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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十九章 垓下哀歌
244/255

(243)

 ついに、四面楚歌!!

 この名場面を私の文章力でそれだけ書ききれるのか、ある種試されている気分です。


 反転する将兵たちの心と、叩き折られる項羽の誇り。

 そして、絶望を叩きつけられた項羽は……ほぼ史実回。

 それから数日は、あまり変化なく過ぎていった。

 項羽軍は真綿で首を絞められるように兵を減らし飢餓で苦しんでいるが、すぐに滅ぶ訳ではない。

 劉邦軍は周りで騒ぎ立てはするが攻撃をかけることはなく、両軍の間には妙に平穏な空気が流れていた。

 項羽軍の中にはそれを訝しむ者もいたが、項羽の強さを恐れているのではないかとか後方で何かあったのではないかと考える者もいた。

 項羽自身もその一人で、この状況に希望のようなものを見出していた。

「劉邦め、これほどの大軍で囲んでおきながら攻めてこぬとは!

 もしかしたら、我らに味方する者が奴らを外側から脅かしているのかもしれん。

 そうだ、我らの故郷の者たちが我らを見捨てるはずがない!そのうち彼らの攻撃で劉邦軍が崩れたら、その時こそ反撃し押し返すのだ!」

 項羽はそう言って配下の故郷への思いを高め、士気を保とうとした。

 実際、項羽軍がすがれる希望はもうそれしかない。

 中原は敵ばかりでも、江東だけはまだ自分たちの味方だ。中原の民が食糧をくれなくても、江東から送られてくる可能性はまだある。

 項羽軍に留まっている兵士たちは、故郷で待つ家族の顔の向こうに黄金の稲穂を見ていた。空腹を抱えながら、その地を渡さぬためと己に言い聞かせていた。


 そんなある夜、項羽軍の将兵たちは懐かしい音色を聞いた。

 目を閉じれば家族との思い出が走馬灯のように駆け抜け、皆で食べたたっぷりの粥の匂いさえ浮かんでくる。

 それが、故郷の楚の民謡だった。

 項羽軍の陣地を囲むように、方々から聞こえてくる。

 自軍の陣地ではなく、敵であるはずの劉邦軍の陣地から。

「……おい、何でこの歌があっちから聞こえるんだ?」

 一人が、震える声で口にする。

 だっておかしいじゃないか。あっちには楚を滅ぼそうとする憎き敵がいるのに。西の方から来た侵略者が集まっているのに。

 なのになぜ、こんなに大勢の声で楚の歌が……。

 そのうち、また一人がぽつりと言う。

「なあ、もしかして……もう楚な、奴らの領土になったのか?」

 その瞬間、自分たちを囲んでいる者たちの正体が反転した。

 自分たちの故郷の歌を歌っているのは、きっと故郷の者たちだ。となるとそれだけの数の故郷の人間が、敵陣にいるのだ。

 どうしてそうなったかと言えば……。

 一人が、目から滝のような涙を流しながら武器を地面に叩きつけた。

「畜生、項王のいう事なんざ嘘っぱちだ!

 きっと奴らは、俺たちをここに釘付けにしといてその間に江東を平定しちまったんだ。だから俺たちを攻めなかった。

 そんな事も知らずに、俺たちは……!!」

 だって状況からしてそう考えるのが一番自然じゃないか。劉邦軍が攻めてこなかったのも楚の歌があちらから聞こえるのも、そう考えればつじつまが合う。

 すると、将兵たちを圧倒的な虚しさと悲哀が襲った。

 もう故郷が落とされてしまったなら、自分たちがここで頑張っている意味は何なのか。もう、戦う意味がどこにもないじゃないか。

 自分たちは項羽を信じてついて来たが、項羽は自分たちの故郷を守ってくれなかった。故郷がそっくり敵のものになるまで、動こうとしなかった。

 項羽に対する深い失望が、将兵たちを襲った。

 もうここにいても、自分たちにできる事はなくなってしまった。あんな奴を信じているうちに故郷がそんなになって、どうすればいいのか。

 そのうち、一人がフラフラと歩きだした。

「行こう……あっちへ。

 だって、母ちゃんや子供たちがあっちにいるかもしれないんだ」

 その言葉に、他の将兵たちははっとした。

「そうだ、漢王は……降伏兵も敵地の民も項王みたいに殺さない!」

「そうだ、生きてるんだよ!生きてるから歌ってるんだ!俺たちが無駄死にしないように、生きて会うために……!!」

 空虚だった将兵たちの心に、一気に希望の火が灯った。

 自分たちの故郷はある、治める主が変わっただけで大切な人たちは生きている。

 ならば帰ろう、帰ればまた大切な人と共に平和に暮らしていける。そうだ、楚が滅んだならもう戦は終わったも同然なのだから。

 こんなひどい所でひどい状況に耐えるのも馬鹿らしい話だ。

 そんな考えが、将兵たちの間に一気に広がった。

「帰ろう……帰って故郷の飯を食おう」

 将兵たちは川が流れるように、一斉に漢軍の陣に向かって歩き出した。武器を捨てて旗を捨てて、軽くて金になりそうなものだけはちゃっかり盗んで。

 中にはこれも敵の罠だと叫んで止めようとする者もいたが、多勢に無勢でとても止められない。

 あれよあれよという間に、項羽軍はほとんどもぬけの殻になってしまった。


 島のような項羽の陣から大勢の兵士が出てくるのを、韓信は安堵の表情で見ていた。

「さすが軍師殿……これほどまでにうまくいくとは」

 韓信の周りからも、大音声で楚の歌が上がっている。将官の指揮に合わせ、様々な国から集められた兵士たちが異口同音に楚の歌を歌う。

 そう、歌っているのは楚の人間ではない。楚の人間はほんの一部だ。

 楚の降伏兵たちが路銀と引き換えに教えた楚の歌を、漢軍皆で歌っているのだ。

 これこそが、張良の策であった。

 降伏してこない楚の兵たちが故郷を守ることにこだわっているなら、その故郷がおまえたちを呼んでいると見せかければいい。

 四方八方から楚の歌を浴びせて、もうおまえたちの故郷はこちら側だと思わせればいい。

 項羽軍はもう矢尽き刀折れ食べるものもないのだから、最後に闘争心を支えているたった一本の柱を折れば一発だ。

 その読みは当たり、今項羽の陣からは続々と将兵たちが降ってくる。

「皆の者、攻撃せずに通してやれ。

 呪いからの清めや食料を求める者があれば対応を。

 もし声をかけられたら親し気に当たり障りのないことを言うか、以前に降伏してきた者たちに相手をさせよ」

 韓信は味方に、降伏して来る者たちへの対応を指示する。

 今のところ項羽が范増の遺品を開いたという知らせはないので、今降ってくる将兵たちに感染の恐れはない。

 後はこの数が、項羽軍の全軍にどれだけ近づくかだ。

(さあ項羽よ、これだけの兵を失っておまえはどうするのだ?)

 韓信が目を凝らして見つめる先で、項羽の陣では薪を足す者がいなくなったかがり火が一つ、また一つと消え始めていた。


 項羽がそれに気づいたのは、だいぶ夜が更けてからだった。

 もう日のあるうちから虞美人と同衾してそのまま寝入っていた項羽は、夢うつつで故郷の歌を聞いた。

(ああ、そうか……皆帰りたいのだな。俺だってそうだ。

 いつまでもこうしてはおれん。今、気が高ぶったこの機に脱出を……)

 寝ぼけた頭でそう思い、項羽は起きて鎧をまとった。

 皆こんなに高らかに故郷の歌を歌って、そんなにも故郷に帰りたいのだ。ならばその気持ちを力に変えて、今こそ囲みを破ろうと思いながら。

 だが、天幕から出た項羽を迎えたのはほぼ空になった陣だった。

「何だ、これは……なぜ誰もおらぬ!

 なら、この歌は一体どこから……」

 うろたえて歩き回るうちに、項羽は気づいた。

 この懐かしく切ない歌が、敵陣から響いているということに。

 その瞬間、項羽は立っていられないほどの衝撃を受けた。


 自軍を四方八方から囲む敵軍が、楚の歌を歌っている。故郷の楚の人間が、敵として自分たちを包囲している。

 ここまではっきり聞こえるほどの声で、それを出せるだけの数で。


 項羽も、これにはすっかりこう思い込んでしまった。

 同時に、楚の人々を守る誇り高き己という自負ががらがらと崩れていった。

 楚の伝説となりつつある名将項燕の孫に生まれ、いつか秦を倒して楚を復興するのだと皆から期待されて育った。

 項羽自身も幼い頃から、自分にはそれができると信じていた。

 体格に恵まれ、思うままに力を振るうだけで敵なんか簡単に倒れる。必要なのは、自分たちを慕う人たちが何でも用意してくれる。

 だから自分は、大きな敵を倒し故郷を守ることだけを考えた。

 一人を相手にするだけの剣術なんてつまらなくてやめてしまったし、万の敵を相手にしたくて学び始めた兵法も有利な条件を整えられるならいらないと投げてしまった。

 強くて何でもできる自分なら、ただ思うようにしていればいいと思っていたのだ。

 実際、途中まではその通りだったのだ。

 しかし、今のこの有様は何なのだろうか。

 自分が酒と女に逃げて何もできない間に、どうやら楚はそっくり劉邦軍に取られてしまった。今楚を安んじているのは、劉邦だ。

 そうだ、劉邦は元が敵でも従うならば殺さないし民から死ぬほど奪わない。だからきっと、楚の民は自分より劉邦を受け入れてしまったのだ。

「おおお、何と言うことだ……俺は……俺は……!!」

 項羽はとうとう、膝をついて拳を地面に打ち付けた。

 四方から聞こえてくる楚の歌が、己の不甲斐なさを責めているように思えた。自分を見限った楚の民たちの、失望と恨みを聞かされているようだった。

 こんな奴についていても未来はないからこちらへ来いと、悲し気にしかし優しく将兵たちを誘っているかのようだった。

 そして今までついて来た将兵たちも、それに引かれて去ってしまった。

 自分に付き合わされて無意味に死ぬのではなく、故郷を守ってくれる劉邦を選んだ。

 人として当たり前の選択ではないか。

「ち、違う……そんなつもりではなかったのだ!!

 俺は全力で楚を守ろうと、守ってみせると……!!」

 いかに慟哭し言い訳しようとも、自分を囲む楚の歌が止まることはない。

 その歌に乗せて、項羽に子弟を預けてくれた故郷の父兄たちの顔が浮かぶ。その顔が、どんどん己に対する悲憤に歪んでいく。

 心の支えを完全に折られた項羽の涙が、流れ星のように暗い地面に落ちた。

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