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解剖実験その一。
人食い死体を解剖する前に、感染対策を検証しよう!
ゴーグルとかゴム手袋とかがない時代なので、感染性の検体の解剖はさぞ大変であろう。特に相手が動くとなれば……ね。
感染実験が一段落すると、徐福は解剖実験に着手した。
今回の感染実験によって、様々なこれまでと違う実験体が得られた。それらの体内を調べて、不老不死への道を探るのだ。
待望の人食い死体はもちろんのこと、他にも解剖するべき検体はある。肝の病に天然痘を重ねてみたものの、人食い死体にならなかったものだ。それらも発疹が出ないという、これまでにない特徴を持っている。
(あの中途半端なヤツも、考えようによっては有用か。
普通のものと中途半端なもの、人食い死体を見比べる事で変化の方向と程度が分かりやすくなるかもしれん)
とにかく、今は少しでも多くの知見が必要だ。
いかなる副産物も、無駄にすることは許されない。
(まずは、人食い死体にならなかった方から解剖しよう。
幸い、あれには感染性がなさそうだ)
天然痘を材料としている以上、天然痘の感染性が残ってしまう心配はあった。だが、それはどうやら杞憂であった。
離宮から送られてきた五人の検体への感染実験は終わり、もう天然痘の患者はいない。持ち物や寝床も、焼き払った。
残っているのは、彼らの成れの果てである発疹のない死体、発疹のない動く死体、そして人食い死体だけだ。
それらのすぐ近くに生きた死刑囚を置いてみたが、天然痘はうつらなかった。
これまで天然痘を経験していない者にも関わらず、だ。
つまり、それらはもう天然痘の病毒を持っていない。
(普通天然痘は死体にもしばらく病毒が残るはずだが……肝の病と尸解の血により病毒そのものが変化したか。
何にせよ、天然痘の感染力がなくなったのは大きい)
これで、解剖実験が大幅にやりやすくなった。
天然痘を経験していない助手でも、解剖に参加できる。寝台や使った道具を焼き捨てなくていいし、そこで記した書簡をすぐ離宮に持ち込める。
人食い死体になる病は、体液が体内に入らないと感染しないため、天然痘より扱いやすい。
徐福にとって、これは幸運だった。
「さて、それでは解剖を進めるとするか。
まずは、解剖のための解剖だな」
解剖は、二回に分けて行う事にした。
まずは、人食い死体にならなかったものだ。肝の病を普通に発症した検体であった、発疹のない死体と発疹のない動く死体である。
これは知見を得ると同時に、次に行う解剖の予行演習でもあった。
すなわち、人食い死体の解剖を行うために考えた手順や防具を実際に試して、検討するための解剖だ。
人食い死体の解剖中、体液を体の中に入れてしまったら自分たちが感染してしまう。
それを防ぐ手順や防具は、既に考えて作ってみた。
しかし、ぶしつけ本番でそれらを使うには不安が残る。どんな事でも、実際にやってみるまで気づかない問題はあるものだから。
それを発見して少しでも危険を減らすために、まずはその手順と防具を使って感染性のないものを解剖してみることにした。
「皆、配ったものは身に着けたか?」
「はい」
死体を囲む助手たちに、徐福は確認した。
徐福と助手たちは、感染を防ぐための装備を身に着けていた。呼吸を妨げないふわりとした襟巻で鼻と口元を覆い、手足や首が露出しないように裾や襟の詰まった服をまとい、川の手袋をはめている。
これで、露出しているのは顔の上部のみだ。
「目だけは、どうにもなりませんね」
「ううむ、危険な作業をするからこそ、視界を狭める訳にいかんしな。
できるだけしぶきが飛び散らぬよう、丁寧に作業をするしかあるまい」
石生の指摘に、徐福は苦々しい顔で答えた。
目の問題は、本当に悩ましい所だ。目は体の開口部で感染の窓口であると同時に、重要な感覚器官でもある。
解剖は観察のために行う以上、視界を制限するのは好ましくない。そのせいで対象をうまく観察できなくなれば、研究に支障をきたす。
ただでさえ地下は暗く光源も限られていて、視界が悪いのだ。
状況と目的が、目を覆うことを許してくれない。
徐福たちは目を細め、少しでも死体から顔を離して刃を入れた。
途端に、むわっと腐臭が広がる。しかし、血しぶきは飛ばない。死体になった時点で血は巡るのを止め、固まってしまっているからだ。
「……動かぬ死体なら、問題はないか」
「ええ、ですが動く死体の場合はきっちり拘束しておかないと。
やる事になるかは分かりませんが、検体が生きている場合が一番厄介ですね」
相手が動かなければ、自分たちが下手に扱わなければさほど飛び散ることはない。今の対策で、十分通用するだろう。
だが、相手が動けばこちらの動きなどお構いなしにしぶきが飛んでくる。特にまだ生きている者を解剖する場合、動脈を傷つければ即、感染性のある血が噴出する。
「生きた感染者の扱いは、人食い死体以上に注意せねばならんか」
「はい。できれば解剖は避けたいところです」
「それなしで、不死への道が見つかればな」
石生と言葉を交わしながら、徐福は死体の腹を切り開いていく。
そこは一見、普通の死体と同じように見えた。しかしよく見ると明らかに、普通の死体と違うところがある。
「やはり、消化器系の腐敗が遅い。
天然痘のみを尸解の血と重ねた場合と同じだな」
以前見た天然痘だけで殺した死体に似て、口からつながる肺や胃腸の腐敗が他の臓器より遅れている。
しかし、そこに発疹はない。体表に出ていなかった発疹は、体内にも出なかったのだ。
「うーん、おいらには、体の表面も遅いように見えますがね」
そこで、元屠畜業の助手が口を挟む。
「死んでこれだけ時間が経ってると、皮膚や筋肉ももっと劣化してボロボロになってるもんですが……あんま溶けてないですね。
変色はしてますけど、腱なんかまだ物作りに使えそうだ」
元屠畜業の助手が見ていたのは、体の中ではなく外側だ。
徐福と石生ははっとして、腹を開く時にどけた皮膚と筋肉に目をやる。
「本当だ……確かに、損傷が少ない!」
肌も筋肉も張りを失って崩れ始めてはいるものの、明らかに経過日数相応ではない。日数の割に、きれいなのだ。
体の中にばかり気を取られていた二人は、見えていても気づけなかった。
「そうか、そう言えば忘れておった……普通の動く死体でも筋肉の劣化は遅かったな。
どちらがより遅いかは、今は比べられぬが……」
徐福は、これまで解剖したものを思い出して比べてみる。
最初の尸解の血のみによって生じた動く死体は、筋肉のみ劣化が遅かった。これによって動く機能のみが死後長く保たれていた。
次の天然痘を重ねた死体では、発疹が出た部分……体表と呼吸器、消化器の劣化が遅くなっていた。
今回の肝の病を重ねた検体は、そこから発疹を消し、発疹が出るべき部分の劣化をさらに遅らせた様相だ。
「これは……より多くの機能の保存に近づいたということか。
筋肉については動く死体の時点でかなり残されておったから最近考えていなかったが、少しでも劣化する限りまだまだ改善せねばならん。
いや、よく気づかせてくれた!」
徐福は、知らず視野が狭くなっていた己を戒めて元屠畜業の助手を誉めた。
目的は不老不死、全ての機能の完全なる保存なのだ。多少長く機能が保存されたからといって、そこで考えから外してしまっていい訳がない。
半永久的に機能が保存できるまで、道を探らなければ。
そういう目で見れば、目の前の死体はまだまだ目的には遠い。しかし、着実に目的に向かって前進してはいる。
願わくばこのまま改善を続けて、尸解仙まで辿り着きたいものだ。
徐福は感慨に浸りながら、目の前の死体に意識を戻した。
「よし、それでは各臓器の観察を済ませてしまおう。
これ、内臓を台の上に」
「は、ただ今!」
助手が消化器系を掴み、隣にある観察台の上に移す。手袋のせいで滑りやすいのか力が入って手が緊張しているが、できない程ではなさそうだ。
このまま何事もなく終わってくれればと思いながら、徐福は取りだされた内臓に目を向けた。
しかし、次の動く死体の解剖で、まずい事が起こった。
いや、この発疹のない動く死体でやる分には特に問題ないが、人食い死体の解剖でやると大問題になることだ。
同じように腹から内臓を取りだすところで、不意に死体が腹に力を入れたのだ。
「うわっと!?」
いきなり取り出しかけた内臓を引っ張られて、助手は内臓を落としてしまった。
「わぷっ!」
落ちた内臓から腐汁のしぶきが飛び、近くにいた数人の顔にかかる。徐福が見回すと、かかった者は目の近くにも腐汁の斑点がついていた。
青くなって必死で謝る助手をなだめながら、徐福は努めて冷静に指示を出す。
「ああ、そう謝らずとも良い。むしろ今回起こしてくれて助かった。
手が空いている助手は、しぶきがかかった者の顔を拭え。
それから……手袋の指先に滑り止めが要るな」
「内臓を取り出した時に、すぐ桶で受け取るようにしてはいかがでしょう。手で持ったまま隣の台に移すよりは、落とすことが減るかと」
失敗があれば、それだけ次への対策も出る。
徐福は内心胆を冷やしながら、今回得られた対策を書き連ねさせた。
今回だけで、いくつもの問題点と対策が浮かび上がった。これを知ったうえで人食い死体を解剖するのと知らないままやるのでは、大変な違いだ。
しかし、今回だけで全ての問題に気づけたとは言えない。
それでも、人食い死体の解剖はやらなければならない。この奇妙な死体の理を解き明かし不老不死につなげるには、避けて通れぬ道であった。




