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范増に噛まれてしまった項羽に、恐るべき変化が起こります。
それを見越して見張っていた項伯、決意を固めた虞美人、それぞれの命運が決まります。史実でこの二人がどうなったかが、フラグになっている。
そして、ついに最後の災いが野に放たれる!
ソンビよりもっとヤバいもの警報!!
項羽は、不意にぶるりと震えた。
背中をぞくぞくする悪寒が這い上がり、全身から汗が噴き出す。寒いように感じるのに体の内には熱が溜まって、体もどうしていいか分からず混乱している。
「う……ごぁっ!?」
いきなり項羽の体が、がくんと揺れた。
全身の筋肉に力が入って固くこわばり、肌に異様に太くなった血管が浮き出る。そのうち、全身ががくがくと痙攣し始める。
「項王様、どうなさったのですか!?
今のは一体!?」
虞美人がうろたえているが、項羽は答えることもできない。
しかし、ここに乱入してきて虞美人の腕を掴む者があった。
「やはりこうなったか!
虞よ、早くここから逃げるのだ!項羽はもう、おまえの知っている人間ではなくなる!」
飛び込んできたのは、項伯だった。范増を疑う発言をしたことで項羽の信用を失い、范増の遺品には手を出せなくなったが、必ず何かあると思い見張っていたのだ。
「こ、項伯様……項王様は一体!?」
虞美人の悲鳴のような問いに、項伯は悔しそうに答える。
「呪われたのだ……身勝手に痛めつけたうえ、死後も都合よくすがられた范増に。あれだけのことをしでかして、恨まれぬ訳がなかろう」
項伯は、地面の上で潰れている范増の残骸を一瞥した。
箱の中身が人食い死体となった本人だとは、予想外だった。だがそこには、項羽がすがってきたら必ず感染させてやるという執念を感じた。
(あくまで最後は己の歯で、か……あの烈しい老人らしい)
信じていた自分をその手で痛めつけたお返しに、その歯で項羽の体に病毒を送り込み地獄の苦しみを与える。
これこそ、范増の考えた因果応報だ。
これまで項羽が多くの者を許さず己の怒りのままに叩き潰したように、范増も項羽のしたことを絶対に許さなかった。
「ぐぅおおお!!?こ……こんな……亜父おおぉ!!」
項羽は、真っ赤に晴れ上がった赤鬼のような顔でのたうち回っている。
これから項羽がどうなるかも、項伯には予想がついた。
普通に人食いの病毒に感染しただけなら、こんな激しい症状は出ない。項羽は、ただの人食い死体ではない何かになる。
そうだ、体が徐々に冷えて死んでいくような静かな終わりを范増が許すわけがない。項羽に与えられるのは、もっと苦しくて残酷な……。
「虞よ、早く逃げて劉邦軍に降るのだ!
そして伝えよ、項羽が呪いを受けたと……」
項伯は呆然としている虞美人の体をゆすり、動かそうとする。
しかしその時、苦しんでいた項羽がいきなり手を伸ばしてきた。
「いかん!!」
項伯はとっさに虞美人を突き飛ばし、自分が項羽の手を受け止める。次の瞬間、項伯は項羽の力に引きずられた。
項羽が、真っ赤に充血した目で項伯をにらみ、がばりと口を開ける。
「ぎょあああァ!!!」
たちまち、項伯の絶叫が響き渡る。
項羽が、項伯の袖を破って腕に歯を立てていた。そしてそのまま、腕の肉をむしるように食いちぎる。
それでもなお、項伯は虞美人に呼びかけた。
「はっ早く……行けええ!!ぐぁっ……おまえが……こうなる前にっいぃぎいい!!」
「おやめください、項王様!!」
凄惨な空気を一瞬で鎮めるように、凛とした声が響いた。
それを聞いた途端、項羽の力ががくりと緩んで項伯を取り落とす。項羽は必死で己を抑えるように、焦点の合わない目で虚空を見つめて動きを止めていた。
驚く項伯に、虞美人は静かに言った。
「あなたこそ、早くお逃げください。
わたくしの声なら、まだ項王様に届きます」
「だが、おまえは……」
「わたくしは、最期まで項王様と共にあります。
項王様が范増様の呪いを受けたのは、わたくしが信じろと言ったから。恨みを忘れて仲直りできたらと、わたくしは思っておりました。
しかし、それこそわたくしの驕りであったのなら……わたくしも共に、地獄の業火に焼かれましょう。
亜父様の気持ちをきちんと分かってあげられたあなたこそ、ここで死ぬべきではありません」
虞美人の目には、確固たる決意が宿っていた。
虞美人は両手を広げてゆっくりと、項羽に歩み寄る。
「項王様、しっかりしてくださいませ!私はここにおります!」
虞美人の声が聞こえると、項羽は頭を抱えて身をよじりながらも、どうにか虞美人の方を見ようとする。
もはや項伯のことなど、眼中にない。
「そうか……ならば、ごめん!!」
項伯はそろりそろりと項羽から離れると、さっと帳の外へ逃げ出した。
それを見送る虞美人を、項羽のたくましい腕が異様な力で抱きしめる。項羽は皿のような目で虞美人を見ていたが、そのうち虞美人の着物を引き裂いた。
「大丈夫です……私は、ずっとここに……」
もうその声が届いているかどうかも、分からない。
優しくささやいて身を預ける虞美人に、口づけとはかけ離れた大きさに開いた口が迫った。
「皆、逃げよ!!項羽が呪いで鬼になった!!」
声を限りに叫びながら、項伯は陣を駆け抜ける。それを聞いて、さらに項伯が血にまみれているのを見て、まだ残っていた兵士たちが恐れをなして逃げ出す。
項伯は、まさにそのために叫んでいた。
これまではここまで命をつなぐために、項羽を怒らせぬために何も言えなかった。しかし今、もう惜しむ命も機嫌を取る必要もない。
あるのは、ここまでついてきてくれた守るべき命のみ。
たとえこの声が項羽に届いて自分が殺されても、逃げ出した兵士たちを通じて劉邦軍に情報が届くだろう。
ならば一声でも多くと、項伯は叫びながら走り続けた。
気が付くと、項伯は劉邦軍の目の前に来ていた。
劉邦軍の兵士たちが、けがをした降伏者を保護しようと集まって来る。
「来るな、私は呪われている!
項羽が呪いに飲まれた、それをおまえたちの指揮官に伝えてくれ!!」
項伯がそう言うと、劉邦軍の兵士たちはびくりとして顔を見合わせ、何人かが陣の奥へと走った。どうすればいいか、周知が行き届いているのだろう。
いたずらに隠して威圧するだけの自軍とはえらい違いだと、項伯は感心した。
そのうち、劉邦軍の兵士たちが足下に水筒を投げてくれる。
(これが末期の水か……まあ悪くはない)
これで、劉邦軍に危機を伝えることができた。
自分の役目は果たしたと思うと急に体から力が抜けて目の前が暗くなり、項伯は誰にも受け止められることなく地面に倒れた。
どれくらい時間が経っただろうか。
項羽はふと、気が付いて己の腕の中を見た。そこには、目を閉じた虞美人の白い顔……その胸から下は血で真っ赤に染まっていた。
「な……これは……俺は、何を……」
戸惑う項羽の耳に、すすり泣きが聞こえてくる。
見れば、天幕の入口に忠実な兵士たちが集まって涙していた。兵士たちは口々に、項羽と虞美人の亡骸を見て言う。
「項王様……最後のお別れとは、このことだったのですね」
「そうですな、足手まといにならぬためには……こうするしか……!」
「虞姫様も、汚されるよりは救われましょう!」
どうやら兵士たちは、項羽が虞美人を殺したか虞美人が自決したと思っているようだった。
項羽自身も、きっとそうだと思い直す。范増に噛まれてからの記憶はあいまいだが、状況的にはそれが一番考えられる。
項羽は、虞美人の遺体をそっと地面に置き、布をかけてやった。
もう、自分をここに引き留めるものは何もない。自分以外に守らねばならぬものは、なくなった。
項羽は、集まった兵士たちに号令をかける。
「皆の者、このうえは残った者だけで脱出して江東を目指すのみ!
これだけの腰抜けが降れば、敵は勝ったものとみて油断しているだろう。夜陰に乗じて、一気に駆ける。
俺は、決して負けぬ!俺に、ついて来い!!」
ここにいても餓死あるのみ、項羽はついに脱出を決断した。
自分はまだ生きている、負けていない。ならば、足掻けるだけ足掻いてやる。虞美人がいなくなったなら、自分が負ける道理はない。
項羽は愛馬の騅にまたがり、自ら先頭を切って駆けた。
最近は食事を減らし満足に動くこともできず体力が落ちたと思っていたのに、なぜか力が湧き上がり鎧も武器も軽い。
これはいける、と項羽は直感的に思った。
(范増め、俺に力を与えるとほざいたが……このことだったのか!
だとしたら、今度こそ決して無駄にはせぬ!!)
疾風のように駆けながら、項羽は思った。
范増に噛まれ病毒を仕込まれた時は報復かと思ったが、どうやらそうではないようだ。范増はきちんと、自分に力をくれた。
そう言えば范増は、病毒を変異させて恐れ知らずの強い兵士を作っていた。その方法で、他ならぬ自分を強化してくれたのか。
やはり范増は、死後も自分に尽くそうとしてくれていたのだ。
「ハハハッ俺はいけるぞ!どこまでも!!
この俺を倒せる者など、もはやどこにもおらぬ!!」
高揚する心に任せて、項羽は劉邦軍の陣を駆け抜けた。その勢いに恐れをなし、劉邦軍は大した抵抗もなく逃げ出した。
(ああ、やはり天は俺に味方した!
地を統べるのは劉邦などではない!この俺だ!
その証拠に、俺は感染しても人でいられる。体は熱いくらいだ。このまま生きて態勢を立て直し、劉邦軍など皆殺しにしてくれるわ!)
項羽の胸は、熱くたぎる希望で一杯になっていた。
項羽は知らない……どうして劉邦軍が自分に抵抗しなかったのか。
そして、范増の真の意図はどこにあるのか。
項羽の感染は確かに、普通の人食い死体になるものではない。しかしそれが必ずしも福音ではないと、項羽は間近で見てきたのに。
もぬけの殻になった項羽の陣を、ようやく昇った朝日が照らす。
その中心にある虞美人の遺体に内臓がないことに、今はまだ誰も気づいていなかった。




