがて静けさが戻った。

 加藤との何気ないやり取りの合間に浮かんだのは『まんまる』の店主、あの控えめな笑顔だった。


 枝豆チーズのもち麦おにぎり。出汁の効いた卵焼き。

 味わいの余韻がまだ舌に残っている気がした。

 それは味というより、記憶に触れる感触に近くて、しばらく消えなかった。


 ◇


 定時をとっくに過ぎた20:29、オフィスの隅で加藤の声がひしゃげた。


「……あれ? え、嘘。……全部、消えてる?」


 その声に、椅子を軋ませて立ち上がったのは、チーフの木村だった。


「加藤。何が消えた、って?」


 加藤はモニターから視線を外さず、かすれた声で答えた。


「昨日、USBに……一度社用PCに移して……でも、今見たら、なくて……」

「で? 今はどこにあるんだ?」

「……」


 加藤の返事はない。小さく首を横に振るだけだ。


「加藤、お前、何年目だ?」


 声のトーンは変わらなかった。だからこそ、その言葉は鋭さを帯びていた。


「月曜朝イチで納品だって、何回言った? 三回? 四回? そのたびに『大丈夫です』って言ってたよな? それも、面倒くさそうに」

「……」

「うるさく言ってるのには理由があるからって理解もできねえのか?」

「……」


 加藤は押し黙ったまま、膝の上で握りしめた手を見つめていた。

 指の関節は白く浮き上がるほど、強く力んでいる。


 あたりのキーボードを打つ音が、いつの間にか止んでいた。


「で、結果がこれかよ。なあ、これで納品飛んだら、誰が尻ぬぐいすると思ってんだ? 黙ってねえで何とか言えよ。文句ばっかり一人前で使えねえ奴が給料もらってんじゃねえよ」


 空気がぴりついた。

 木村の言葉の持つ『古さ』に、周囲の何人かが無言で身を引く。

 叱責の正しさより、言い方が浮いている。

 しかし当の木村は、気づかない。


 嗣人は椅子を引き、声を出した。


「木村さん、三日前のバックアップならあります。完全じゃないけど、六割以上は残ってるはずです」

 嗣人はディスプレイをちらと見やって、続ける。

「俺が明日出社して、間に合わせますから、それくらいで勘弁してやってください」


 全員の視線が嗣人と木村を交互に行き来し、木村がイライラした様子で無言で数度頷いた。


 そして、それまで黙っていた加藤が、小さな声で言う。

「あ、あたしも、出社します」


「いや、来なくていいよ。構成だけ教えてくれれば十分だから」

「でも、それじゃダメで……あたし、会社に来ます」

「本当に来なくていい。二日休んで、月曜からちゃんとやってくれたほうが助かる」

「……来たいんです!」

 加藤の目が潤んでいた。


 しばらく沈黙が落ちた後、加藤は目元を拭わず、濡れた瞳でまっすぐ嗣人を見つめ、一言だけ発した。


「お願いします!」


 嗣人は一呼吸置き、肩をすっと上下させた。


「分かった」


 木村は腕を組んだまま二人を見比べ、それから顔をそらして言う。

「締め切りは月曜だからな」


 休日出勤が決まったところで、椅子を戻しながら、嗣人は思った。


(雪野さんに会いてえ──)



 ◇◇◇



 土曜の昼、会社の近くにあるコンビニで、二人はおにぎりの棚を眺めていた。

 朝から詰めていた作業のかいあって、消えた素材の三分の一は復元でき、一息つこうとして外へ出た頃だった。


「めっちゃお腹空きました。あたし、少食なんですけど、今日は二個イケるかもです」


 加藤は呑気に笑う。


(ま、泣き顔見せられるよりは、マシか)


 ツナマヨ、梅昆布、紅鮭。定番どころを三つと、大容量の緑茶を一本。それとブラックガム。

 加藤が手に取ったのは、鶏五目おにぎりと野菜ジュース。


「奢ります!」「いいって」──お決まりの押し問答もワンセットだが、今日の加藤はどこか強引だった。

 当然、後輩に金を出させる気はない。各自でレジを通し、まとめられた袋を手にして店を出た。


 会社へ続く坂道。昼下がりの光が斜めに射し、足元の二人の影が細く長く伸びていく。

 割れ目から顔を出す草の芽が、季節に背を押されるように揺れていた。


 春が終わりきらない空気の中を、肩を並べて歩き出した時だった。


 角を曲がった先、すぐそこ。

 視界の端で、誰かの笑い声が弾んだ。

 見るとはなしに見た先、息が止まりそうになった。


(……雪野さん?)


 雪野さんの髪は絹糸のように、ふんわり肩に落ちていた。

 ゆるく波打つ光の筋が、白いロングスカートとベージュのカーディガンにすっと溶け込み、輪郭を淡くぼかしている。

 割烹着でも三角巾でもない。湯気の立たない場所で、ただ一人の女性として息づいている姿だった。

 背筋は変わらずすっと伸びているのに、不思議と現実味がなく、一つの風景のようだった。


 綺麗だった。

 それ以上に、遠くに思えた。


 隣を歩く男の存在が、その距離をいっそう際立たせていた。


 嗣人より拳一つ分ほど背が高く、黒のジャケットに胸元の開いたカットソーを合わせている。

 彫りの深い顔立ちに、気取らない笑みがよく似合っている。

 ラフなのに、すべてが整って見えた。業界人かモデルか──いや、そんな肩書きすら不要な種類の男だった。

 その並びに、自分が入り込める余白は見当たらない。


 ふと、目が合った。

 雪野さんは何かを飲み込むように、すっと眉を下げて視線を逸らした。

 声をかけるより先に距離が通り過ぎていった。言葉が追いつかなかった。

 そのまま、すれ違った。

 気分が沈んでいく。暗い水の底へ、小石が静かに沈むような感覚だった。


「お知り合いですか?」


 加藤の声が、少し遅れて届いた。


「いや……」


 そう答えながら、ビニール袋の中でペットボトルのキャップに触れた。

 その感触は頼りなく、指先からすり抜けていった。


 ◇


 午後のオフィスは、思いのほか、しんとしていた。


 データ復元は進んでいた。

 あとは整えて、書き出して、体裁を整えれば、月曜の納品には間に合うだろう。


 モニターの明かりが視界にじわじわ焼きつく。まばたきのたびに映像がにじみ、カーソルの点滅が目を引き続ける。


 昼に見た光景が、不意に蘇る。

 白いロングスカート、下ろされた髪のやわらかな波。その横に立つ男の存在感。

 その光景が思考に貼りつき、離れなかった。

 あの時、何も言えなかったのは、ただ驚いたからだけじゃない。

 声をかけたとして、何を言えばよかったのか、分からなかった。

 そして、彼女が何も言わなかったことにも、言葉にならない理由があった気がした。


 嗣人は椅子にもたれた。


(別に、期待してたってわけじゃねえし)


「……はあ」


 加藤が隣でカタカタとタイピングしている。

 普段なら遠慮なく「どうしたんですかぁ?」と訊いてくるはずなのに、今日は何も言わなかった。

 たぶん、気づいているのだろう。あの時の空気も、今の自分の顔も。

 沈黙は、ありがたかった。それでも、心がほんの少しだけ軋んだ。



 その夜は、資料だけを鞄に詰めて会社を出た。コンビニで缶ビールと冷凍パスタを手に取り、気づけば無意識のままレジに並んでいた。

 帰宅しても、部屋の明かりは最低限にとどめ、テレビのリモコンにも手を伸ばさない。


 プルタブを引いた瞬間、缶の中からはじけた炭酸が指先に跳ねた。

 泡の弾ける音が響き、体のどこかに空いた空洞を自覚した。

 そして、失恋したのだと、ようやく気づいた。


(別に、奪われたわけじゃない)


 ただ、自分の台詞が書き込まれる場面は、最初から台本になかった。


 それだけのことだ。



 ◇◇◇



『まんまる』に足を運べないまま、二週間が過ぎた。


 行こうと思った日もあった。暖簾の前まで歩いた日もある。

 けれど、結局あと一歩が出なかった。


 昼休みは、会社の近くの定食屋やカフェで適当に済ませるようになった。味に不満はない。

 だけど何を食べても、あのおにぎりの味と一緒に、あの人の姿まで引きずり出されるのが厄介だった。


「先輩、今日これから、飲みに行きません?」


 信号待ちの横で、加藤が言った。

 声は明るいのに、その裏で言葉を選んでいる気配があった。


「あー、金欠なんだよなあ」

「奢りますよ?」

「ごめん、やめとく。飲みに行く気分じゃないっつーか。悪ぃな」

「そう、ですか……」


 加藤は一瞬だけ口を結び、何か言いかけたが、言葉にはならなかった。

 代わりに、小さく笑ってみせた。普段より軽さが乏しく、どこか借り物の笑顔に見えた。


 沈黙が、ほんの少し流れた。

 信号の向こう側の歩行者が動き出し、信号機がチカチカと点滅しはじめる。


「……先輩って、誰かに好かれてるの、自分じゃ気づかないタイプですよねえ」


 唐突に。

 加藤がつぶやくように言った。

 その言葉に、足を止めそうになる。


「ん? 何の話?」

「なぁんでもないです! あたしが失恋したって話です! だけど、はいっ、今のは聞かなかったということで! 無効で!」


 そう言って加藤は、信号が青に変わるのを待たずに小走りで横断歩道を渡っていった。

 振り返らずに、手だけひらひらと振りながら。


「じゃあ……また来週! お疲れ様でした!」

「お疲れさん。気をつけて帰れよ」


(先輩後輩揃って失恋とか切ねえなあ……。聞かなかったということで、って言ってたし、触れないのが一番だな、うん。今度エナドリでも奢ってやるか)


「はい!」と、元気よく返事をした加藤は、別の方向へ曲がっていった。


 嗣人はその場に立ち、信号が赤に変わるまでぼんやり眺めた。

 いつもより少しだけ風が冷たい。吐いた息が白く曇って、駅までの道がほんの少し遠く感じられる。


 ようやく歩き出そうとしたところで、駅前のロータリーに差しかかる手前、前方から来る人影が目に入った。

 心臓が、どきんと跳ねた。


(……あ)


 髪は肩に流れるまま、控えめに揺れている。

 ベージュのカーディガンに、紺のワイドパンツ。背にはリュック。

 買い出しの帰りだろうか? その姿が、日常の風景に溶け込みすぎていて、言葉を探すのが遅れた。


 彼女もこちらに気づいた。

 一拍、歩みが少しだけ緩む。

 表情は読み取れない。


 嗣人が会釈をして、そのまま通りすぎようとした、そのとき。


「あの! あ、あの、『煮卵おにぎり』……その、新しいメニューできて……っ!」


 少し早口で、焦ったような声が背中から届いた。

 振り返ると、彼女は立ち止まっていた。

 目を伏せがちにしながら、それでも、こちらを見ている。


「……あ、そう、なん、ですね」


 返事がぎこちしくなったのは、自分でも分かっていた。


 でも、気まずさより先に、なんだか懐かしいものがこみ上げてきた。


「こ、この前の……あの、女性……」

 雪野さんが口にした声は、少し上ずっていた。

「すごく、可愛い方でしたね。カ、カノジョさん……です、よね?」


 視線を逸らしながら、彼女は下唇をほんの少し噛む。

 その仕草に、言葉にできない思いの影が見えて、嗣人の胸にかすかなざわめきが走った。


「え? ああ……加藤。ええと、後輩です、会社の。休日出勤が重なっただけですよ。付き合ってません。カノジョは三年半いません」


 口にしながら、どこか言い訳めいて聞こえてしまう自分の声に、少しだけ肩がこわばる。しかも要らない情報まで言ってしまった。

 雪野さんも、それを感じ取ったように、まつ毛を伏せた。


「カノジョさんじゃ、ないんですね」


 彼女の声が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

 その響きに、肩の緊張がすっと落ちた。


 嗣人は喉まで上がってきた言葉を、一度は飲み込もうとした。「はい」とだけ、返すつもりでいたし、口もその形を準備していた。

 だが抑えきれなかった。


「この前、一緒にいた男性は……」


 気づけば口にしていた。

 訊くつもりじゃなかったのに、もう遅かった。


「恋人なんですか? 一緒にいましたよね、背が高くて格好良い──」

 嗣人の言葉にかぶせるように、雪野さんが思わず声を張った。


「ち、違います……! いとこです、従兄弟!」

 彼女はそう言いながら、頬にかかった髪を耳にかけた。

「高校で教師をしてて……あの日は、たまたま結婚式に出席するからって、東京に出てきてて……」


「……従兄弟? ……あ、そう、ですか、従兄弟……そっか」


 張りつめていたものが、ほどけた。知らず、肩の力が抜けていく。

 視線が合って、どちらからともなく苦笑がこぼれる。


 口を開いたのも、閉じたのも、同じタイミングだった。


「あの」「あのっ」


 言葉がかぶり、互いに言い淀んで、笑うしかなくなった。

 照れが混じった笑いだった。

 けれど、その温度が、胸に残った重さをほどいていった。


「明日、煮卵おにぎり、買いに行きます」

「お待ちしています」


 ◇


 金曜の昼、『まんまる』の暖簾をくぐるのは、二週間と一日ぶりだった。


「いらっしゃいませ」


 その声は変わらず、だけど、ほんの少しだけ高く響いたようにも聞こえた。


「枝豆チーズのもち麦おにぎりと明太子おにぎり、それから煮卵おにぎりをください。……店内で」

「はい」


 雪野さんは、いつも通りの所作で注文を受け、ガラスケースの向こうからおにぎりを丁寧に取り上げる。


 今日も割烹着の袖口の揺れは軽やかだ。


 カウンター席に腰を下ろすと、紙ナプキンと麦茶のポット、そして三切れのたくあんが置かれる。


 続いて、小ぶりの豆皿に盛られたのは、甘辛いタレが絡んだミートボール。一口サイズのそれが、三つ並んでいる。


(ミートボール、か)


 なぜか、小学校時代の給食の時間を思い出した。

 黒縁のメガネをかけた、ぽっちゃりした子。おかわりじゃんけんの常連だった自分に、笑いながら「はい」って渡してくれたっけ。


「いただきます」


 手を合わせてから、煮卵おにぎりを手に取る。


 ばくりと頬張れば、黄身が半熟で、ほろりと米に馴染む。その味わいに思わず目を細めた。


 ふと、視線を上げると、カウンターの向こうで雪野さんが、何か言いたげに立っていた。


「あの」


 声をかけられ、箸を止める。


「おにぎり、いつも三つって、決めてるんですか?」

「え、ああ……なんとなく。もっと食べたいけど、眠くなるんで控えてます」


 笑いながら返すと、彼女も少し笑って、小さく頷いた。


「昔からいっぱい食べてたよね」

「ん? え? ん?」

「嗣人くん、給食でいつも、おかわりじゃんけんしてたなあ、って。ふふ」


 一拍の間。

 頭の中で自分の名前が反響する。


「……え、なんで……?」

(たか)(はし) (ひな)()、って、覚えてる?」


 瞬間、記憶の奥に引っかかっていた感触が、じわじわと形を取りはじめる。

 黒縁メガネをかけていて、ぽっちゃりしていて、目の下には小さなほくろがあった。


 ミートボールを一つくれた、あの子。

 転んだ自分の絆創膏をくれた、あの子。

 本が好きな女の子。


(確か、四年生の時に引っ越していった──)


「……雛子?」


 雪野さん──いや、雛子は、少し照れたように笑った。


「両親が離婚して、名字が変わったの。東京に出てきたのも、その後で」

「……言ってくれよ、もっと早く」

「言えるわけないよ。……だって、会ったとき、私のこと分からなかったでしょ?」


 雛子の声にはほんの少し棘が混じっていた。けれど、それは笑みの中にすぐ溶けていく。


「それは……ごめん」

 言ってくれれば思い出したのに、とも思ったが、自分にあてはめて考えると言えないなとも思う。


「ふふ、謝り方も昔と一緒」

「そ、そうか?」

「うん、嗣人くんは言い訳しないの」

「……そうか?」

 嗣人は、頬をぽりぽりかいた。


「うん、それでね、そのおまけ、実は全部、お礼なの。嗣人くんにだけのおまけなの」

「お礼?」

「あの頃、石郷岡くんに、からかわれてたの覚えてる? 何かと私のこと茶化してて……悲しくて学校に行きたくなくて辛かったの。でも、ある日、嗣人くんが言ってくれたんだ。『そういうこと言うの、ダサいからやめろよ』って。すごくびっくりして、でも、すごく嬉しかった。次の日から石郷岡くんは私に意地悪を言わなくなって……だから、ありがとう」


 正直、覚えてなかったが、その言葉に、じんわりとあたたかさが広がった。


 嗣人は、豆皿のミートボールに視線を落としながら、小さく息を吐いた。

 雛子の言葉が、心にじわじわ沁みていた。


「おまけは、俺の為だったんだな」

「……」

 雛子がこくんと頷く。


「知らなかった。ありがとう」

「ううん。私のほうこそ、ありがとう。ずっとずっと言いたかったの」

「じゃあ、今度は俺の番だな」

「え?」


 雛子が、目を瞬かせる。

 嗣人は、少しだけ姿勢を正し、口元に笑みを浮かべながら言った。


「おまけのお礼に、食事に誘っていいか?」


 雛子は一度驚いたように目を見開いた。


 迷うように視線を落とし、唇を少し噛む。


 そして、ふわりと笑った。


「うん、ぜひ」


 その返事は、店先に漂う炊きたての米の匂いみたいに、ゆっくりと胸を満たしていった。


 ほんのりと湿り気を帯びた風が足元をかすめ、遠くの空気に季節の境目がふっとにじんだ。




【完】

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