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引き続き、項羽の追撃戦。
そして、それを眺める劉邦たちの最終決戦にかける思い。
バイオハザードへのリスペクトで、やっぱり変異体の名前はアレしかない!ちょうど語呂も良かったので。
既刊、「ゾンビ・オブ・ザ・官渡」にも出てくる名前です。
己に向けられた信じられない残酷な思いに、項羽は思わずその場で慟哭した。
自分は確かに、世界最強になったのかもしれない。しかしこの力は、自分以外の何一つ守れない破壊のためだけの力。
事実、力を手に入れてからも項羽は失ってばかりだ。
愛しい虞美人は、自らの腕の中で亡骸となり果てていた。
どんなに力を振るって戦っても、配下はどんどん減っていく。項羽自身が食ってしまったり、それを恐れて去ってしまったり。
いくら心でやめろと叫んでも、殺して食うのをやめられない。
腹が減ると自分が自分でなくなって、気が付けば血の海にいる。
己が何をしたか、覚えていない訳ではない。今までは、思い出すのを拒んでいただけだ。
出せるものを全て差し出して、どうか命だけはと懇願する民。信じていたのに尽くしていたのにと、錯乱して泣き叫ぶ味方兵。そして、どんな痛みにも最期まで笑おうとしていた虞美人……。
みんなみんな、獣のように貪り食った。
それを代償に維持している、人を超えた力。
これでは江東に帰ったとて、范増が言うように……。
暗い未来におののく項羽に、黥布が言う。
「分かってたぜ……おまえはいつも、目の前のことしか見えてねえ。
戦の興奮と力に酔って、認めたくないものは全部見ないふりして、放っといたらそのまま江東まで行っちまいそうだったからよ。
そうしたらおまえの手で江東がどうなるか、何も考えずにさ……。
だから、わざわざ持ってきてやった。
俺たちゃ、天下万民を守ってやんなきゃいけねえからよ!」
黥布は、皮肉たっぷりにそう言った。
項羽には分かる。黥布は、自分が生きて江東に行けば江東の民を食い荒らすだろうと言いたいのだ。
それが嫌なら、生きるのをやめろと。
(だが、それでは……俺を信じてくれた者たちは……俺の使命は……!)
分かっていても、はいそうですかと認めることはできない。
だって自分は、楚を復興して何にも脅かされぬよう守る使命がある。そのために、楚の名将の血筋に生まれ皆から期待されてきた。
なのに、これ程の力を手にしておいてそれを諦めるなどと……。
この期に及んで理想にしがみつく項羽を、黥布はせせら笑う。
「なあ、おまえ本当は他を守る気なんてねえんだろ?
今だって、俺と気になる手紙に食いついて味方を先に行かせちまって……本当に守りたいなら、止まってていいのかねえ」
「なっ……!?」
そう言われてようやく気付いた。
黥布がここで范増の手紙を出したのは、項羽と兵士たちを引き離すためでもある。いくら項羽が強くても、離れてしまえばただの敗残兵集団なのだから……。
「おのれ、謀ったな!!」
項羽はたちまち身をひるがえし、騅にまたがって味方兵の後を追った。
夢中で走りながら、項羽は悔しくてたまらなかった。
自分は本当に、目先のことしか見ていない。守りたかった味方を平気で自分から離し、激情に駆られて手の届きそうな所にいた黥布を見逃してしまった。
それでも、今は味方を助けに行くしかない。
項羽が己を肯定できる行為は、もうそれしか残っていなかった。
そして項羽と味方兵たちは、共に眼下に広がる敵軍を見下ろしていた。
項羽たちが沼地で立ち往生し、さらに項羽が范増の手紙で足止めされている間に、劉邦軍は自分たちを包囲していた。
それに引き換え、項羽が合流できた味方はたったの二十八騎。
それ以外は皆、項羽から離れて逃げているところを討ち果たされてしまった。
もう項羽が守れるのは、たったこれだけ。
対する劉邦軍は数千。どうあがいても、勝ち目のない戦だ。
だが、それでも残った二十八騎は項羽を信じている。項羽が誰にも負けず江東まで逃げ延びて、巻き返してくれると信じている。
そのために、自分たちの命などいくらでも捧げる覚悟を決めている。
彼らのそんな覚悟が、項羽になお誇りを保たせていた。
とはいえ、軍としての劣勢はもはやどうにもならない。せめてそれでも己を傷つけないために、項羽は雷のような声を張り上げる。
「俺はこれまで兵を挙げて、どんな敵にも負けることはなかった!
その俺が今こうなっているのは、天が味方しなかったからだ。決して、俺の戦い方が悪かったからではない!」
全てを天運のせいにする、自分のためだけの自己弁護。
しかし残った配下たちも、項羽を信じたいがゆえに力強くうなずく。
項羽は、眼下に広がる大軍勢を見渡して宣言する。
「これからこの軍勢に三度挑み、三度勝って見せよう!
それで、俺に戦の罪などないと証明してくれる!!」
項羽は残った二十八騎を四隊に分けると、号令をかけて四方の敵に突っ込ませた。そして自らも、体中に力をみなぎらせて敵に躍りかかった。
もはや誰のためかも分からぬ、不毛な死闘が始まった。
「お、おい……奴ら、突撃してくるぞ!」
「何つー無謀な……美味しくいただいちまおうぜ!」
あまりにも寡兵で突撃してきた項羽軍に、劉邦軍は信じられない顔をした。しかしすぐに美味しい敵だと思って、狩りにかかった。
こんなに少ない疲れ切った敵、恩賞の足しでしかないと。
だが項羽軍は、全員が飢えた手負いの獣同然だった。生存本能と闘争心で頭の中を染め上げ、死力を尽くして食らいついてきた。
油断していた劉邦軍は、ぶつかるや否や押し返された。
それに加えて、項羽の圧倒的な暴力である。
「どけっ!我が配下、死なせはせぬ!!」
項羽は騅にまたがったまま、不利になった配下のところを縦横無尽に駆け回る。配下を討ち取ろうとする劉邦軍を跳ね飛ばし、打ち砕き、食い散らかす。
「何だアレ!?本当に食ってるぞ!!」
「化けモンだぁーっ!!」
残虐を極めた血の宴に、劉邦軍に動揺が走る。そうして足がすくんでしまった者は、次の獲物となる。
簡単に武功を得られると思っていた劉邦軍は、たちまち肝を冷やして逃げ出した。
「冗談じゃねえ、相手にしてられ……わぁっ!?」
逃げ遅れた一人が、項羽に掴まれ引き寄せられる。
「人を殺しに来たなら……己が死ぬ覚悟くらいせぬか!」
項羽は叱りつけるようにそう言い、怯える敵兵の顔面にかじりついた。頭の中に響くような絶叫とともに、血がまき散らされる。
そんな光景を前にして、劉邦軍はもう生きた心地がしなかった。項羽以外の兵にもろくに手を出せず、我先にと下がろうとする。
かくして、項羽軍は三度の突撃で劉邦軍を追い払った。
配下を集めてみると、たった二騎失っただけだった。
「見たか!俺は、誰にも負けん!!」
項羽は、誇らしく胸を張った。その着衣と鎧は元の色が分からなくなる程血にまみれ、顔もおどろおどろしく汚れきっている。
それでも配下たちは、皆が目を輝かせて項羽を称えた。
「まさしく、おっしゃる通りです!」
「項王様は、不滅でございます!」
そう言われて、項羽は安心した。
范増も黥布も自分のことを、目先しか見えなくて人を傷つけるばかりだと言うが、きちんと配下を守れたじゃないか。
大丈夫だ、自分はきちんと王として務められる。
だからこのまま進めばいいと信じて、項羽はまた江東を目指した。
その戦いを、劉邦たちは少し離れた小高い丘から見ていた。
「うへぇ……おっかねえ」
血しぶきを噴き上げて蹴散らされる味方に、劉邦はちびりそうになる。
ここからでも、どこに項羽がいるかは手に取るように分かる。項羽がいる所だけ、次々と人が宙を舞い味方がぐちゃぐちゃに崩れていくから。
「何とすさまじい……獣の暴とはいえ、あれは手が付けられぬ」
韓信も、困ったように腕組みして呟く。
これまで優れた計略で数々の敵を討ち破ってきた韓信だが、今の項羽は勝手が違う。だってあれはもう、身も心も人ではない。
己が唯一の最強として生きるためだけに、違う立場の者から血肉を貪って止まらぬ自己愛の化け物だ。
劉邦は、ふと思い出して言う。
「そう言や、元は始皇帝が不老不死になりたくて研究させたんだった。
始皇帝も、ああなりたかったのかねえ」
「あんなものは望まぬにしても、似たようなものでしょう。
始皇帝とて、項羽と同じようにたった一人で世界を思い通りにしようとしていました。ああなったとて、国中から餌を集めて世に君臨しようとしたでしょう」
答えたのは、張良だ。
張良は、そんな始皇帝に世を思い通りにさせまいと暗殺しようとしたことを思い出していた。
結局暗殺は失敗したが、始皇帝はそのうち死んだ。しかし遺された研究は大乱の中で引き継がれ、そういう者の欲する力を生み出してしまった。
「もし始皇帝のみが死んで、秦の平和が続いていたら……あんなものは生まれずに済んだのでしょうか?」
張良の問いに、皆気まずそうに目を伏せた。
乱に勝つという目的がなければ、あんなものは作られなかったのではないか。
しかし石生は、すげなく首を横に振る。
「いいえ、むしろよくあの程度で済ましたものでしょう。
あなた方のしたことは、間違っていません。己の正しさしか信じぬ者に世を渡さぬことは、大切なことです。
そういう者が世の頂点にいる限り、邪悪な研究は止まらなかったでしょう」
石生は、己もかつてそうであったことを深く噛みしめていた。
そしてその重い気分を振り払うように、劉邦に言う。
「項羽をここで終わらせても、未来に同じことがないとは限りません。その時のために、我々は記録を残さねばなりません。
あの一つの完成形に、名を賜りたく存じます」
すると、劉邦は少し考えて呟いた。
「そうだなぁ……大乱の徒花みたいなモン……でも花はねえから……。そうだな、大乱の徒……大乱徒にしよう!」
石生は素早く、その名を書き記した。
「分かりやすくていい名です。
願わくば……これが最初で最後の個体で、後世に残した記録の意味が失われんことを!」
皆、その言葉が叶うよう祈りをささげた。
もっとも、後世の前にまずは今いる個体を何とかせねばならないが……。
「へへへっ項羽ならそう心配すんな。
とんでもなく燃費が悪いんだろ?下手に餌をやらなきゃ、そのうち片がつくさ。たったの二十六騎で、どこまでもつかねえ!」
皆の心配を払うように、彭越が笑う。
そう、もう項羽に付き従う生きた餌はたったの二十六。これまでの食いっぷりを見るに、遠からず尽きることは明らかだ。
それが大乱の落とし子の命尽きる時になると願って、劉邦たちはまたゆるゆると追撃に移った。




