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隔離区画で新たな解剖が始まろうとしている間に、離宮でも新しい実験が始められていました。
人食い死体を作るのに必要な材料を、侯生は着々と揃えていきます。
また、箸休めに新しい人物が登場します。
胡亥:秦の始皇帝の息子で、二世皇帝。趙高の傀儡と化し、秦を滅亡に追い込んだ。
趙高:始皇帝に仕えた宦官で、始皇帝の死後は政治の実権を握る。胡亥を殺してクーデターを起こそうとするも、失敗した。
それからさらに一週間が経ち、その間新たな発症者は出なかった。
感染は終息したとみて、発症しなかった検体たちは地下離宮に移された。
隔離区画の独房に入れられている間は文句を言ったり嘆いたりしていた検体たちも、地下離宮で柔らかい寝床とそれなりの飯を与えられると機嫌を直した。
さらに検体たちには、共用ではあるが女も与えられた。
地下での暮らしをできるだけ将来の始皇帝に近づけて感想を聞くためという名目で、侯生が買って連れて来たのだ。
その女は少し肌の黄色みが強く、疲れやすくて役目以外の仕事はしたがらなかったが、検体たちには好評だった。
何にしろ、顔は島ではお目にかかれない美女だ。
検体たちはこぞってその女に群がり、不自由な身ながら世話を焼きたがる者もいた。
それを見て、徐福は侯生の耳もとでささやいた。
「……あの女、肝臓が悪そうだな。
あれも材料、ということでいいか?」
すると、侯生は意地悪く笑って答えた。
「さすがに、徐福殿に隠し事はできませんな。その通り、あれも人食い死体を作るための材料の一つ……肝の病の元です」
侯生は、検体たちに囲まれている女に目を移して続ける。
「元はそこそこの歌妓だったのですが、肝を病んで落ちぶれてしまったそうで。しかもあの女を抱いた男が何人も肝を悪くしたそうで、店からも追い出されたと」
「なるほど、では伝染性のものだな」
「はい、それで商売ができず生活に困っていまして。
私が肝の病なら構わないから安い女はいないかと言って探していたところ、元の店から紹介してもらえました。
それに、地下で仕事をしてもらうと言ったら、あの女は喜びました。病のせいで肌が汚くなってしまったので、薄暗い方が助かると」
それを聞くと、徐福は皮肉っぽく笑った。
「そうか……肝を悪くすると肌に出るからな。
お互いの利益が一致したという訳か」
検体たちにあてがわれた部屋は、最も重要な賓客である安息起の部屋より光源が少ない。そのうえ光源が炎のみであるため、光が黄色を帯びていて肌の肝斑や黄疸が見えづらくなるのだ。
そのため検体たちには、この女はただの気だるい美女に見えるだろう。
そして何の警戒もせずに抱き、肝の病をうつされる。
そうなれば、後は天然痘にかからせて人食い死体を作るだけだ。
「ふむ、少し時間はかかりそうだが、前進できるな」
「はい、男の検体についてはそれでいいでしょうが……」
侯生はそう言葉を濁し、たった一人女から離れている検体を見た。
その一人は、侯生が連れて来て生き残った中で唯一の女だ。たった一人の女になったので男たちからちやほやされるかと思いきや、いきなり美女が現れて面白くないらしい。
ふてくされたように、ひたすら酒を飲んでいる。
「あれは、肝の病をうつすのが難しそうですが……どうしましょう?」
「しばらく放っておけ、人食い死体にならん検体も必要だ。
何なら、殺して再び助手を選別する用の動く死体にしてもいい」
それだけ言うと、徐福はすぐにその女の検体から興味を失った。
徐福が興味を持つのは、自分の研究にとって有用なものか問題となるものだけだ。あってもなくてもいいものなど、思考を割く価値もない。
今の徐福の頭の中を占めているのは、天然痘で死んだ者の解剖だ。
今この瞬間も、徐福は隔離区画に戻りたくてたまらなかった。
隔離区画にいた時は地下離宮が恋しくなったが、今こうして離宮に戻ると、隔離区画に置いてきた新しい検体が恋しい。
早く切り刻んで新しいことを知りたいと、脳が疼いている。
その衝動に居ても立ってもいられず、徐福は次の実験の指示を出した。
「よし、それでは三日後に、天然痘で死んだ者の解剖を行う。
俺と侯生が執刀し、他にも助手が三人はほしい。この遺体で何か新しい実験をしたい者がいれば、優先する。
ただし、解剖後はしばらくここに戻れぬので注意するように!」
地下離宮での仕事を長らくほったらかしにしていたため、今すぐという訳にはいかない。
それに、侯生は表の仕事もしなければならないのだ。咸陽に戻ってきたと皆に知られているのに、外で全く仕事をしない訳にはいかない。
怪しまれない程度に表の仕事をこなすため、侯生は驪山陵の外に戻った。
驪山陵は今日も、絶え間なく工事が進められていた。
地下は本宮造営に向けてどんどん掘り進められ、地上ではそこから出た土を盛り土として多くの建物の基礎が作られている。
本当の目的は地下にあるが、地上部分も始皇帝の威厳にふさわしい壮麗さになりそうだ。
それこそ無駄以外の何物でもないが、侯生は何も言わなかった。
地下で行われている秘密の研究を覆い隠し、人目を引きつけてくれるものは大いに越したことはない。
侯生はあくまで表の工事を助けに来たという顔で、現場監督たちに話を聞いて回った。
と、そこに割り込んでくる者がいた。
「おまえが、侯生とやらか?」
突如声をかけてきたのは、まだ声も変わっていない子供だった。
しかし、ただの子供ではない。その子供はこの工事現場に似つかわしくないきらびやかな装いで、宦官のかつぐ輿に乗っていた。
その姿に気づいた途端、周りにいた官吏や衛兵、労働者たちが一斉にひれ伏す。
侯生も慌てて、その子供に平伏した。
子供はそんな侯生に、文字通り上から目線で声をかける。
「父に命じられて、この驪山陵の邪気を払う仕事を請け負ったそうだな。重要な役目、ご苦労である」
「は、ありがたき幸せでございます!」
侯生が返事をすると、子供は不機嫌そうになった。
「おまえが幸せかなど、どうでもよい!
大事なのは、仕事が滞りなく進むかだ。
しかるにおまえは、大任を負っていながら父の巡幸について行ってここを留守にしてしまった。おかげで、ここの仕事が滞っているのではないか!」
「は……それは申し訳なく思っております。
しかし、人柱の儀式については弟子の徐市が執り行っていたのでは?」
侯生と盧生は巡幸に出かける時、徐福に後のことを任せておいた。
徐福が徐市と名乗り、二人の弟子であることにして、二人が行う儀式を代役として行うようにしておいたのだ。
徐福の顔を知っている、前回の巡幸について行った者はだいたい今回の巡幸にもついて行っているため、驪山陵の内部だけであれば顔でばれることはないはずだ。
それに、全てのからくりを知っている徐福なら間違いは起こらないであろう。
そう思って、任せておいたのだが……。
「何か、問題でもございましたか?」
恐る恐る侯生が尋ねると、子供はますます不機嫌になってぶっきらぼうに言った。
「特に問題は、ない!
依頼して物資を用意すればきちんと儀式をやってくれたし、一人で人柱と飼い殺し共をしっかり管理しているようだし、できた弟子だな。
おまえたちの守る神秘を、愚直なほどしっかり守ってくれたぞ。
偉大なる父上の公子たる、この僕に対してもな!!」
その瞬間、侯生は気づいた。
この子供は、始皇帝の実子たる公子の一人だ。
そしてどうやらこの子供は、地下で徐福たちが何をやっているか知ろうとしたのだ。だが徐福の口は固く、父の命令を盾にされては押し入る事もできなかった。
その思い通りにならなかった幼稚な怒りを、侯生にぶつけているのだ。
「全く、何でおまえたちはこんなに杓子定規なんだ!
僕は父上から驪山陵の監督を命じられてここにいるんだぞ。僕が全体の監督なんだから、枝葉を司る者は僕が見せろと言ったら全部見せるべきなんだ。
それを禁忌がどうとか構造がどうとか、言い訳にも程がある!
おまえたち、僕を誰だと思っている!?」
子供が尊大に問うと、周囲の官吏や衛兵たちは声を揃えて言う。
「偉大なる皇帝陛下の大切なお子様、胡亥様でございます!!」
周囲から一斉にそう言われて、その子供……胡亥は実に気分が良さそうにうなずいた。その様子はとても威厳ある為政者ではなく、ただ立場に自惚れた子供だ。
(私たちが留守の間に、こんなのが現場にのさばっていたのか。
これは、徐福殿もさぞ面倒であっただろう)
会ってまだ間もないというのに、侯生はこの子供にうんざりしていた。
胡亥はただ知らないことを手当たり次第に暴こうとして、現場を引っ掻き回しているにすぎない。
こんなのがいては、工事がはかどるどころか阻まれて遅れてしまう。
しかし性格は単純だし父の不興を買うのはまずいと分かっているからか、父の将来に関わる神秘である自分たちの領域に深入りはできなかったようだ。
もっとも、徐福ほど人の扱いに手慣れていれば、こんな子供を追い払うのは訳ないだろう。
徐福が胡亥のことを侯生に言わなかったのも、徐福にとって関心を持つほど大きな問題でなかったからだ。
少なくとも、今進めつつある研究を押しのけて頭を割くほどの事ではない。
実際、胡亥は何もできなかったのだから。
要は、うるさいだけで何の害もない虫のようなものだ。
ただし、こうして無駄に足止めを食うのは不快だが。
侯生が早く動きたくてうずうずしながら平伏していると、輿の後ろから一人の宦官が駆けてきて胡亥に声をかけた。
「お坊ちゃま、本日の報告の用意が整ったとのことです。
ささ、参りましょう」
それを聞くと、胡亥は侯生に興味を失ったように去っていった。
ようやく頭を上げた侯生に、その宦官がぺこぺこと謝る。
「大事なお仕事中、邪魔をして申し訳ありませぬ。胡亥様はまだほんの子供でして、どうか悪く思わないでくださいませ。
私は、教育係の趙高と申します。
あまり迷惑をかけるようでしたら、私に言っていただければ何とかいたしますので」
どうもこの趙高という宦官が、あの胡亥のお目付け役であり、胡亥がかけた迷惑の尻拭いをしているらしい。
侯生は少し気の毒に思い、趙高に言った。
「いえいえ、お構いなく。
お互い、大変なお仕事でございますな。とは言え陛下のためでございますから、手を抜くことはできませんし。
また何かありましたら、お声をかけさせていただくかもしれません」
「私にできる事でしたら、よしなに」
趙高は、柔和な笑みを浮かべた。いかにも人の良さそうな、世話焼きで真面目な宦官という感じだ。
だから侯生は、もしかしたら力になってくれるかもしれないと期待していた。
だが、侯生の目ではその裏の本性までは見抜けなかった。
胡亥と趙高、本当に危険なのはどちらか。趙高が内心どんな野心を抱いていて、何のために方々に人脈を広げようとしているのか。
そして、そんな彼が徐福たちの研究を知った時、何をしようとするのか……。
今の侯生には、何一つ見えているものはなかった。




