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湘山での暴挙を終え、咸陽への帰路についた始皇帝一行に、尉繚が戻ってきます。
尉繚が持ってきたのは、かつて始皇帝暗殺に関わった一人の楽士の情報でした。尉繚と李斯は早く殺してしまおうと進言しますが、始皇帝は……こういう二律背反は本当に臣下泣かせです。
そして、盧生と侯生はそれに付け込んで……弱っているところを助けるフリをするのは詐欺の基本です。
高漸離:始皇帝が中国を統一する前、暗殺に訪れた刺客、荊軻の親友にして筑の名人。
咸陽へ向かって少し進んだところで、しばらく見なかった顔が始皇帝の一行に戻ってきた。
それは、工作隊長の尉繚である。
尉繚は始皇帝が不老不死への道を求めた時、あくまで現実的に物を見て多くの方士たちを追い返した経緯がある。
今ついて来ている方士たちの中には、一度尉繚に追い返された者もいる。
当然、彼らは尉繚をよく思っておらず、その姿を見た瞬間に敵意を交えた視線がぶつかって火花を散らした。
盧生と侯生も、一度尉繚の進言で徐福の計画を潰されそうになっている。
(奴が側で目を光らせていては、我々や徐福殿が動きづらいな。
さて、どうするか……)
自分たち以外にも尉繚が目を光らせねばならない方士が多いとはいえ、油断は禁物だ。
尉繚と、彼に従う工作部隊の情報収集力は尋常ではない。何とかして目を逸らすか動きを封じなければ、自分たちが咸陽で動けなくなってしまう。
徐福の計画を秘密裏に進めるうえで、これは重大な課題だった。
そんな盧生と侯生をよそに、尉繚もまた一つの懸案事項を抱えていた。
尉繚の仕事は、始皇帝に害をなす者がいないか調査し、始皇帝の安全を守ることである。それが戻ってきたのは、まさにその懸案となる者が見つかったからに他ならない。
尉繚は方士たちに構う間もなく、始皇帝と李斯に報告した。
「以前、陛下を暗殺しようとした男の親友が見つかりました!」
「何と!」
始皇帝と李斯は、目を見開いた。
尉繚は、さらに詳しく報告を続ける。
「かつて燕の太子の命令で陛下のお命を狙った刺客、荊軻の親友で高漸離という男です。荊軻が暗殺に向かう時、別れの曲を奏でた筑(琴に似た楽器)の名人だそうで。
巡幸の道程に名演奏家がいると聞き、調べましたところ、その男と判明いたしました!」
それを聞くと、李斯の表情が険しくなる。
「そうか……あの時は国外から来た刺客であったがゆえに、縁者や同志まで掃討できなんだな。燕を滅ぼした時に、そこにいた縁者どもは皆殺しにしたが……それまでに身を隠しておったのだろう。
全く、忌々しい!」
その暗殺未遂事件は、李斯にとって相当嫌な思い出らしい。
李斯はすぐさま、始皇帝に進言した。
「これは一大事でございます。
そのような反抗の芽を残しておけば、不穏分子の種となるかもしれませぬ。筑の名手なら、援助しようとする者も現れましょう。
ここは、すぐさま首を取って晒すべきです!」
尉繚もそれに賛成らしく、始皇帝に強い視線を送って待っている。
だが、始皇帝はそれを跳ね返した。
「ほう、それは面白い……ぜひともその演奏を聞いてみたいものだ!」
「!?」
その言葉に、李斯と尉繚が硬直する。
当然だ、二人は始皇帝の命を守るために当然の報告と進言をしたのだ。しかし、その守られるべき始皇帝本人が刺客の親友を近づけたがるとは、どういうことか。
驚いて絶句している李斯に、始皇帝は楽しそうに告げる。
「身を隠していても名が知れ渡るとは、余程の名手なのであろう。それほどの才ならば、ぜひ朕のものにしたいものじゃ。
それに、刺客の荊軻はもう死んだのだぞ?楽士一人に、何を恐れるのか」
「し、しかし……わざわざ危険を冒さずとも……」
李斯が顔面蒼白になって進言しても、始皇帝は全く意に介さない。
「危険だと?そのような危険が朕に近づかぬように、安全管理の体制を作ったのはおぬしではないか。
それに、天下はみな朕のものになったのだ。であれば、この国にあって朕の手に入らぬものがあっていい訳がない。
そうであろう?」
「は、はあ……それはまさしく……」
李斯が、歯切れが悪そうにうなずく。
そんな主思いの臣下に、始皇帝は眉一つ動かさずに問う。
「のう、あの荊軻の一件以来、おぬしはまた朕の安全対策を強化してくれたというではないか。それとも、まだ不備があると申すのか?」
「いえっそれは……し、少々、検討して参ります!」
己の敷いた体制の信頼性にまで言及された李斯は、青息吐息で一旦下がってしまった。
他の臣下たちも尉繚も、固唾を飲んでそれを見送っていた。
この騒ぎを、盧生と侯生は遠くから見ていた。
やがて内容が伝わってくると、方士たちもざわめきだした。始皇帝が暗殺されてしまったら、もう不老不死をエサに利益を得ることはできないのだから、当然だ。
しかし、積極的に首を突っ込もうとする者はいない。
いや、したくてもできないのだ。
なぜなら、この判断は始皇帝の命に関わる。もしその楽士、高漸離が始皇帝の暗殺を諦めていなかった場合、側に置けば最悪、始皇帝が殺されてしまいかねない。
だが、その逆を進言すれば今度は自分の命に関わる。高漸離に会いたがっているのは始皇帝なのだから、それに反対すれば始皇帝に逆らうことになってしまう。
だから李斯も、即決できなかったのだ。
始皇帝を守るには高漸離を近づけずに殺してしまうのが一番だが、そうすると始皇帝の望みを叶えられない。
これは難しい二律背反だ。
これには、誰も口を挟むことなどできなかった。
盧生と侯生、たった二人を除いては。
「これは、考えようによっては好機かもしれんな……」
盧生は、わずかに口の端を上げて呟いた。
(暗殺者の恐れがある者を側に置かせておけば、あの尉繚の目をそちらにそらせるかもしれん。少なくとも情報調査力の一部を、そいつの周囲に回さざるを得なくなる。
それに、李斯という男はとてつもなく有能だと聞く。その男が管理している宮廷で、そう簡単に暗殺を許すとは思えん。
ここは、その楽士を側に置かせるべきだな)
これが、盧生の方士として磨いてきた世渡り術から出した答えだった。
それにこの二人にとって何より重要なのは、徐福の不老不死の研究を実行できる環境を作ることだ。そのためには、利用できるものは何でも利用すべきだ。
始皇帝が暗殺される危険は残るものの、現状のまま李斯や尉繚に監視され評価され続けるよりはマシだ。
今の状況では、研究を始めることすらままならない。
それを侯生に耳打ちすると、侯生も緊張を隠せぬままうなずいた。
「そうだな、ここで李斯殿の背中を押して、恩を売っておくのもよかろう。あの男も決められずに悩んでいる……いや、本当は陛下の命令に従いたいのだ。
だから我々は、少し背中を押す程度でよい。
万が一陛下に何かあった時は、あいつの責任になるようにしてな」
「違いないな!」
やることは決まった。自分たちは、他のすべてに優先して、研究のために動くのみ。
盧生と侯生は一度顔をほぐすように深呼吸すると、二人で連れだって李斯の元へ向かった。
始皇帝の轀輬車から少し離れた馬車で、李斯は悩み続けていた。
どう答えるべきか分からなくてとっさに退出してきたものの、いくら一人で考えても答えは出そうにない。
周りの臣下たちも、あてにならない。方士たちと同じ理由で、誰も手を出そうとしないのだ。
李斯を含め臣下たちは、始皇帝が意のままにならぬ者、気に食わない者に対してどれだけ残酷になれるかをよく知っている。
かつて始皇帝を支えていた者が、邪魔になったり何かの拍子に逆らったりした途端に、苛烈な刑を受けて死んでいった。
今生きているのは、始皇帝とよほど気が合うか、従順で臆病な者ばかりだ。
李斯は前者に近く、その他大勢はほぼ後者である。
これでは、李斯の助けになる意見など出ようはずがない。常なら多少自分の意見を持っている者も、湘山での神に対する始皇帝の仕打ちを見てすっかり委縮している。
李斯は、ただ一人で重すぎる判断に喘ぐしかなかった。
いくら時間をかけても答えなど出せそうにないのに、時間をかければかけるほど始皇帝の機嫌は悪くなる。
時間が経つほどに焦りが増し、頭の中がまとまらなくなる。
そんな時だった……李斯の元を二人の方士が訪れたのは。
「陛下のために、意見を奉ります」
そう言ったのが臣下ではなく方士だと分かると、李斯は少しだけ肩を落とした。
だが、盧生はそんなことを少しも気にせず、うやうやしく頭を下げて告げる。
「我々は皇帝陛下の命数を見ますに、高漸離とやらを側に置くことに何の問題もないかと存じます。なぜなら、皇帝陛下のお命は長久となられるからです」
「おお、それでは……!」
脂汗が浮いていた李斯の顔が、わずかに緩む。
そこを逃すまいと、盧生は方士として磨いた話術を総動員してたたみかける。
「ただし、それは陛下お一人のお力では成し遂げられません。
李斯様のような忠義の臣の支えあってこそ、陛下は唯一絶対の存在になられます。李斯様には、その力がおありです。
だから李斯様にも、陛下が試練を越えて長久の生を得られるよう、ご協力いただきたく存じます」
盧生は、巧みに李斯を持ち上げ、さらにこの件を不老不死とつなげて助力を請うてみせた。
暗殺の危険を乗り越えるべき試練と説き、それをあえて受けることで天にその偉大さを知らしめる……訳の分からない仙薬を売りつけて、その毒性を試練と説くのと同じだ。
それに、李斯にも始皇帝を守る者としてのプライドがある。そこをくすぐってやれば、危険だからこそ必ず守ってみせると躍起にさせるのは簡単だ。
元々そうやって実体のない術や薬で生計を立てていた盧生にとっては、慣れたものだ。
そうして李斯をその気にさせると、最後に侯生がこうささやいた。
「このことは、陛下にも他の者にも漏らすことなきよう。
長久の命を得られると知れば、油断して試練に負けてしまったり、仙人の機嫌を損ねてしまいかねません。
それぞれが、なすべき事に無心に取り組むのが肝要なのです。
お分かりいただけますな?」
李斯は、半ばぼうっとした様子でうなずいた。




