(94)
グッドポリスな助手、石生さんのターンです。
彼の過去が少しだけ明らかになります。
この時代は理不尽な冤罪なんかが多かったでしょうが、尉繚さんはある意味それに加担する側でした。そこに、被害者が斬り込んだら……。
「おまえ、は……?」
尉繚の前に、一人の助手が佇んでいた。
それ自体は、捕まってから何度かあったことだ。自分を監視し、死なない程度に世話をする助手が、恨みと怒りを込めて見下ろす。
だが、この時は違った。
その助手は、尉繚にひどく悲しい目を向けていた。単なる哀れみではなく、心の底から尉繚に同情しその運命を嘆く目。
その助手が、唐突に口を開いた。
「ああ……天は忠義者に残酷な運命をお与えになる。
良かれと思ってやった事でも、法の裁きの下に心は無力。これほど国を思う魂が、何も報われることなく冥府に召されるとは。
全くもって、世は理不尽で不条理です」
「何っ!?」
いきなり投げかけられた言葉に、尉繚はぎくりとした。その言葉の中に、聞き捨てならないことがあったからだ。
報われる事無く、冥府に召されるとは……。
「おい、どういうことだ!俺は、殺されるのか!?」
話の流れから考えるに、そういうことである。
驚き慌てる尉繚に、若い助手は衝撃の事実を告げる。
「ああ、何と哀れな工作部隊長殿。あなたの命はまな板の上の鯉と同じ……。
盧生様と侯生様が、二度とこのようなことが起こらぬよう手を打つそうです。自分たちが、あなたの部下に命を狙われていると上に訴えると……。
近いうちに、あなたの部下に捜査の手が及ぶでしょう。
そうなれば、あなたも部下の皆さまも……」
その話を聞いて、尉繚はぞっとした。
今、自分はこんな牢に閉じ込められて地上と連絡を取ることもできない。しかし、徐福たちはそうではない。
盧生と侯生がいれば、いくらでも地上に働きかけて有利な状況を作れるのだ。
対して、自分は何もできない。地上の部下たちには下手に動くなと言ってあるが、捜査の手が及べば自分の不在はごまかしようがないだろう。
そうなれば、自分の命令違反は李斯や始皇帝の知るところとなる。となると自分にも部下たちにも、相応の罰が下されるだろう。
命じられた仕事を放棄し、信頼する方士たちを害そうとしたのに相応の罰が……。
それを考えた時、尉繚は手が震えた。
(何ということだ……これでは、どう足掻いても助からぬではないか!
しかも私だけではない、私の命令に忠実に従っただけの部下たちが……!
くそっあいつらには何の罪もない!俺だって、陛下のことを案じてやっただけで……決して、悪意でやった訳ではないのに!)
己としては、忠実に国に尽くしたつもりだ。部下たちだってそうだろう。
しかし、転がっていく事態は残酷だ。いかなる志を持っていようとも、上が認めた事実に対して淡々と裁きが下されるのみ。
そこに、裁かれる者の心が介入する余地はない。
尉繚は、己の運命を呪って打ちひしがれるしかなかった。
だが、そんな尉繚の手を温かいものがなぞった。
それは、鉄格子の隙間から差し込まれた助手の手だった。ふと顔を上げると、さっきからいる助手が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「うぅ……辛いでしょうに!悔しいでしょうに!
私にもその気持ちは分かる……分かるのに、何もしてあげられない!!」
「分かる……だと?おまえは……」
いぶかしそうな顔をする尉繚に、その助手は自らの身の上を告げた。
「私は、元死刑囚です。ここでの仕事に選ばれていなければ、刑場の露となっていました」
それを聞いて、尉繚ははっと思い出した。驪山陵では確かに方士たちの元へ人が送られていたが、死刑囚ばかりだったのであまり問題にされなかったのだ。
人柱とされる以上に消えた人間は、こちら側に流れていることもあったのか。
だが同時に、尉繚は身と心を固くする。
(死刑囚……ということは、結局犯罪者ではないか!
そのような者に、俺の気持ちなど……!)
そんな尉繚の心中を読んだのか、助手は不快そうに顔を歪めた。
「……死刑囚と分かった途端に、態度が変わりましたね。所詮犯罪者の言うことに共感の余地などない、ということでしょうか。
でも、私だってなりたくて死刑囚になった訳ではないのですよ。
私だって、置かれた状況の中で良かれと思って行動したのに……」
助手は鉄格子にもたれるように座り込み、語り始めた。
「私は、石生と申します。元は医者の下で学ぶ書生でした。
私は、病に苦しむ多くの人を救いたかった。しかし、私の師であった医者がそれを許さなかったのです。
師は、医術を金もうけの道具としか考えていませんでした。金払いのいい者にしか正しい治療を施さず、金払いを渋る者には毒を与えてさらに金をせびる有様。
私は、目の前で助かる患者が死んでいくのを見ているしかなかった」
石生の話には、心の底からの深い悲しみが宿っていた。尉繚の人間観察の技術をもってしても、そこに嘘の兆候は見えない。
だってこれは正真正銘、石生のこれまでの人生なのだから。
「ある時、私は耐えられなくなってそれを役所に訴えたのですよ。
ですが……結果、私は師に自分の失敗をなすりつけたとして捕らえられた。
師が、役人に恩を売って私を陥れたのです。あの男、腕は確かなものですから。気が付いたら、周りに味方は誰もいませんでした。
そして無実は晴らせぬまま驪山陵に送られ、そこで同じ組だった者たちの無謀な脱走に巻き込まれて死罪を言い渡され……今に至ります」
その話を、尉繚は黙って聞いていた。
刑徒の言葉ゆえ素直に信じる訳にはいかないが、嘘を言っているようには見えない。だが、それでもあの徐福の仲間ゆえ疑わずにはいられなかった。
石生は、裏切られたように唇を噛み、呟く。
「今のあなたの状況が、私によく似ていて……放ってはおけませんでした。何も悪い事をしようと思っていないのに、罪をかぶり死を前にして。
だから、私とあなたは分かり合えると思ったのに。
でも、あなたは私の気持ちを受け取ってくださらないのですね」
そこまで言って、急に石生の視線が氷のように冷たくなった。
「ああ……偽りの裁きを下す側の人間に、こちらの気持ちは分かりませんか。
徐福様たちから聞きましたよ、あなたのお仕事。他国で正しいことをしていた人たちに理不尽な死を与えたり、罪の証拠もないのに疑いだけで人の命を奪ったそうですね」
それを聞いて、尉繚の心はぎしりと軋んだ。
こいつの言う通りだ。この世には、罪がなくても理不尽に罰が降りかかることがある。そして自分は、それを下す側だった。
秦の天下統一前は他国の忠義者を次々と暗殺してきたし、最近は一つの事件を終わらせるために何の罪もないと思しき鍛冶屋を何十人も殺したじゃないか。
自分がやったんだから、そういう事があるのは当たり前に分かっていたはずなのに。
そういう被害に遭ったと訴える青年に耳を傾けなかった自分は、何と傲慢でおこがましいのだろう。
今さらそれに気づいて、自己嫌悪に陥った。
石生は、そんな尉繚を突き放すように言う。
「……仕方がないですよね。自分がやったなら、自分が同じように殺されても。
忠義を捧げた人に使えないと蔑まれて、その人のためにやった事で罰を受けて殺されても。悪いことをする気でもなかったのに、弁明の機会もなく裁きを押し付けられても。
そして、あなたを信じてついて来た全員が同じ目に遭っても」
その言葉は、始皇帝暗殺未遂で使われた鉄槌のように尉繚の頭をぶん殴った。
尉繚の脳裏に、忠実に自分を支えてくれた部下たちの顔が浮かぶ。
(待ってくれ、主導したのは全て俺だ!
あいつらはただ従っただけ、従わざるを得ない組織の中で俺が動かしただけだ!責任は全て俺にある!!
なのに、あいつらまで……!)
自分は、忠実に国のために働いていた部下たちにもこんな理不尽な運命を強いてしまうのか。
愕然とする尉繚に、石生はなおも言い放つ。
「死罪に……なってしまえ!!おまえのような人の気持ちを知らぬ頭でっかちは……!
せっかく私がかわいそうに思って、地上での動きを伝えに来てやったのに……。こんな風に拒絶されるなら、助けようとなど思わなければよかった!
知らぬうちに仲間を全て失って、絶望の中で死ねば良かったのだ!!」
嵐のような、怒りの罵倒。
しかし、その声には徐々に涙が混じり始めていた。
「うっ……うっ……これでは、誰の気持ちもなにも報われない。
私のあなたを助けたい気持ちも、あなたの生きて国を守りたい気持ちも、徐福様のあなたを陛下のために役立てたい気持ちも。
その全てを無駄にする選択をしているのは、あなたでしょうが!!」
石生は涙をぼろぼろとこぼしながら、叩きつけるように叫んだ。
尉繚が、ごくりと唾を飲んだ。
そうだ、こいつは盧生と侯生の動きを事前に知らせてくれたじゃないか。
それは、まだ実行されていない。まだ自分に裁きは下っていないし、地上の部下たちも生きている。
今なら、まだ助かる。
助かる材料も、向こうには揃っているじゃないか。
徐福は、尉繚の手を欲している。仲間にする気がある。その力を他ならぬ始皇帝のために使いたいと望んでいる。
足りないのは、ただ一つ。
それさえ揃えば、自分たちは皆が円満に未来を紡げるのだから……。
尉繚は気が付けば、地面に頭を打ちつけていた。
「待て、俺が悪かった、おまえの気持ちは受け取った!」
尉繚は、牢の外でしゃくり上げている石生に必死で訴えた。
「危機を知らせてくれた事、誠に感謝する。貴殿の知らせなくば、俺のはこの国の大切な人材をみすみす失わせるところであった!
多くの命を救おうとした、貴殿の心に報いたい!
徐福と、もう一度話をさせてくれ!!」
それを聞くと、石生は心の底から嬉しそうに笑った。
「良かった……受け入れてくださるのですね!
なら私もあなたに報います。すぐ徐福様を呼んで参りましょう」
石生は、そう言って小走りに去った。その手の中に刺激臭のする軟膏のようなものがあり、彼の目の周りからも同じ臭いがすることになど、気づくはずもなかった。




