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あまりの苦戦に范増の遺したものに引かれる項羽ですが、それを使うのをためらわせる事実を劉邦軍の盗賊どもから突きつけられます。
自分が恨まれていると実感するのは、本当に怖い。
特に項羽は、その数が半端じゃないから……自業自得。
そして次回、ついに劉邦軍の本気の策が炸裂!あの名場面です。
翌日、まぶたごしの淡い光を受けて項羽は目を覚ました。
(もう朝か……)
どうやらまた、虞美人と睦み合ったまま眠ってしまったらしい。隣では虞美人が、すやすやと安らかな寝息を立てていた。
それを見ると、また暗澹たる気分になる。
(俺は一体、何をやっているんだ?
ゆっくり休ませてもやれぬのに虞を疲れさせて、何かあった時に助けてやれぬ所で孕ませようとして。
もし孕んで、逃げねばならぬ時に悪阻で動けなくなったら、どうするのだ)
冷静になると、自分の行いがあまりに無計画で愚かで嫌になる。
(何という様だ!あの頃の……強かった俺はどこへ行ったのだ!?)
項羽には、どこへ行って誰を相手にしても勝ち続けていた日々がひどく懐かしく感じられた。それほど久しい話ではないというのに。
ただ漠然と、あの頃に戻りたいと渇望していた。
そして気づいた……今とあの頃、一体何が違うのか。
(もはや誰一人、腹を割って話せる者がおらぬ。
いや、言わずとも俺の望みを察してあらゆることを整えてくれた、亜父がおらぬ。俺の気に障ることでも遠慮なく言って俺に必要な事を気づかせてくれた……)
味方の中でも一人ぼっちになってようやく、項羽は范増の大切さに気付いた。理由はよく分からないが、范増がいなくなってから坂道を転がるように事態が悪化していると分かった。
(ああ、亜父……俺は何ということをしてしまったのだ!
亜父が生きておれば、こんなひどい事には……!)
項羽は、以前よりずっと深く范増を手放したことを悔いた。
八方塞の戦況の中で、范増は自分を勝利に導いてくれた神のごとく思えた。范増さえいてくれれば、自分は元の強さを取り戻せる気がした。
項羽は、天幕の隅に置かれている包みにチラリと目をやる。
(やはり、開けて使ってみるべきか……亜父の遺したものを)
最近、項羽の目はあれに惹きつけられてならなかった。
以前は自分の強さを他人のおかげにされるのが嫌で頼りたくなかったが、もうそんな事を言っている場合ではない気がする。
(あれを使って……虞との未来を守れるなら……!)
虞美人の疲れがにじんだ寝顔を見ていると、切にそう思う。
認めるのは癪に障るが、今の自分の力だけでは虞美人を守れないかもしれない。それを救える可能性が、今ここにあるなら……。
(亜父は、どうしようもなくなったら開けよとことづけてきた。
ならば、今からでも間に合うのではないか!)
范増が遺した、一抱え程の包み……中身が何かは項羽には想像もつかない。大金か、宝物か、あるいは戦局を一変させる策か。
とにかく、開ければどうにかなる気がしてきた。
日に日に、己の絶対的な強さを否定しても勝利を得たい気持ちが強くなる。いかなる物も有効に使えるうちに使った方がいいと、焦りすら覚える。
しかし項羽の手がそれに伸びかけた時、外が妙にざわついているのに気づいた。
「どうした、何事だ!」
項羽は不機嫌そうに声を荒げ、衣服と鎧をまとって外に出た。
天幕から出るなり、将兵たちの不穏な視線が項羽に突き刺さる。
その理由はすぐに分かった。彭越や黥布がこれまで降伏した将兵たちと共に、とんでもないことを叫んでいるのだ。
「おーい、どうしておまえらがそんな目に遭ってるか教えてやろうか?
それはな、項羽が呪われてるからだよ!」
「始皇帝の受けた海神の呪いって知ってるか?そいつが秦の王族に代々引き継がれて、秦王を殺した項羽に移ってんだよ。
だからどんなに強くても、何をやってもうまくいかねえ。
俺らみたいな盗賊上がりにもいいようにされちまうんだよ!」
なんと劉邦軍は、人食いの病への対策に使っている呪いの話を項羽を貶めるのにも使ってきた。
将兵たちの中には、それを聞いて明らかに顔色が悪くなっている者もいる。あれほど強い項羽がこんなに追い詰められている理由として、学のない者には説得力があるからだ。
さらに彭越は、荷車一杯の植物を見せて呼びかける。
「おまえらにも、呪いがうつっちまってるかもしれねえなぁ。
けど大丈夫だ、この魔除けの草で血を清めれば助かる。戦う前に降伏してきた奴ぁ、こいつできれいにして故郷へ帰らせてやるぞ!」
その草をよく見て、項羽はぎくりとした。
(あれは、病を調べられるという仙黄草か!)
一部の将兵も、それを見てさらにざわついた。
「おい、あれ……函谷関の向こうにたくさんあったやつじゃないのか!?」
「ああ、俺も見た……何だろうって皆で噂してたよ!
でもそうか、そういうことだったのか!そもそも秦が呪われてたからあれが大量に必要で、今は俺たちが……!」
将兵たちは怯えて、めいめい勝手に噂話をしだす。
項羽は雷のような声で怒鳴りつけ、やめさせた。
「やめんか、俺は呪われてなどおらん!!
裏切り者の流言などに惑わされるな!!」
しかし彭越は、底意地の悪い顔でおどろおどろしく言った。
「なあおまえら、こいつはこれまでどれだけの人の恨みを買ってると思う?海神の以前に、呪われてないとでも思うか?
俺みたいに報いてもらえなかった奴、前の韓王や義帝みたいに理不尽に殺された奴。食いモンを残らず持っていかれて餓死した奴に、敵に降っただけで埋められた奴。
父と慕った范増にもあの仕打ち、さぞ無念だったろうなァ」
その言い方に、項羽の心臓もびくりと跳ねる。
今思い返してみれば、数え切れぬ人間が項羽を恨んで死んでいっただろう。やった時は正しいとしか思っていなかったが、今やられる辛さが分かってぞっとした。
特に、范増のことは……無理矢理頭を下げさせた時の悲鳴と懇願は、今も耳に焼き付いている。
だが、今弱みを見せる訳にはいかない。
項羽は、逆に責めるように言い返す。
「何を!俺と亜父の絆を引き裂いたのは貴様らであろうが!!
それをさも俺が悪いかのように、恥を知れ!!
貴様らの卑劣な策略によるものだと、亜父は分かっていた。貴様らを恨むことはあれど、俺を恨む訳がない!!」
その言葉に将兵たちがひどく驚いた顔をしたが、項羽は気にしている余裕がなかった。
黥布は、そんな項羽を鼻で笑って言い放つ。
「ハハッ大した信頼だねえ!何で最後までそうしてやれんかったかな。
てめえは今もそんな調子で范増の遺したモンを大事に抱えてるみたいだがよぉ……范増が本気でてめえを救うために遺したと思ってんのか?
案外、土壇場で復讐するためじゃないかねえ。
少なくとも、俺ならあんな事されたらそうするね」
「ざ、戯言を!亜父はそのような人間ではないわ!!」
「そう言い切れるんか……絶対信じるっつってた、てめえは裏切ったのによぉ!」
言い逃れできない項羽の罪を突きつけて、黥布と彭越は引っ込んだ。後には、呪いから逃れてこいと呼びかける降伏兵たちの声が方々から響いていた。
項羽はぐらぐらする頭を抱え、何とか天幕に戻った。
「ハァ……ハァ……亜父!」
項羽は范増の遺した包みを見るが、どうにも手を伸ばせない。さっきまであんなに頼もしかった包みが、正体不明の恐怖をまとって見えた。
黥布達にはああ言ったが、項羽も心の底では范増に恨まれても仕方ないと思っていた。
黥布達の言う通り、先に信頼を裏切ってしまったのは自分。范増は最後まで自分を信じ、目を覚ませと呼びかけてきていた。
なのに自分は范増の全てを悪と疑い、病気だと訴えるのも聞き入れず正義気取りで痛い目に遭わせて追放して……。
もし自分がやられたらと思うと、金輪際相手を許す気になれない。
ならば、范増が自分にこの包みを遺したのもまた……。
項羽は鉛のように思い罪悪感を抱え、思い直した。
(やはり、今これに頼るのはやめておこう。もし起死回生のものであればいいが、破滅の罠だったら本当にとどめを刺されてしまう。
開けるのは本当に最期の時か、江東に逃げ延びて落ち着いてからだ。
今まだ俺について来ている者たちを、裏切る訳にはいかぬ)
項羽は、范増の恨みと憎しみから逃れるように、包みにそっと布をかけた。
その間に、劉邦軍では策の準備が進んでいた。
黥布と彭越に項羽が呪われていると喧伝させているのは、あくまで目くらましだ。本当の策は、陣の奥深くで入念に準備されている。
「さて、彭越が持ってきた仙黄草で我が軍の検査体制は整いました。
項羽が迷っているうちに、一気に兵を奪ってしまいましょう!」
張良は、強気の笑みで言う。
劉邦はひどく緊張した面持ちながら、軽い口調で呟く。
「ああ、こいつでどんだけ兵を奪えるかが勝負だな。
にしても、相変わらずおまえらの策は最高だぜ!奴らが故郷を思う心に付け込んで、降伏兵に帰りの路銀と引き換えに仕事してもらって。
こういう、できるだけ皆が助かる策って俺ぁ好きだぜ。
どうしても死んでもらわなきゃならん奴以外は、皆で幸せになろうや!」
劉邦は、外から流れてくる音楽に合わせて楽し気に指を踊らせていた。外の歌声に合わせて、鼻歌まで漏れている。
方々から聞こえてくる音楽は、勝利の前祝いのようだった。
もっとも、そこに至る道は簡単ではないだろう。
この策が実行されて兵をごっそり奪えば、その時こそ項羽は思い切った行動に出るはずだ。それを打ち破って首を落とすまでは、安心できない。
そのために、できるだけの準備はした。項羽がもし人食いの病毒を使ってもできるだけ自軍を助けられるように、彭越に大量に仙黄草を用意してもらった。
それでも、絶対に大丈夫とは言い切れない。
自分たちにできるのは、うまくいく確率をできるだけ上げるようにやるだけ。
決行の時は近い。それから程なくして、天下の命運は定まるだろう。その時地上を支配しているのは、自分たちか物言わぬ死者たちか……。
「あーあ、今ばかりは本当に……范増が項羽を恨んでなかったことを祈りたくなるぜ」
劉邦の同情めいた視線は、洪水の中の小島のようになった項羽の陣に向いていた。




