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史実に基づいた生存フラグ回収と、項羽に宿る病毒の性質が明らかに。
それが分かった劉邦軍は、ついに最後の決断を下します。
追う者と追われる者、クライマックス近し!
最近休日出勤があって、投稿がかなりギリギリです。
このまま何とか遅れずに完結させたい!
「うっ……ぐっ……むうぅっ……!」
項伯は、真っ暗な闇の中で呻いていた。
何も見えない聞こえないのに、苦痛ばかりが嫌になるほど襲ってくる。体中を邪悪な何かが巡っているようで、ひどく気分が悪い。
(いやだ!人食い死体になどなりたくない!!)
項伯は、心の中で叫んだ。
自分が項羽に噛まれたのは、覚えている。ならば自分がどうなってしまうかも、范増の研究を見ていたので分かる。
(いっそ、早く殺してくれ!!)
項伯は、人に聞こえるならばそう伝えたくてたまらなかった。
考えられるのは、きっとまだ自分が生きているから。
もしかしたら自分はもう死んでいて、地獄で苦しんでいるのかもしれないが、その方がまだ受け入れられる。
自分は、ふがいなかった。情けなかった。
自分と一族は、項羽のことで世の中に計り知れない迷惑をかけた。項羽の暴虐を止めるという、目上の義務すらも果たせなかった。
だからもし地獄に落ちたとしても、当然なのだ。自分がどれだけ人に恨まれる立場にあったか、人の切実な期待を裏切って来たかは分かっている。
その責め苦がさらに増したのか、項伯は喉が苦しくてひどく咳き込んだ。
「ぐえっゲホッゲホッ!?」
その瞬間、項伯の目の前が急に明るくなる。
「項伯殿、大丈夫ですか!!」
項伯の耳に、旧知の人の声が響いた。
鉛のように重いまぶたを何とか開けると、張良の涙ぐんだ顔があった。そこで項伯はようやく、自分が生きていると分かった。
と同時に、危険に気づいた。
「は……離れ、ろ……わた……し、は……もう……」
項伯は精一杯の声でそう言ったが、張良は嬉しそうに首を横に振った。
「大丈夫ですよ、項伯殿。
あなたの血を検査してみましたが、感染していませんでした。普通これだけ派手に噛まれたら翌日には出るはずですが、三日たっても何とも。
しかし、今はまだ安静にしていてください。ひどい熱です」
張良は、項伯の額にそっと濡れた布を置いた。その時触れた張良の手が驚くほど冷たく感じられて、自分の熱の高さを思い知った。
だが、これは確かにいい兆候かもしれない。
人食いの病に感染すると、普通は体温が下がるのだから。
項伯は、天が己を助けてくれたことに心から感謝した。そして、もしこの先長生きできるなら、一生をかけて世に償おうと決意した。
項羽が垓下を脱出してから、数日が経っていた。
劉邦の下には、項羽について次々と情報がもたらされている。意識を取りもどした項伯から、項羽について行けず逃げ出した投降兵たちから。
それによって、項羽の宿す病毒の性質は明らかになりつつあった。
「……どうも、本当に感染しないみたいね。
これなら多分、何も知らない将兵たちをぶつけても犠牲以下にはならない」
陳平が、確信めいた口調で説明する。
「項伯も、それから項羽に噛まれながら逃げてきた数名の兵士も、今のところ検査でも症状でも感染の兆候はない。
項伯は熱も出してるし、安心していいと思う。
本格的に、項羽を討ち取りにかかりましょ!」
陳平が言うのに、側で聞いていた韓信や黥布の目がギラリと光る。
「ほう、やっとか!」
ようやく、武力で項羽を追い詰める時だ。
これまで劉邦軍は、逃げていく項羽軍に手を出せなかった。項羽から自軍に感染が広がるのを恐れていた。
だが、もうそれを心配することはない。
項羽の中の病毒が感染力を持たないなら、死以上を恐れる必要はない。後は死力を尽くして、項羽が江東に入る前に討ち取るのみ。
「良かった……けど、犠牲は出るだろうな」
劉邦は、苦し気に呟いた。
「そーねぇ、項羽がうまく食糧不足で弱ってくれたらいいんだけど……んな悠長にしてて江東に逃げられると厄介よ。
ここは、犠牲を覚悟で命知らず共をぶつけるしかない!」
陳平は、劉邦の決断を促すように言う。
「だから、ね……最後だから、思いっきり気前よく言ってあげて。
大丈夫、欲のために命を捨てられる人間なんていくらでもいるもの」
そう、感染はしなくても立ち向かえば死者は出る。あまつさえ強力な変異体になった項羽を討ち取るには、どれほどの犠牲が出るか分からない。
それでも、立ち向かって止めなくてはならない。
江東にはまだ項羽を心の底から信じ、項羽のために命を捨てられる者たちがいる。そういう者が餌となる前に、殺さなければ。
そのためには、こちらも死を恐れぬ部隊を作って挑むしかない。ここで皆が命を惜しんだら、世の命が失われる一方だ。
そのための効果的な方法を、劉邦は熟知していた。
「よおし、そんじゃ、追撃隊を作ってくれ。
もし項羽を討ち取って首を持ってきたら、そいつには千金を与えて万戸侯(一万戸の大領主)にしてやる!
死んだときの慰問金も三倍……いや五倍だ!
すぐ広めて参加者を募れ!!」
この発表に、劉邦軍の強欲な者たちは色めき立った。
これほどの一獲千金の機会は、またとない。ただでさえこれから平和になればもう戦で恩賞が稼げなくなるのだから、最後の機会だ。
それに今までは呪いがうつる恐怖もあったが、それもうつらない性質だったと発表された。ならば、自分の命以上の心配はしなくていい。
劉邦軍はたちまち命知らずの追撃隊を編成し、項羽を猛然と追い始めた。
その頃、項羽は道に迷って往生していた。
淮水を渡りさらに江東に近づいたが、分かれ道で農夫に道を聞いたところ、騙されて広大な沼地にはまってしまったのだ。
「クソっここまで来て!
俺が秦から解放してやったのに、どういうつもりだ!!」
項羽は叫んだが、まとわりつく泥はどいてくれない。
力を込めて懸命に足を動かすも、巨体と鎧の重さで沈んでうまく歩けない。馬ごと沈んでしまわないように、下馬してゆっくり行くしかなかった。
長い事そうしていると、また腹が減ってくる。
(あいつめ、やり返したつもりか……そんなつもりではなかったのに!!)
そう言えばこの辺りからも容赦なく食糧を徴収したことを、項羽は思い出した。あの農夫は、それを恨んでいたのだろうか。
だが、仕方ないじゃないかと項羽は憤る。食糧が足りなくなったのは自分のせいではないし、空腹はこんなに辛くて……。
「ぬっ……!?」
突如、項羽はわき腹に鋭い痛みを覚えて我に返った。
振り向けば、ついてきていた若い兵士が自分に槍を突き刺している。
「お、親父をよくも……人食い鬼が!!」
項羽は、何が起こっているのか分からなかった。こいつは親子ともども忠実だったのに、なぜこんな事をするのか。
いやそれ以前に、自分は今まで何をしていたのだろう。
戸惑ううちに、すぐ近くでかすれた声が聞こえた。
「いや……いい、のだ……。
儂は、項王様の……糧に、なれるなら……」
はっと気が付くと、自分は血まみれになった年配の兵士を抱えていた。そして自分の口から胸元は、べっとりと生き血に塗れ……。
「食った……この俺が?」
次の瞬間、ぐうぅっと吸い込まれるような空腹を感じて頭がくらくらした。血肉の生臭さが、とてつもなくおいしそうに感じる。
「ぐえっ……!」
耳元で上がった悲鳴に、再び項羽は我に返る。
今度はもうどうやっても、言い逃れできない。自分は年配の兵士の胸に噛みつき、肉をはがして噛んでいた。
たちまち頭の中が悲鳴を上げ、すぐやめろと叫ぶのに、体が欲しがってやまぬその忌まわしい肉を吐き出すことはできなかった。
ごくんと飲み込んでしまって初めて、体が自由になった。
「な……なぜだ……俺は、何度もこんなことを……?」
そう言えばあいつらも、どうか食わないでくださいと懇願してきた。あの時は何が何だか分からなかったが、こういうことだったのか。
頭の中でつながると、洪水のような恐怖が押し寄せてきた。
(お、俺は一体……どうなってしまったのだ!?
なぜ、このような事に……!!)
范増に力を与えられてから、記憶が途切れることはたびたびあった。だがそのたびに、都合よく解釈して済ませてきた。
たまに空腹を感じても気が付くと治まっているから、気にも留めなかった。むしろ部下に食べ物を分けてやれるのが嬉しかった。
なのに、真相は……。
「げはっ!!」
今度は若い悲鳴が響き、見れば別の配下が若い兵士を斬っていた。どう声をかけていいか分からない項羽に、別の配下は息も絶え絶えの若い兵士を差し出す。
「ささ、このような裏切り者こそお召し上がりください。
我ら、項王様に命を捧げる覚悟はできております。腹を満たして、お早く江東に!」
そう言われて、項羽は気を取り直した。
そうだ、自分には世を守る使命がある。自分を信じて支えてくれる者たちがいる。それを裏切る訳にはいかない。
項羽はそう己に言い聞かせて、己の業から逃げるように沼地を後にした。




