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久しぶりに、ゾンビ警報!!
四面楚歌に絶望した項羽は、ついに范増の遺品を開きますが……結果は敵サイドの予想通りと言うべきか。
しかし、ただの感染じゃないんだな、これが。
一番浮かばれないのは、誰だったのか。
それから項羽は、気が付いたら天幕に戻っていた。
どうにかしなければといくら心が叫んでも頭はどうにも動いてくれず、あんなに後悔をしたはずなのにまた酒を飲み始めていた。
(もういい、どうせ俺を見て失望する者など……)
姿を見せる相手すらいなくなったからと、項羽は自棄になっていた。
しかしそこで、自分に寄り添う柔らかい温もりに気づいた。
ふと目をやると……虞美人がいつものように優しい笑みでぴったりと寄り添っていた。
「項王様……どうなさったのですか?何か怖いことでもありましたの?」
その顔を見た途端、滝のように涙が流れた。
自分にはまだ、この女がいるではないか。こんなになっても優しく尽くしてくれるこの女を、自分は守ろうとしないのか。
「虞よ、俺は……俺は……」
何かを言おうとしても泣きむせぶばかりで、言葉にならない。
だっても、自分はこの愛しい女一人も守ってやれない。どうにかしないといけないのに、どうにもできないのだ。
自分がいかに強くても、天下の全てを相手にはできない。
自分に期待して望むものを差し出してくれる人は、もういない。
こんなになってようやく気付いた……自分は他人が力を貸してくれなければ、ただの力が強い大男でしかないということに。
知恵もなく自分の力で配下を引き寄せることもできず、なのに周囲の力を全部自分の力だと勘違いしていただけ。
丸腰にされた今の自分では、自分以外の何も守れない。
考えれば考えるほど、救いようがない。
天はなぜ、こんな過酷な運命を自分に与えたのか。自分は必要な力が向こうから集まって来て、英雄になる運命ではなかったのか。
そう信じてここまで戦い抜き、虞美人のことも天下一の幸せ者にしてやれるつもりだったのに。
思わせぶりな天に手を返されたようで、ひどく悔しかった。
項羽はその気持ちを天に届けようとするように、即席で詩を作った。
「力は山を抜き気は世を覆う。 時に利あらずして、騅は進まない。
騅が進まないのを、どうしたらいい。 虞や虞や、おまえをどうしよう」
項羽は、高らかに歌った。帳の外から聞こえてくる楚の歌を押し返すように、思いのたけを込めて歌いあげた。
それに合わせて、虞美人も舞った。
自分たちの滅びをせめて美しく演出するように、たおやかに舞った。
それを聞きつけたのか、わずかに残っていた兵士たちが集まって来て、これも皆泣いた。こんな悲しい事があっていいのかと、天を恨んで泣いた。
項羽は、この者たちに虞美人を託して逃がそうとした。
だが虞美人は項羽にそっと寄り添い、言った。
「わたくしは、最後まで項王様と共にあります。
他の誰が項王様を見捨てようと、わたくしだけは決して項王様を見捨てません。他の人のものには、なりません。
たとえ命を落とそうと、先に天でお待ちしております」
虞美人の目には、固い決意が宿っていた。
それを悟ると、項羽は配下たちを下がらせた。
「虞と、最後の別れをさせてくれ。
いいと言うまでは、誰も入るな」
配下たちは、素直に離れていった。この期に及んで少しの時間女に溺れても、もはや運命は変わるまいと、諦めもあるのだろう。
せめて虞美人が安らかに逝けることを祈って、主と愛する女を二人きりにしてやった。
二人きりになると、虞美人は項羽に優しく言った。
「こんなになってしまってからですが、最期に亜父様のことも信じて差し上げては。
このまま封も解かぬままでは、あの方がおかわいそうです」
それを聞いて、項羽ははっとした。
自軍がもう死に体になっているというのに、范増の遺品は封を解かれていない。范増は、開けて使えと言い残したのに。
このまま使わずに滅んだら、その思いを無駄にすることになる。
裏切って踏みにじることになる。
項羽は一度范増を裏切って傷つけてしまったのに、それでも項羽のために遺したものを見もされないでは浮かばれまい。
項羽は、己の疑心を深く恥じた。
劉邦軍の罠にはまったと気づいた時はあんなに後悔してもう騙されまいと思ったのに、今また盗賊共の言葉に惑わされてしまっている。
信じる心を強く持って早々に范増の遺品を使っていれば、こんなひどい事にはならなかったはずなのに。
自分は范増だけでなく、自分を信じてくれた他の将兵たちをも裏切ったのだ。
最期にそれを少しでも埋め合わせられるなら、そうしたいと思った。
「そうだな……遅きに失してしまったが、亜父に頼ってみよう。
それにもしかしたら、ここからでも巻き返せるかもしれぬ」
項羽は、虞美人をチラチラ見ながら呟いた。
自分一人の力ではどうしようもないが、もしかしたらこれを使うことで虞美人を守れる道が開けるかもしれない。
その可能性が少しでもあるというだけで、項羽は俄然開ける気になった。
「さあ、善は急げだ」
項羽はこれまでの迷いなど忘れて、范増の遺品にかけてあった布を取り去った。下から出てきた地味な包みが、今は秘宝のように輝いて見える。
項羽はいそいそと、包みをほどき始めた。
包みをほどくと、大きな箱の上に一本の竹筒と二通の手紙が置かれていた。手紙の一通には開ける前に読め、もう一通には終わった後に読めとある。
項羽は素直に、一通目を読み始めた。
<項羽よ、おまえがこれを開いたということは、相当苦しいのじゃろう。
儂がいなくなって、進軍の道選びや食料の補給はうまくいっておるか?いっておったらそもそもこれを開かんな。そういうことじゃ。>
手紙の始めは軽く責めるような言葉だったが、項羽には返す言葉もなかった。だって、范増の予想した通りに実際なってしまったのだから。
<これほど働いておった儂を捨てたおまえの愚かさには、反吐が出るわい。
だが、おまえに受けた恩を忘れたわけではない。
おまえが望むならば、儂はおまえに力をやろう。どのような劣勢でも、おまえ一人になっても天下を取れる力を。>
その言葉に、項羽の目が輝き胸が高鳴った。
「おお……やはり亜父は、俺を見捨てていなかった!」
范増は自分を責めながらも、自分を勝たせると言ってくれている。小言をいいながらもしっかり支えてくれた、生前のように。
しかも、項羽一人になっても天下を取れる力ときた。これならば、まだ間に合う。虞美人を守り、未来を築ける。
項羽は、勇んで手紙を読み進めた。
<もし儂を信じ力を望むならば、まず竹筒の薬湯を飲み、それから箱のてっぺんの油紙を破って中にあるものを探るがいい。
薬湯を飲んでからすぐにやるのじゃぞ。迷って時を損じるな!
儂を信じておるなら、できるな?>
その言葉に、項羽は胸を張ってうなずいた。
「おう、できるとも!
やはり亜父は本当の親のように、俺を許して助けてくれた!」
項羽が竹筒を開けると、苦みと刺激のある薬臭さが鼻をついた。栓の内側についた液体は、茶のような色で透明だった。
「むう、薬湯のようだな」
項羽は一気にそれを飲み干すと、箱に手を伸ばした。
中には一体何が入っているのだろうか。緊張のせいか心臓がドキドキして軽く汗ばんでくる。
だが、悪いものではないと思った。范増はきっと、項羽が本当に心から信じてくれるか試しているのだ。
ならば心からの信頼で応えようと、項羽は箱の蓋を取り、小さな窓のようなものに張ってある油紙に手を突き入れて破った。
そのまま、深く手を入れて中をまさぐった。
最初に感じたのは、冷たく濡れてぬるつく感覚。
次に、思わず顔をそらしたくなるような嫌な臭いが鼻をついた。
項羽は思わず手を引きかけたが、己を叱咤して続けた。
何があっても今度こそ范増を信じると、心に誓ったばかりじゃないか。なのに早速試練に負けてどうする、と。
だが次の瞬間、手に鋭い痛みが走った。
「何だ!?」
反射的に手を抜くと、手から血がほとばしっていた。
「項王様!!」
慌てて駆け寄ろうとする虞美人を制し、項羽はもう一通の手紙を開く。
「あ、亜父よ……これは一体……?」
<おまえがもし事を済ませてこれを読んだなら、お前は儂の見込んだ通りの愚か者じゃ。望み通り力をくれてやる。
そうでないなら、半端に賢くなった代償に人として無様に死ぬがいい。
最初の竹筒の中身は、毒じゃ。あれを飲んで何もしなければ、半日後には体が焼け付いて死に至る。
だが箱の中の儂に噛まれたなら、おまえは、人ならざる力を手に入れるであろう。>
最後の一文に、項羽は戦慄した。
箱の中の儂……箱の中に手を入れた時、噛みついたのがそうだというのか。それに、油紙を破った途端に感じた腐臭……。
(まさか、箱の中身は!!)
項羽は、恐怖に駆られて箱を叩き壊した。
すると、中から転がり出てきたのは……腐って肌がドロドロに溶けた、胸から上だけの痩せこけた老人の死体だった。
「亜……父……?」
恐れおののく項羽と虞美人に、首と胸だけの范増は凶悪な顔で牙をむいた。
「ひぃっ!」
虞美人が悲鳴を上げて、項羽にすがりつく。
「おのれ!!」
項羽はほぼ反射的に、死んだ范増の頭を叩き潰した。范増は汚血と腐った脳をまき散らして、二度と動かなくなった。
だが、その遺したモノはまだ生きている。
傷つけられた項羽の体内で、邪悪な病毒が異様に蠢き始めた。




