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舞台が再び地上に戻ります。
前回の解剖以来、徐福の研究は滞っていました。そんな中でも盧生と侯生は地下の要望を次々と李斯や始皇帝に伝えていきますが……その中で、変化の予定を耳にします。
徐福の研究が滞っている原因は、一体何だったのでしょうか。
驪山陵は日々掘り進められ、地下宮殿の骨格が作り上げられていく。
だが、あの解剖実験の日以来、徐福の研究は滞っていた。
もちろん、何も進んでいない訳ではない。元死刑囚の助手たちはそれぞれの得意分野と解剖実験での経験を生かして、いろいろと有用な案を出してくれる。
「工事の際に湧き出した地下水を使い、ここに水道をひいてはいかがでしょう。
併せて排水路も作れば、実験や生活の片付けがぐっと楽になります」
元建築士の助手は、そう提案した。
確かに、先日の解剖実験のような汚物が多く出る実験では、水が大量に使えた方がいい。先日の解剖の後、限られた水で片付けをするのはとても大変だった。
それに、驪山陵の工事現場では地下水が出ている場所が何か所もある。工事をするうえでは邪魔にしかならないこの地下水だが、地下で暮らすうえでは重要な水源だ。
ならば、封じるだけではなく有効に活用することを考えた方がいい。
他にも、元火焚きであった助手はこう言った。
「外の風向きを考えて、風が抜けるような空気道を作った方が良いですな。
悪臭を散らすのはもちろんのこと、火を使うにも新鮮な空気が必要です。そもそも火であぶったり熱湯に浸したものからは悪臭が発生しにくいので……前の解剖でももっと大量に熱湯が使えれば……思い出したらまた気分が、オェッ!」
地下深くにあるこの地下離宮では、空気の流れが少ない。
そのため悪臭がたまってしまいやすいし、あまり長く火を焚くと酸欠になるのだ。
これから実験の規模を大きくするうえで、この点は確実に改善した方がいい。さもなければ、設備のせいで研究に枷をはめられてしまう。
「ふむう、研究対象の他にも気に留めるべきことは多いな。
今は、それらの改善に専念すべきか」
これらの有用な提案を聞いて、徐福は解剖で役に立たなかった助手たちのことも見直していた。
実験そのものの役には立たなくても、研究全体を支えてくれればそれは有用なのだ。研究そのものが一時停止しているせいで、かえってそれに気づけた。
「……そうだな、次の検体が手に入るまでにしっかり設備を整えねばならん。
盧生と侯生には、よく陛下に進言してもらわねば」
そう呟いて、徐福は最も役に立つ二人の弟子を待った。
自分たちの中でただ二人、ここから出て大手を振って日の下を歩ける人間……方士として始皇帝に仕えている盧生と侯生を。
盧生と侯生は、このところ王宮にいることが多かった。
地下の研究が滞っているのも一因だが、二人にはもっと大切な役目があった。地下から伝えられる徐福たちの要望を、上に伝えるという大役が。
そのため二人は、驪山陵建設のための会議によく出席している。
「さて、方士のお二方、何か意見はありますか?」
李斯に尋ねられると、二人は徐福たちからの要望に陛下のためという理由を加えて答える。
「工事現場に湧き出している地下水を使って、地下宮殿に水道を作ってはいかがでしょうか。陛下が住まれるにも水が必要ですし、水を外から運び込むとなるとその分人の出入りが増え、陛下の神気に害がございます」
「それから、放っておいても空気が流れる通気口も必要かと。空気の澱みは邪気の元ですし、明かりを採るために火を灯し続けるにも新鮮な空気が必要です」
それを聞くと、李斯も真面目な顔でうなずいた。
「うむ、その意見はもっともだ。
火も水も、地下で自由に使えるに越したことはない。陛下が住まれる以前に、工事を進めるうえで必要であろう。
どうだ、できそうか?」
李斯は、現場の指揮を執っている技術者たちに問う。
すると、技術者たちは目を輝かせて言った。
「分かりました、やってみやしょう!
金と人さえしっかり出してもらえば、こっちもできる限りやりますぜ!」
普通の感覚からすれば無茶ぶりのようだが、ここにいるのは国の大事業で存分にその腕を振るおうと意気込む天下の名工たちである。
難しい工事は、成功すれば天下にその名を轟かせる絶好の機会だ。
しかも始皇帝の命令で国の事業として行われるこの工事なら、必要とあらば人も金も好きなだけ使って思う存分挑戦できる。
新しい事に挑戦したい職人たちにとって、こんな素晴らしい舞台が他にあるだろうか。
そんな職人たちに、盧生と侯生の提案は望むところだった。
さらに、李斯は他の件についても盧生と侯生に問う。
「ところで、地下で生かしている囚人共は地上の何が恋しいと言っていたかな?宮殿の具体的な形を考えるに、必要なものを整理せねば」
それについても、二人は実際に地下で聞いた意見を伝える。
「第一に、空が見えないので閉塞感で息が詰まりそうだと。
我々は地上で暮らしながら、日々変化するものと広々とした空間を見慣れております。それが日も雲もなく天井が岩ばかりとなると、かなりこたえるようで……」
「周りに動きがないのが退屈で辛い、とも申しております。
そよぐ木の葉や川の流れ、そういう見ているだけで心が安らぐ動きが全くなくて心が荒みそうだと。江や海が恋しい、と言う者もおります」
これらの意見は全て、実際に地下で暮らす者たちの切実な感想だ。もっとも、大部分は囚人たちではなく、もっと安楽に飼われている安息起の意見だが。
それを聞くと、李斯は難しい顔をした。
「うーむ、空か……地下である以上、それは難しい注文だな。江や海にしても、地下の狭い空間に持ち込むのは無理がある」
「地下水を使って、小さな川や池なら作れそうですがね」
技術者たちが言ったが、李斯は浮かぬ顔のままだった。
「いや、勝手に陛下のお気に召すか分からぬものを作るのはよそう。
この件については陛下に伺いを立て、陛下のご意向に合わせて作ることとする。次の会議までに私が聞いておくから、それまで待つように。
それと、通気口や水道はまず地下離宮の方で試しておけ。本宮にぶしつけ本番で作って大事故を起こしては、目も当てられぬからな!」
技術者たちは、深々と頭を下げて指令を受けた。
こうして、盧生と侯生の思惑通りに意見を通して会議は終わった。
会議が終わると、李斯が盧生と侯生に声をかけてきた。
「さて、私はこれから陛下に謁見して先ほどの報告をしに行く。
そなたらも、一緒に来るか?」
それを聞いて、盧生と侯生は少し迷った。始皇帝と直接話せる機会ができるのはありがたいが、それは同時に目をつけられる危険を伴う。
よく始皇帝の側にいる、あのうっとうしい厳格な工作部隊長に。
地下にいる徐福たちが派手に動けず研究が滞っているのも、その男を警戒してのことだ。だから、今盧生と侯生がその男に目をつけられては非常にまずい。
しかし、そんな二人の心中を読んだように、李斯が告げる。
「大丈夫だ、尉繚なら今日はおらぬぞ。
そなたらとの話を聞かれる心配はない」
それを聞いて、盧生と侯生はホッと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます。では、ご一緒させていただきます」
李斯の気遣いに感謝しながら、二人は始皇帝の執務室へと向かった。
始皇帝に謁見すると、李斯はさっそくさっきの会議で決まったことを報告した。それから、地下で暮らす者たちからの感想も伝えた。
すると、始皇帝は深く思案するように呟いた。
「うーむ、そうか……地下は狭く、動くものがなくて退屈か。
考えてみれば当然のことであるが、朕が住む以上は何とかしてほしいものじゃな」
「地下水を使って川や池を作る事はできそうだと、職人共が申しております」
李斯が言うと、始皇帝は不機嫌そうに首を横に振った。
「それは面白うない。そんな離宮は地上にいくらでもあるし、その程度のもので空を失った穴を埋めることはできぬ。
それに、地下宮殿は不老不死にしてこの地上の唯一の支配者である朕にふさわしいものにせねば。
どこにでもある普通の宮殿を作っても、神や仙人の心を動かすことなどできぬわ」
始皇帝はここでも、自分を特別な者として仙人に見せることにこだわっていた。
自分が唯一の支配者であり、常人を超えているところを見せつける事で仙人に認められて仙薬をもらえる……徐福の時間稼ぎの方便を、始皇帝は頭から信じ込んでいる。
こんな時でも、その考えがまず大前提になってしまうほどに。
「……では、どうすれば……?」
戸惑う李斯を前に、始皇帝は盧生と侯生に尋ねた。
「ところで、方術では玉や水銀が永遠をもたらすとして珍重されているらしいな?」
突然の質問に驚きつつも、盧生は丁寧に答える。
「は、仰せの通りでございます。
玉はいくら時を経ても腐ることがございませんので、それで遺体を包むことで腐敗から守ることができます。水銀は熱を加えると丹砂となり、また再び水銀に戻りますので、姿を変えながらも循環して朽ちることがありません。
ゆえに、死ぬことのない神仙に通じると言われております」
すると、始皇帝は満足そうにうなずいた。
そして一人で何かに納得したような顔をし、こう言った。
「では、それらをふんだんに使って朕を囲む宮殿を作り上げよう。
青天は作れずとも、暗い天井に宝石をはめ込めば星空を作ることはできよう。そして水の代わりに水銀を使って、江と海を作るのだ!」
それを聞いた途端、李斯と盧生と侯生は思わず硬直した。
始皇帝の意見は、あまりに常軌を逸している。
宝石で空を作り水銀で江と海を作るとは、常人では考えることすらできないぜいたくの極みである。それにかかる費用を思うと、さすがの李斯も背筋が寒くなった。
盧生と侯生は、始皇帝の不老不死への執着に空恐ろしさを覚えた。仙人に気に入られて仙薬をもらうためにそこまでするのかと、驚きを通り越して呆れるほどだ。
しかし、否定することはできない。
これは紛れもなく最高権力者の意向だし、否定すれば始皇帝の信じる不老不死への道をも否定することになるから。
「そ、それは……面白い案ですな」
「では、近日中に職人共に伝えてみます」
固い笑顔で話を合わせる三人の脳裏に、尉繚のことが浮かんだ。
尉繚がここにいれば、都合がいいか悪いかは別として始皇帝を諌めようとしてくれたことだろう。だが、彼は今ここにいない。
「……そう言えば、尉繚殿は今日はおられぬのですね」
侯生がそれとなく言うと、始皇帝はあっけらかんとして教えてくれた。
「ああ、あやつならば次の巡幸のための調査に行っておる。近く、また東方に巡幸しようと思っているのでな……そのための調査を任せた」
その答えに、盧生と侯生ははっと思った。
(次の巡幸……これは好機だ!)
始皇帝が巡幸を行うとなれば、必然的に都に張り巡らされた警備の目は甘くなる。その筆頭である尉繚は、しばらく帰ってこない。
ならばそこを狙って、自分たちの研究を再び進められるのではないか。
尉繚が不在なせいで、李斯と始皇帝の心も盧生と侯生に気兼ねしなくなっている。あの邪魔者がいない今こそ、深く根を張って立場を確立する好機だ。
(……これは、良いことを知った)
心の中でしてやったりと笑いながら、盧生と侯生は始皇帝の前から退出した。




