(246)
夜が明けて、追いたいけど触りたくない劉邦軍と振り向かずに逃げ続ける項羽軍。
范増の手紙は項羽が読んだ分だけで終わりではありませんでした。劉邦軍は、それを実証できる一人の検体に望みを託します。
そして項羽の体には、語るもおぞましい異変が起きていました。
だって范増が研究していた頃から、変異体の難点は……。
日が高く昇った頃、劉邦軍は大騒ぎになっていた。
項羽軍が、夜間に包囲を突破して逃げたことが分かったからだ。そのうえ、項羽が呪いに飲まれたとの情報が入ってきた。
それが意味するところを、劉邦軍の中枢は分かっていた。
「そうか……でもあれだけ動けるってこたぁ、普通の感染じゃねえんだよな。
また厄介なことになったねえ」
困ったように呟く劉邦に、陳平がうなずく。
「そーねぇ、普通の感染だったらそのうち体が冷えて動けなくなるから、その隙に殺せばいいんだけどぉ……そうもいかないみたい。
あのジジイ、とんでもないモン残してくれたねぇ!」
項羽がどういう状態なのか、范増の研究を探っていた陳平にはだいたい予想がついていた。城攻めで使い捨てようとしていた、強力な変異体に近いものだろう。
……が、詳細は分からないことだらけだ。
そいつからさらに感染は起こるのか、だとしたら感染した者はどうなるのか、変異体はどれほど長く生きるのか。
それによって、今後の世界の命運は大きく変わる。
「ジジイのことだから、項羽がすぐ死ぬような作りにはしてないでしょうね。
だとしたら、放っといたらきっと大変なことになる。
かといって、うかつに触る訳にもいかないんだけど。
今はとにかく、情報が集まるまで遠巻きに監視するしかない。劉邦様、きちんと見失わないようにだけはしといてね!」
「分かってる!
あんなモンがどこに行ったか分からなくなったら、俺が安心して寝れねえよ」
分からないから、劉邦軍は手を出さなかった。
どんな変化があったか分からないということは、触ればどんな被害が出るか分からないということ。
だから項羽が呪われたという情報が入った時点で、項羽軍が動いても絶対に手を出すなという厳命が下された。
最後の戦を前に命を惜しむ将兵たちは、それに従った。
項羽が簡単に脱出できたのは、このためだ。
しかし、逃げる項羽が人里に近づかない対策はできるだけ取られている。村や町の近くには劉邦軍の旗を並べ、大軍がいるように見せかけてある。
そうして人里から引き離しつつ、追いながら様子を見るのだ。
それでも、江東に入るまでには何とかしなければならないが。
そうしているうちに、項羽の捨てた陣を調査していた張良と韓信が帰ってきた。
「……やはり、范増の遺品が原因でございました。
虞美人は、腹と下半身をほとんど食われて死んでおりました。
それと、どこまで正しいか分かりませぬが……范増の手紙を回収してございます。本当にこれの通りなら、ひとまず世は守れるかもしれませぬが」
張良はそう言って、チラリと別の方向を見た。
「とりあえず、項伯殿は生かしておいて良かった。
後は彼がどうなるかによって、最後の対応を決めましょう」
幸い、劉邦軍の手には一体だけ、項羽に噛まれるとどうなるかが分かる検体が入った。他でもない、噛まれながらも逃げてきた項伯だ。
何の因果か、張良と深い縁のあるこの男が、劉邦軍に危機を知らせさらなる情報を与えられる傷を負ってきてくれた。
今項伯は厳重に隔離しているが、生命に別条はなさそうだ。
張良はどうか范増の手紙の通りであってくれと祈りながら、次から次へと入る情報を分析していった。
逃げていく項羽軍を、研究員たちを中心とした感染処理班が追いかける。
戦いにはならないものの、項羽たちが逃げた後にはところどころ血がぶちまけられていた。肉を削がれた、人の骨も落ちていた。
「石生様、これは……!」
「頭蓋まで叩き割られているから、起き上がることはない。
だが……これを食ったのは……!」
項羽軍が食糧を持っていない以上、飢えをしのぐために味方を食った可能性はある。古来より、大飢饉や籠城戦などで稀にあることだ。
しかし、人肉自体を求めているから食ったのだとしたら……。
嫌な予感を覚えた石生の側で、一人が叫んだ。
「あれを!項羽軍から別れた、敗残兵のようです」
指さす方を見れば、十人ほどのげっそりと痩せた兵士たちが支え合って歩いていた。一人は足を引きずり、皆ひどく顔色が悪い。
「野放しにはできんし、事情を聴くのにちょうどいい。
水と乾飯を与えて、保護するのだ。それと、検査の用意を!」
石生たちが取り囲むと敗残兵たちは一瞬びくりとしたが、すぐに泣きだして降伏するとすがってきた。
「おまえたちはあんなになっても項羽について行った以上、並みはずれた忠誠を捧げていたはず。
なのになぜ、今になって気が変わった?」
石生が問うと、敗残兵たちはひどく青ざめた顔で答えた。
「だって、こ、項王様は……あれはもう人間じゃねえ!」
「足でまといになる味方を……く、食っちまうんだよぉ!!」
それを聞いた途端、石生の眉間に筋が立った。
項羽軍は、着の身着のまま逃避行を続けていた。衣食を補給しようにも、村や町の方には劉邦軍の旗が立っており進めない。
やむなく道沿いの宿屋や小さな警備小屋に押し入り、そこの住人を殺しては食糧を奪って逃げ続けていた。
その間に、付き従う兵士たちは妙なことに気づいた。
項羽が、奪ったものを食べないのだ。
一軒家を見つけると、項羽は自ら食糧を差し出すように交渉すると一人で向かう。そして決まって、皆殺しにしたと血まみれになって帰って来る。
項羽は残念だと呟きながら、配下にわずかな食物を分け与えた。
しかし自分だけは、配下がいくら勧めても食べなかった。
これを項羽の部下思いだと、初めは皆解釈した。しかし何度も続くうちに、皆次第に疑問を持つようになってきた。
(何で項王様は、あんなに食べないでいられるんだ?
項王様はただでさえ、大食いだったのに)
そのうち兵士の数人がこっそりと後をつけて、様子を見に行った。
すると、項羽はそこにいた人間を有無を言わせず皆殺しにし、しかもその遺体の肉をものすごい勢いで貪り食っているではないか。
この衝撃の事実に、兵士たちは驚愕した。
だが、ここまでついて来た者は盲目なまでに項羽を信じて崇拝している者たちである。
きっとこれは自分たちに食べ物を回すためにしてくれているんだと、多くの者は考えてついて行った。
しかし、それよりもっと恐ろしい事が起こった。
長いこと略奪できそうな人家が見つからないと、項羽は進軍を速めるために傷を負った者を置いていくと言い出した。
これも、一見戦略上正しいやり方だ。満足に動けない者を抱えていては、敵に追いつかれたり元気な者まで飢えたりしてしまう。
項羽は、捨てる者を二、三人ずつ選んで置き去りにした。
ふしぎなことに、そんな時決まって自分が殿を務めると言うのだ。自分の名馬は誰よりも速く、すぐ追い付けるからと。
そしてその後、戻ってきた項羽は鮮血の臭いをぷんぷんさせていた。
これはおかしいぞと兵士の何人かが残って隠れて見ていると……項羽は捨てる兵の喉を潰し、生きたまま貪り食い始めたのだ。
しかもその人を食う間隔が、食べる量からは考えられないほど短い。一日略奪殺人ができないと、味方を食ってしまう。
そんなだから、満足に動けない者はすぐに尽き、どんどん傷の浅い者を食うようになってきた。
それに気づくと、さすがに兵士たちは慌てた。
このままついて行ったら、自分たちまで食われてしまう。
だが、どうか食わないでと項羽に懇願すると、項羽は怒って俺がそんなことをするものかと言い返したのだ。
どうも、自分が人を食っている時の記憶があいまいになっているらしい。
兵士たちは戦慄した。
「こ、項王様……まさか本当に、呪いでおかしくなって……!」
「そう言えば、力も前よりずっと強くなってる気がする。
項伯様の言ってらしたように、鬼に……!!」
ここに至って、これまで項羽についてきた兵士たちも恐怖に耐え切れず脱落し始めた。こんな化け物のために死ぬのはごめんだと。
それでもついて行くのは、食われてもこの人のためなら本望だと思い込んでいる本物の狂信者くらいだ。
そんな理由で、項羽軍はさらに数を減らしていった。
それを聞くと、石生はすぐにこの敗残兵たちに項羽が人を食い散らかした場所を案内させた。
感染した死体が、人食い死体となって動き出したら大変だからだ。
しかし、それは石生たちがこれまで見つけてきた肉を削がれた人骨の場所と一致していた。
「良かった……今のところ、殺された人数と見つかった骨の数はおおむね合っている。
だが、これは本当に……江東に入る前に止めねばまずい。いかに変異体の燃費が悪かろうと、生きた餌が付き従っていては……」
石生は後方の劉邦軍に捕らえた敗残兵と情報を送りつつ、この件でまた引き離された項羽を追って先を急いだ。
項羽は、味方を励ましながら一路江東へと急いでいた。
とにかく早く多くの味方と物資のある場所へ行かねばと、それだけを考えていた。
振り返れば、ついて来ている配下はだいぶ少なくなっている。ひどい無理をさせてしまったと、項羽は申し訳なく思った。
それを埋め合わせるように、項羽は配下を威勢よく励ます。
「皆、辛いだろうが踏ん張ってくれ!江東へ行くまでの辛抱だ!
安心しろ、おまえたちを敵の手にかけさせはせん。敵が来たら、いくらでも俺が蹴散らしてやる!俺はもう、誰にも負けん!!」
大言ではなく、項羽にはそれができる自信があった。
范増に力を与えてもらってから、項羽の体にはずっと力がみなぎっている。疲れもほとんど感じないし、今ならいくらでも戦えそうだ。
項羽がそう言って頼もしく笑うと、配下の兵士たちは揃ってうなずいた。その顔に宿る悲壮な決意は、今の辛苦ゆえとしか思わなかったが。
項羽は、自分が何をしているか分かっていない。
自分が本当はどうなっているか、すぐ側にいる配下からどう見られているか気づいていない。
ただこの力を与えてくれた范増に感謝し、これまで以上に力さえあればどうにでもなると信じて血の道を突き進んでいった。




