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始皇帝に、尸解の血を分け与える儀式です。
尸解の血を分ける儀式とは、どういったものだったのでしょうか。
そして、この方法でうつるものとは……。
それからしばらく、地下離宮は忙しくなった。
安息起から伝えられた、尸解の血を分け与える方法……それを実行すべく、材料を確認し、その後成功したかを確認するのに必要な物を蓬莱から取り寄せる。
ただし、今回は盧生も侯生も都を離れられない。
そのため、蓬莱とのやりとりは以前も使った送屍屋に頼む事になる。外部の人間の手を借りるとそれだけ危険は増すが、やむを得ない。
このまま長期間実績を示せず、始皇帝の信頼を失う方がよほど危険だ。
地上の都合もあって、研究は他ならぬ始皇帝を対象として動き出した。
盧生と侯生は、早速始皇帝に謁見して話を切り出した。
「陛下、わが師徐福が仙人となさっている交渉について、有利にする方法が一つございます」
そう告げると、始皇帝は目の色を変えて食いついてきた。最近そのことで目立った進展がなかったので、だいぶ焦れていたのだろう。
「して、その方法とは!?」
「は、陛下に仙才ある者の力を分け与える方法でございます」
盧生は上目遣いに微笑み、すらすらと説明する。
「人の中には、仙人となる素質の高い者とそうでない者がおります。戦や日常生活において、得手不得手があるのと同じです。
仙才に秀でぬ者が仙人になろうとしても、それは非常に困難な道です。
例えるなら、刺繍の得意な女子に矛を持たせて戦場へ送るようなもの」
その説明に、始皇帝も納得した様子でうなずく。
「うむ、確かに何事にも素質というものはあるからのう」
才ある人材を求め使う立場にいる始皇帝にとって、これは実感できる話だ。同じことをやらせてもできる者とできない者がいるから、適する役職に就けねばならない。
「しかるに、不敬を承知で言わせて頂きますと、陛下の仙才はそれほど高くないように思えます。
そのせいで、仙人が仙薬を渋っているのではないかと」
始皇帝には仙人になる素質が乏しいと、控えめに言っても手厳しい言葉。
始皇帝は少し不機嫌そうに目を細めたが、さほど驚いたり慌てたりはしない。
なぜなら、その解決法はあると既に言われているから。盧生が最初に言ったやり方、それが自分に必要というだけだ。
「なるほど、そう言われては何とも言えぬな。
朕とて苦手なことはある」
「は、誠に生まれ持った仙才の違いとは無情なものでございます。
我々も仙道の修行をしておりますが、元より高い仙才をお持ちの徐福殿には敵いません。あの方なら仙人に会うことができますが、我々は未だ……」
盧生はこう言って、恥ずかしそうに目を伏せた。
もちろんこれは作り話であり、現状をそれらしく説明するための嘘でしかない。
それから、修行している自分たちですらこうだから、と始皇帝の嫉妬を和らげる。さらに、徐福以外を追加で派遣しても意味はないぞと思わせる。
「ともかく、仙薬を手に入れるには陛下の仙才を高める必要がございます。
本日は、その方法を提案しに参りました」
盧生はうやうやしく頭を下げ、本題を切り出した。
すると、始皇帝は待っていましたとばかりにニヤリと微笑む。
「申してみよ」
「は、これは高い仙才を持つ者に血の力を分け与えてもらうことで、その仙才を陛下に移す方法でございます。
これを行えば、陛下は高い仙才を得、より仙人に近づけます。
……が、これはいささか手荒な方法でして、陛下のお体を少しだけ傷つけねばなりませぬもので……ご承諾いただけるかどうか」
それを聞くと、始皇帝の側に控えていた李斯が顔をしかめた。
「具体的には、どのように?」
幸い、頭ごなしに拒否することはないようだ。
決定権を持っている始皇帝は既に乗り気だし、何より李斯も始皇帝に心酔していてできるだけ長く生きてほしいのだから。
ただ李斯にとっては、始皇帝に危害が及ぶかもしれない……それだけが問題なのだ。
「よもや、陛下のお側に刃を近づけるような事はあるまいな?
私は、陛下が暗殺される危険をできるだけ減らさねばならぬ」
李斯は、始皇帝を傷つけるものに神経を尖らせている。以前、始皇帝の暗殺未遂を防げなかった事をだいぶ根に持っているようだ。
そのため李斯は、始皇帝の周囲から武器を排除している。
武器を持てるのは宮廷の周りを警護する兵までで、宮廷内では何人たりとも武器……人を傷つけられる刃を持ってはならない。
ゆえに、盧生たちの提案がそれに違反するようでは困るのだ。
だが、盧生は穏やかに答える。
「その点は問題ありませぬ。
陛下のお体を傷つけるといっても、指先を血が流れる程度になので。陛下ご自身の剣をお使いいただくか、歯で噛むだけでも結構でございます」
宮廷内に全く武器がない訳ではない。守られるべき始皇帝ただ一人は、この宮廷で刃を帯びることができる。
つまり、始皇帝が自身の体を傷つけるなら問題はない。
それに必要なのは本当に小さな傷なので、歯で噛みちぎるだけでも十分だ。この時代、血判を押す時はこうすることがよくあった。
だから、外から始皇帝以外の武器を持ち込ませる必要はない。
「ふむう、その程度か。ならばさほど心配はないな」
始皇帝が安心したところで、侯生が手順を説明する。
「陛下は、傷ついた指を我々が用意する液体に浸していただくだけです。
その液体は、我々が見つけた仙才の高い者の血の上澄みでございます。その血をほんの少し、傷口から体内に取り込むのです。
さすれば、その者の高い仙才が陛下に移りましょう」
「ほほう、そんな方法が……!」
始皇帝は、嬉しそうに目を細めた。
徐福が船出してから全く進んでいる実感がなく手詰まりであった始皇帝にとって、進む道を具体的に示されるのはそれだけで祝福と同じだ。
だが側にいる李斯は、表情を緩めずに問う。
「それで、その仙才の高い者とはどうやって見つけるのだ?
よもや、陛下が病にかかるような事はあるまいな?」
「は、仙才の高い者は既に我々が見つけてございます。こちらの侯生が診察して、病にかかっていないことは分かっております。
こちらも、準備に抜かりはありませぬ」
盧生が自信たっぷりに言うと、李斯も納得したようだった。
怪しいと言えばそうだが、仙術の知識のない李斯にこの話の真偽は判断できない。よって、信じざるを得ない。
それに盧生と侯生は、これまでに実績があって信用できる。始皇帝に助言して暗殺を防いだこの二人が、まさか暗殺者ではないだろう。
こうして実行の許可を得ると、二人は地下離宮に報告に向かった。
それから数日後、ついに決行の日がやってきた。
盧生が手にした壺の中には、黄色い水が入っている。仙才の高い者……尸解の民の血をしばらく静かに置いて得られた、上澄みだ。
この血は、地下離宮にいる女の検体から採った。
女の検体は肝の病を持つ美女と触れ合うことがないため、病をもらっている可能性が低い。侯生と石生が診てみた限り、その兆候はない。
……正確には、肝を悪くしてはいる。しかしこれは酒を飲みすぎるせいであり、酒を断たせたら少し改善した。
そうして状態が少し良くなったところで、治療と称して瀉血をしたのだ。
もちろん本当の治療などではなく、始皇帝に血を分けるためだけに。
こうして用意した血の上澄みを、盧生は始皇帝に献上した。
「おお、待ちかねたぞ!」
始皇帝は、既に身を清めて待っていた。
いつもは何もない宮廷の中庭には、祭壇がしつらえてある。そして祭祀を行う時のように、捧げ物が置かれている。
盧生はその中央に、うやうやしく壺を置いた。
「それでは、指を傷つけてこの中にお入れください。
我々は祈りを捧げますので、祈りが終わるまでは指を上げませんように」
それを聞くと、始皇帝は高揚した顔で指を刃に押し当て、引いた。
この中華で最も尊い者の血が、ポタポタと地面に垂れる。
それを合図に、盧生と侯生が声を張り上げて祈りを始める。天に訴えかけるように、高く低く独特の節をつけて声を響かせる。
その厳かな空気の中、始皇帝は己の血を流す指を壺の中の液体に漬けた。
この頼もしい方士たちに任せておけば、自分は必ずや仙人になれると信じて。
だが、盧生と侯生がやっている祈りや用意させた供え物に意味はない。ただ、始皇帝にそれらしい空気を味わわせるための演出だ。
いや、祈りにはかろうじて時間稼ぎの意味がある。
安息起に聞いたところによると、この処置は傷口が大きくつけている時間が長い程成功率が高くなるらしい。
そのため、少しでも始皇帝が尸解の血を取り込むように、いかにもそれらしい祈りを長々と唱え続ける。
全ては、始皇帝を本当に尸解仙にするために。
壺の中の上澄みに、始皇帝の血が混じって赤く染まっていく。
同時に、上澄みの中にあった何かも始皇帝の血に混ざり、体を巡っていく。
今この場にいる誰も知らない。
その『仙才』と呼ばれる何かが、尸解の民を尸解の民たらしめるものが、本当は一体どのような性質を有しているのか。
知らないまま、分け与えてしまった。
与えてしまったものはもう、二度と元に戻せないのに。
「これで、仙才が我が物に……」
固まりかけた血に覆われた指先を見ながら、始皇帝は感慨深げに呟いた。
そしてくるりと身を翻し、宮殿の中へと戻っていった。




