(79)
検査ができるまで、一時の休息と宴です。
とてつもなく久しぶりの人物が登場します。
始皇帝を暗殺しようとした刺客、荊軻の親友の高漸離……彼はどのように迎えられていたのでしょうか。
そして、彼が奏でる別れの曲が彩るは……。
それからしばらくは、何事もなく過ぎていった。
全く変化がないという意味ではなく、平穏にという意味である。あの日以来、始皇帝の周囲は前より平穏になった。
始皇帝が新しい事業を控え、次から次へと新しい仕事が降ってくることがなくなった。
おかげで、これまで忙殺されていた官僚たちは久々に一息ついていた。そしてそれは、他ならぬ始皇帝も同じであった。
「しばらく仕事の量を減らし、お体とお心を休めてください」
そう助言したのは、盧生と侯生だった。
「他人の血を体になじませるのは、大変なことでございます。激務であまりお体に負担をかけますと、せっかく取り込んだ血がお体になじみません。
それでは、仙才が身に着きませぬ」
二人は仙才にかこつけて、始皇帝に休養を勧めたのだ。それを受けて、始皇帝は不要不急の新事業をやめて仕事を減らした。
その結果、上から下りてくる仕事が減ったおかげで下の官吏たちも少し楽になった。
官吏たちは、いつも新たな事業を始めて仕事を増やしてばかりのあの二人がようやく少しは考え直したかと、陰でささやき合っていた。
だが、二人が考えていたのは下々の官吏のことなどではない。
二人は誰よりも、始皇帝に休んでほしかったのだ。
以前韓衆から始皇帝の働きすぎを知らされてから、二人はそれを苦々しく思っていた。研究を完成させる前に死なれてはかなわぬと、どうにか休ませる方法を探していた。
仙才の高い血をなじませるため、というのはそれにちょうどいい理由だった。
これで血を分け与えるのが成功したと分かるまでは、休ませることができる。もし成功しなかった場合は、まだ負担が大きいと言ってもっと休ませることができる。
この作戦は、徐福も見事だとほめてくれた。
「素晴らしいぞ、盧生!
陛下の命を延ばすことは我々の研究の期限を延ばすも同じ。よくやってくれた!」
心地よい言葉に頬を緩めながらも、盧生は徐福に尋ねる。
「それで、仙紅布に必要な染料はいつ届きますので?」
「ああ、数日前に蓬莱と連絡が取れたと早馬で知らせがあってな。あと三月ほどで、染料の草と新たな検体、動く死体が届くそうだ」
「では、それが届いたら……」
「まずは、新たな検体の血で仙紅布を作ってみる。
それがうまくいったら、陛下の血で検査だ」
徐福は、頼もし気に二人を見つめ、言った。
「もしこれで陛下の血から仙紅布が作れれば、陛下は本当に仙才を得たと思って狂喜するだろう。
おまえたちは更に一つ大きな功績を上げたことになり、より信用されるようになる。そうすれば、地上に影響することでももっと無理がきくようになる。
ここが正念場だ、心しておけよ!」
徐福はにわかに真剣な顔になって、二人に指示を出した。
「侯生、おまえは常に陛下の体調に気を配れ。仕事を減らしたはいいが、他のことで体を壊されたら元も子もない。
それに万が一、陛下が重病に倒れるようなことがあれば、例の儀式との関連を疑われる。
そのようなことにならぬよう、少しでも異常があれば注意し、対処しろ。
盧生は、周囲の人間に気を配れ。陛下が不死に近づいていると知れば、殺せるうちに殺しておこうと暗殺を試みる輩がいるかもしれぬ。
おまえたちはあらゆる危険からできる限り陛下を守ること、以上!」
「はっ!」
盧生と侯生は、力強く返事をした。
人食い死体ができて、研究は大きく進んだ。実績作りも兼ねて、始皇帝に尸解の血も分け与えた。
始皇帝を尸解仙にする準備は、着々と進んでいる。もしかしたら、尸解仙ができるのはそう遠い日ではないかもしれない。
徐福が何より知りたいと欲している、不老不死の理が明らかになる。
盧生と侯生は本当に皇帝を昇仙させたかつてない力を持つ方士として、歴史に名を残し比類なき栄光を手に入れる。
そのために、始皇帝に何かあっては困る。
何より大事な被験者である、始皇帝に。
とはいえ、始皇帝の身に危険なことなどそうそう起ころうはずがなかった。
始皇帝はそれほど欲望に忠実ではないため、美酒美食を過ごして体を壊すことはない。周辺の人間と警備についても、李斯が気を配っている。
そのため盧生と侯生は、できるだけ始皇帝に付き添って行動を見守るに留まっていた。
始皇帝は二人の言うことをきちんと守り、仕事を少なくしている。ただしその代わり、後宮の美姫たちと宴を開くことが多くなった。
その宴には、盧生と侯生も特別に同席させてもらっていた。
「どうじゃ、おまえたちも飲まぬか?遠慮はいらぬぞ。
朕はおまえたちと徐福の世話になってばかりだ」
始皇帝が、日頃の労をねぎらって二人に酒を勧めてくる。
「は、では一杯だけいただきます」
二人はそれぞれ杯を取り、賜った酒を飲みほした。その瞬間、豊かな香りが鼻を突き抜け、体がカッと熱くなる。
しがない田舎の方士であった頃は想像すらできなかった、とびきり上等な酒だ。
そのうえ二人の前にも、様々な美味珍味がずらりと並べられている。その中にも健康にいいとされる薬膳料理が混じっているのは、始皇帝自身が健康に気を遣っている証だ。
さらに二人の側には、見女麗しい女がたおやかに侍っていた。市井に出れば誰もが振り向くような美女である。
しかしこれでも、始皇帝の女ではない。
始皇帝の女の世話をする女官が、これほどなのだ。
始皇帝の側に侍っている妃たちといったら、この世に存在するのが信じられないような美女ぞろいである。
当然だ、始皇帝はこの広大な中華を統一した男なのだ。征服した国の後宮から各地の美女を根こそぎ奪い、さらに国中から美女が献上されてくる。
この宴席は、そこだけが桃源郷と化したようであった。
上機嫌で酒を飲んでいる始皇帝の側で、女たちがかしましい声を上げる。
「あれが噂の方士様ですって。
私にも若いままでいられる薬をくれないかしら?」
「私は、子宝を授かるようにしてほしいわ!」
艶を含んだ会話にどぎまぎしている二人の前で、始皇帝は女たちをたしなめる。そして、一人の顎をくいっと持ち上げて言った。
「ほう、朕の子が欲しいか?
よいよい、近頃は仕事を控えておるからその分相手になってやれるぞ」
それを聞いて、盧生と侯生は内心ため息をついた。
仕事の量を減らせと言ったのは、始皇帝の体を休ませて命を延ばすためだ。なのに、せっかく余らせた体力を夜に後宮で消耗されては意味がない。
「おお、そう言えばおぬしらの仲間に、精を強くする薬酒を造る者がいるらしいのう。
確か、韓衆と言ったか……。宮中の年老いた者たちの間で、本当によく効くと近頃評判になっておる。
障りがなければ、紹介してくれぬか?」
英雄色を好むというが、始皇帝もそんな人物らしい。
盧生は、不興を買うことを覚悟で答えた。
「陛下……今は心身ともに安定させねばならぬ大事な時期でございます。
陛下にはお世継ぎがたくさんいらっしゃいますし、今陛下が為すべきことは子を作るよりずっと難しいことでございます。
女を愛するなとは言いませぬが、度が過ぎぬようお気を付けください」
「ぬう、そうか……これは浅慮であった」
始皇帝は、素直に盧生の言うことを聞いた。やはり始皇帝にとっては、女より自分が登仙することの方が大事らしい。
女たちから向けられる視線が氷のように冷たくなったが、そこは気にしないことにした。
と、始皇帝がにわかに寂し気な顔になって女たちの腰を抱き寄せる。
「しかし……こうしていられる時も限られていると思うとな……。
その、地下に籠るということは……そういうことなのであろう?」
盧生と侯生は、ぎくりとした。
始皇帝は、仙人になって人を遠ざけたらこの女たちにも会えなくなってしまうと、名残惜しんでいるのだ。
これは、始皇帝が近く仙人になれると思い込んでいる証に他ならない。
徐福の交渉を有利にするために仙才を高めただけだというのに、この舞い上がりようである。もう頭の中では、仙人になった後のことを考えている。
(これは……調子が良いというのか、気が早いというのか……)
つなぎの実績を作るだけのつもりが、始皇帝の心を思った以上に前のめりにしてしまった。盧生と侯生は、別れを惜しむように女たちを可愛がる始皇帝を前にひしひしとそれを感じていた。
「おお、そうだ!こんな気分の時はあの曲に限る。
高漸離をここへ」
始皇帝は、思い出したように配下に声をかけた。
その時に呼ばれた名に、盧生と侯生は覚えがあった。
高漸離といえば、始皇帝を暗殺しようとした刺客、荊軻の親友であった楽士だ。確か以前、巡幸の途中で捕まって始皇帝に召し抱えられたはずだ。
この男を召し抱えるべきかは、李斯が判断しかねていたので自分たちが相談に乗っていた。あの時は李斯に恩を売るために採用すべしと言ったが……まさか本当にすぐ側に置いて使っていようとは。
盧生の目が、険しくなる。
(もし、暗殺の恐れがあるなら……)
しかし、連れて来られた高漸離の顔を見て、頭の中の警鐘は止んだ。
高漸離の目には、光がなかった。表情は、全ての希望を失ったようにうつろで呆けている。着物からわずかに見える肌には、無残な傷跡が刻まれていた。
刺客であった友への思いを消し去り、始皇帝への害意を粉砕するために、李斯が何かしたのだろう。
高漸離は素直に腰を下ろし、筑を構えた。
次の瞬間、胸を打つ悲哀と寂寥のこもった旋律が怒涛の如くあふれだす。
盧生と侯生も、思わず心をかき乱されて思考を忘れた。
心を潰されても、天下に鳴り響いた筑の腕は健在だ。いや、むしろ大切な思いを遂げられなくなったからこそ、押し殺された感情が楽にほとばしっているのか。
配下の一人が、盧生と侯生にそっと教えてくれた。これは、高漸離が始皇帝の暗殺に赴く荊軻に捧げた曲だと。
果たさねばならぬ使命のために、今生の別れを告げる曲。
この曲が奏でる悲哀と寂寥に浸りながら、始皇帝は何を思っているのだろうか。
仙人になってしまえば、多くの者と離れて暮らさねばならない。永遠に君臨するためのその別れの悲しさを、先取りして盛り上げているのか。
だが、始皇帝は知らない。自分が本当は、何に別れを告げるのかを。
本人の知らぬところで、後戻りできない変化は着実に進んでいた。




