(96)
いよいよ尉繚さんが仲間になって、新たな局面に入ります。
まずは、それを一番偉い人にお披露目しなくては。
そして、潜入時に尉繚と一緒にいた部下の消息も。
尉繚は、すぐに拘束を解かれて牢から出された。
そして、地下に潜入する時一緒にいた部下の一人にも会うことができた。二人は互いの生を喜び合い、涙を流して抱きしめ合った。
「良かった、おまえが生きていて……!」
「隊長こそ、よくご無事で……!」
助手に化けて地上への道を固める徐福を呼びに行ったその部下は、その場で看破されて毒で昏倒させられていた。
尉繚と同じように捕らえられ、しかも尉繚が協力に応じるまではほぼ放置されていたらしい。
そのため、ついさっきまで徐福たちから研究の目的やいきさつを聞かされることはなかった。何も知らされずひたすら方士たちを憎んでいたらいきなり事態が急転したため、まだ不安そうに目を泳がせている。
「隊長、この者たちに協力するというのは……」
「本当だ。どうも俺たちは、いろいろと誤解していたらしい。もっとも誤解されても仕方がない状況を作ったのはこいつらだが。
話を聞いて現状に照らす限り、悪意で国を害することはなさそうだ。
なれば、事故で国を害さぬよう我らが協力せねばなるまい」
尉繚の言葉を聞くと、部下は悲しそうに目を伏せた。
「……では、その誤解のためにあいつは死んだのですね」
尉繚も、ぐっと唇を噛みしめる。
あいつとは、一緒に潜入した部下のうちここにいない一人のことだ。彼は、石生の毒針によって命を落としていた。
徐福が、気の毒そうに説明する。
「おまえたちの制圧に用いたあの毒はな、吸い込むと命を取る事は稀だが、傷口から直接入ると効果が強く出て命取りとなる。
まあ、あの時は不意打ちで素早く制圧する必要があったし、何より尉繚に吹きつけて使うところを見られたくなかったのでな。
こちらも助手の被害を増やさぬためだった。許せ」
そう言われると、尉繚たちは返す言葉がなくなる。
部下が一人死んだ以上に、助手を何十人も殺したのは自分たちだ。徐福の崇高な研究を手伝い、危険な感染者や人食い死体を厳重に管理していた助手たちを。
しかもその時尉繚たちは追い詰められた獣のように、相手の話に耳を傾けられる状態ではなかった。
穏便に矛を収めさせることができなかった。
だから徐福たちも、過激かつ即効性のある手段を取らざるを得なかった。
これはいわば、徐福が尉繚を生かしてかつ助手をこれ以上殺されない最善のためにとった行動の犠牲だ。
それに気づくと、非常に後味の悪い沈黙が二人の間に下りた。
徐福が、それを払うようにパンパンと手を叩いて声をかける。
「さあさあ、こんな所で後悔に浸る暇はないぞ。
早く地上に出て、我々とおまえたちが和解したことを陛下に知らせねば。
悪いが盧生と侯生はもう告げ口してしまったのでな。早く陛下の疑念を解かねば、また無駄に命が失われるかもしれん」
それを聞くと、尉繚はぎくりと身を固くする。
そう、地上では未だ、残してきた部下たちに危険が迫っているのだ。
それを解除するために徐福が提案したのが、始皇帝と李斯の前で盧生、侯生と和解して見せるというものだった。
尉繚が盧生たちにこれまでの非礼を詫び、協力を誓う。
尉繚たちにとってひどく屈辱的だし、それをやるともう協力を拒むことができなくなる。なにせ、他ならぬ始皇帝が証人になるのだから。
しかし、やらねば始皇帝の尉繚への疑いは晴れない。何をするにも監視され、場合によっては降格され、何か猜疑心を刺激することがあれば最悪処刑される。
尉繚としても、その状況は避けたかった。
「これから、盧生と侯生を地上に戻す。
おまえたちも同行するがいい」
徐福に促され、尉繚は渋々盧生たちに歩み寄る。
「では、これからよろしく頼む」
そう言って尉繚が差し出した手を、盧生と侯生がぎゅっと握る。二人の顔には、直視していられないほどの勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
尉繚は一瞬その手を握り潰してやろうかと思ったが、部下たちの顔を思い出して何とか自制した。
もう、この件でこれ以上無意味に死者を出してはならない。
ここにいるのは全員、始皇帝を支え尽くすための人材なのだから。
やり場のない悔しさとみじめさを噛みしめながら、尉繚は盧生たちについて地上に向かった。
尉繚は地上に出るとすぐ、残してきた部下たちを集めて事情を説明した。
部下たちは始め憤慨し、徐福たちの研究の話を聞くと驚愕した。というか、耳を疑う者がほとんどだった。
しかし、逆らう訳にはいかない。
逆らえば、反逆罪で無意味な死が待っているだけなのだから。
それでも納得できない部下たちに、同行した侯生が言った。
「常識外れの研究をしているのは、重々承知しております。内容と目的をにわかに信じられぬのも、無理からぬことでしょう。
ですので、近いうちに一度皆さまを地下にご案内いたしましょう。
百聞は一見に如かずと申します。
これから協力していただくにあたり、我々のやることを正しく知ってもらうのはどのみち必要なことですから」
実際に現場で働いてもらうためにも、と侯生は内心で付け加えた。
そう、この部下たちの一部はこれから、新たな助手となるのだ。その前に職場見学が必要なのは、言うまでもない。
それでも疑いの目を向けてくる部下たちに、侯生はそっけなく言った。
「ともかく、信じる信じないはその時決めればよろしいでしょう。
私たちはこれから、皆さまへの誤解を解くために陛下に謁見しますので」
自分たちが告げ口しておいてどの口が言うかという感じだが、これを言われると工作部隊の面々は引き下がらざるを得ない。
まんまと工作部隊を手中に収めて、侯生は尉繚とともに王宮に向かった。
王宮では、既に李斯と盧生が始皇帝との謁見の約束を取り付けて待っていた。
「他ならぬそなたらとあらば、陛下はじき参られるとのこと」
李斯の言うそなたらが盧生と侯生を指すことは、言うまでもない。今やそこまで頼りにされているのは、尉繚ではなくこの二人なのだ。
それをひしひしと感じ悲哀を噛みしめながら、尉繚は始皇帝を待つ。
しばらくして、始皇帝は四人の前に現れた。
「待たせたな。……と、これは珍しい組み合わせじゃな」
始皇帝は盧生たちから、尉繚が自分たちを狙っているかもしれないと聞いていたため、両者が一緒にいることを不思議に思った。
その理由を、盧生がにこやかな笑顔で説明する。
「尉繚殿と、お互い誤解が解けましたので、ご報告いたします」
「誤解?」
「はい、尉繚殿は我々を憎んで殺そうとしていたのではありませんでした。忠実に仕事をなさっていたのを、我々が必要以上に恐れてしまっただけでした。
この点、陛下にご心配をかけてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」
そう言って、盧生と侯生は深く頭を下げた。
こうすることで、尉繚も後を続けやすくなる。
「そうか……尉繚よ、忠実な仕事とは?」
「はい、実は私は、陛下の暗殺未遂事件について、このお二方の自作自演の可能性があると疑っていたのです。
あの後盧生殿の評価が桁違いに上がりましたし、侯生殿が巡幸の列から離れてから起こりましたので。
彼らが一番得をしているし、先行した侯生殿が何か仕掛けたのかと」
尉繚は、盧生たちと事前に打ち合わせた嘘をすらすらとしゃべる。
やらねばならないと分かっていても、尉繚は内心ひどく気分が悪かった。自分が嫌ううそつきの方士に自分がなってしまったようで耐え難い嫌悪感に襲われる。
それを少しも表に出さなかったのは、工作部隊長として磨き上げた技術と忍耐のおかげだ。
始皇帝は、少し考えて納得してうなずいた。
「そうか……確かに、状況から考えて有り得る見方じゃな。
それで、この二人の身辺を探ろうとしていたのか」
「その通りでございます。私自身が離れれば油断してボロを出すかと思い、部下を張り付かせてございました。
ですが、どうやらお二方は本当に無関係であられた様子。
陛下にもお二方にも、余計な心配をおかけして申し訳ありません」
今度は、尉繚が深く頭を下げる。
これでお互い謝り合って、和解の演出は終わりだ。ここからは、これからの協力の提案だ。これも既に内容は決まっている。
ここで、今まで黙っていた李斯が前に出て言う。
「和解ついでに、双方から良き提案がございます。
これからの秦のため、どうかお聞き下され」
「ほう、それはどのような?」
面白そうな顔をする始皇帝に、尉繚から説明する。
「私は、陛下からいただいた任を果たし終えました。高漸離の一件についても、関係のありそうな宿を一軒焼いただけでそれ以上は探れませんでした。
他国がなくなったことで不穏分子も組織で追うことができなくなり、我々の調査が及ばぬ相手が多くなってございます。
なれば、他にお役に立てる仕事のお手伝いをと」
そこまで言って一瞬言い淀み、尉繚はまた続けた。
「我々の知識と情報は、天の意を汲み陛下をお守りするこのお二方の助けになります。つきましては、特別な案件がない時はお二方に力を貸したいと」
尉繚は、心を押し潰しそうな屈辱に耐えて言いきった。
それを聞くと、始皇帝の顔がぱあっと明るくなる。
「ほほう、それは素晴らしい!
おぬしらの力添えあれば、盧生らの仕事もやりやすくなるであろう。そうすれば、朕の悲願である不老不死にも近づこうというもの!」
始皇帝はえびす顔で立ち上がり、嬉々として命令を下した。
「よし、朕の名において命じる。
これより工作部隊は、盧生、侯生と協力して不老不死のために力を尽くすこと!」
命令を受け、尉繚が二人に向き直って頭を下げた。
「よろしくお願い申し上げます」
これで、もう取り消すことはできない。
始皇帝の面前で、始皇帝の命令を受けて誓った以上、この協力は絶対だ。これを反故にすることは、始皇帝に刃向うも同じ。
かくして尉繚は、逃れられぬ道に落とされた。
うまくやれば徐福たちを止め、成果という名の災厄を消し去れたかもしれない男は、その狂気の手下に成り下がった。
勢いよく転がり出した狂気を、止める者はもういない。
何が起こっているか知らない始皇帝と李斯だけが、純粋な喜びを胸に笑い合っていた。




