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ついに項羽と劉邦の戦いも終盤、垓下の戦いに突入します。
追い詰められた項羽と、禁断の手に怯えて力で攻められない劉邦軍。その突破口となるのは……。
長く書いてきましたが、本当に終わりが見えてきました。
どうか最後まで、お付き合いください。
項羽軍には、もう何一つ希望がなかった。
兵は少なく、食糧はなく、誰かが助けに来るあてもない。ただいつか突破して江南へ逃げ延びる日を信じて、垓下の塁に籠るだけ。
劉邦軍は韓信の指揮で、十重二十重に項羽軍を包囲している。
どちらを見ても目に入るのは劉邦軍の旗ばかりで、抜けられそうな所は見当たらない。
全軍が飢えている項羽軍をあざ笑うかのように、劉邦軍からは盛んに炊煙が上がって空腹の兵士たちを日々誘っている。
当然、そんな状況で兵士たちをつなぎとめられる訳がない。
項羽軍からは日々脱走兵が続出し、陣はどんどん小さくなっていく。
そのうえ、劉邦軍に降伏した者たちがまだ残っている者に降伏を呼びかけるようになった。その中には、かつて味方だった黥布や周殷の姿もあった。
「ええい、あのような裏切り者に惑わされるな!
あんな恥知らずの仲間になって、どんな面を下げて故郷に帰るのだ!?」
項羽はそう言って兵士たちを引き留めようとするが、止められるものではない。
垓下に逃げ延びた時はまだ数万の兵がいたが、今はもう万の桁があるかも怪しい。皮肉にも、そのおかげでまだ細々と食いつなげてはいるが。
しかし、このままでは勝つ見込みがないのは確かだ。
包囲を破ろうと攻撃をかけても、敵陣はびくともしない。自軍の兵は皆飢えて、半病人だ。いくら項羽自身が強くても、どうしようもない。
かといって、何もしなければ死を待つのみだ。
この状況に、項羽は恐れおののくしかなかった。
(おおぉ……一体なぜ、どうしてこうなった!?
俺はこれまで、ずっと勝ち続けてきたのに!俺に敵う者など、天下にいないのに!
誰か、教えてくれ!!)
いくら心の中で叫んでも、答えてくれる者などいない。そもそも自尊心が強すぎて口に出せないのだから、当然だ。
それにもし口に出せたとしても、答えられる者はいない。
もう項羽軍に、事態を冷静に分析してこの短気な王に耳の痛いことを言おうとする者はいない。そんな賢い奴は皆逃げるか、とっくに項羽の怒りに触れて殺されてしまった。
ここにいるのは、未だ逃げる判断ができない者ばかり。
強さのみを信じているか、今まで勝つことが多かったから大丈夫と思っているか、従う事恥を晒さない事しか考えられない者のみ。
項羽の一族もいるが、そいつらも今まで項羽に引っ張られるだけで何も考えてこなかった。
いや、項伯だけは何度か項羽を諫めていたが……この期に及んでは全てを諦め、生きられるところまで生きようとここにいるだけ。
(項羽よ、もう無理なのだ。
こんなになっても分からぬのだな、おまえは。
ならばせめて、このまま他の何にも頼らず潔く逝ってみせよ。それが世界のためにおまえができる唯一の行動だ)
項伯はそう思いながら、天幕の中に姿を消す項羽を見送っていた。
項羽は天幕の中に引っ込むと、ふーっと大きなため息をついた。
心は疲れ切っているが、こんな姿を将兵たちには見せられない。他人の目がないここだけが、項羽が安心できる場所だった。
いや、一人だけ。
「お帰りなさいませ、項王様」
虞美人は、いつもと同じように柔らかな笑みで項羽を迎えてくれる。
これからどうなるのかと泣いたり、項羽を責めたりしない。
どこまでも穏やかで安らかに、項羽を迎え入れてくれる。
そんな虞美人を見ていると、項羽は申し訳なくて情けなくて仕方なかった。こんな誠実で優しい女に、自分は何をさせているのか。
安らぎを与えられず我慢ばかり強いて、希望すらも奪って。
虞美人だって本当は、泣きたくて逃げたくて仕方ないのかもしれない。普通の神経の女なら、間違いなくそうだろう。
にも拘わらず、虞美人は決して取り乱さず静かに笑っている。
項羽に選ばれたから、愛してもらっているから、どんな状況になってもただ己の役目を果たし続けようとしているのか。
そんな虞美人だからこそ、いじらしくてもどかしくて辛い。
いっそふがいないと責めてくれた方が、どれだけ楽かとも思ってしまう。
そうすると、そんな自分がまた嫌になる。虞美人のあんな気高い心を素直に喜べない自分は、何てダメな奴なのかと。
そうでなくても、最近は自分を見限りっぱなしなのに。
自分はこんなに将兵に見限られる人間だったのか。こんなにやられてやり返せないような弱い男だったのか。部下を食わせてやることもできない不甲斐ない男だったのか。
現実を見れば見るほど、自分がみじめで仕方ない。
もはや項羽が自信を保てるのは、この愛しい女に悦びを与えてやることだけだった。
「大丈夫だ、虞よ。必ずおまえを江東に連れて行ってやる。
そうしたら、安心して子を生めよ」
酒で重い感情を振り払って獣性を解放し、項羽は虞美人を組み敷く。
こんなことをしている場合ではないと心のどこかが喚くが、仕方ないじゃないか。もうこれしか、できることがないんだから。
このまま戦おうとしても、勝てないんだから。
自分には守る人がいるんだと肌で確かめて、もっと己を奮い立たせるんだ。この女との未来の種をまいて、もっと自分を強くするんだ。
そうすればきっと、勝てるから。
明日も折れずに将兵たちに強い姿を見せ、いつか脱出できるから。
全く根拠のない精神論を言い訳に、項羽はがむしゃらに虞美人を愛でた。
……という状態の主を、将兵たちが信じられる訳がない。
「あーあ、こりゃもうダメだな……こんな状況でも酒と女に溺れやがって」
「しかも戦う俺たちより、何の役にも立たねえあの女には飯をしっかり与えてるらしいぞ。あいつ自身も、ヤるためだけにたらふく食いやがって。
その分俺たちに食わせろよ!」
「ふざけてる!!」
誰よりも厳しい現実に直面している将兵たちに、項羽の態度はそうとしか見えない。これも、脱走兵が増える一因になっていた。
しかし項羽は、もうそんな現実を直視する気力もなかった。
そんな項羽軍の状態は、降伏した兵士たちにより劉邦軍の耳に入っていた。
韓信は広げた地図を前に、浮かぬ顔でぼやく。
「ふむぅ……項羽自身はそんなになっているのに、まだ一万近い兵がいるのか。これは良くない、このままでは最悪の事態を招きかねん」
劉邦軍が最も恐れているのは、項羽が追い詰められて范増の遺品を開き、それが人食いの病毒であった場合だ。
そうなれば、感染はまず項羽軍に広がるだろう。項羽軍にはもう、人食いの病に専門知識をもって対処できる人間がいないから。
すると、あふれてくる人食い死体の数はその時残っていた項羽軍の兵数となる。
この数は、少なければ少ない程いい。
だが兵が減るほどに項羽は精神的に追い詰められ、血迷った手を下す可能性が高くなる。いつ爆発するか分からぬ爆弾のようなものだ。
韓信は、実際に人食い死体と戦ったことのある黥布に尋ねる。
「人食い死体は人と比べて、どれほど倒しづらいのか?
どれほどの数までなら、封じ込められると思う?」
「うーん、俺も正確なところは分かってねぇんだけどよ……。
奴らは、頭以外への攻撃じゃ止まらねえ。火をつけても中が焼けちまうまでは、燃えながら歩いて掴みかかってくる。
数は確かなことは言えねえが、千を超えてたら厳しいだろうな。
相手にする数が増えるほど、こっちも大軍で当たらなきゃならんし、その分噛まれる奴が増えて管理が難しくなる」
黥布の答えに、韓信は困ったように眉を寄せた。
「ふう、矢でも火でも止められぬか……尋常な兵法は通用せぬな。
となると、やはりもっと項羽軍を減らさねばならん。
それも項羽が范増の遺品に手を出す前に……その隙を与えぬほど、短時間で急激に大量の兵を奪わねばならん」
それを聞くと、周殷も苦い顔をした。
「そう申されましても……降伏兵の数は日に日に減っております。まあ元が減っているせいも大きいですが。
項羽の危機感が限界を超える前に今残っている兵の心をそこまで動かすのは、難しいかと思われます」
項羽軍からは、既に相当な割合が降伏した。
裏を返せば、今残っている者は相当に忠誠心の高い者ばかり。これを一気に動かすのは、簡単ではない。
だが、自然に減るのを待つのは危険な賭けだ。
せっかくここまで追い詰めたのに、感染爆発でもろとも滅んだらこれまでの苦労が水の泡だ。
周殷は、項羽軍の陣を眺めて悲しそうに呟く。
「今残っている者はおそらく、故郷を裏切りたくない一心だろう。
項羽があんな醜態を晒しているのに逃げぬのは、それしか考えられん。
これは手ごわいぞ、何しろこちらが今手を出せぬものに従っているからな。力押しで攻めても屈せず、死ぬまで戦うだろうよ」
「郷愁が敵とは、厄介だねえ」
「劉邦様はそれを原動力に一気に関中を奪いましたが……今度はそれが壁となるか」
黥布と韓信も、これにはいい攻略法が見つからない。
「力押しは、できる限りやりたくない。
激しい戦いの中で使われるほど、病毒はこちらの軍にもよく広がるのだ。
かといって全て焼き払ったり埋めてしまったりは、地形がよくないしまだ数が多すぎる。それにそのような虐殺は、劉邦様の名を傷つけてしまう。
どうしたものか……」
韓信は策を求めて後方にいる軍師たちに使者を送った。
もちろん張良と陳平も状況を見て、韓信たちと同じような懸念を抱いていた。そして、そのための有効な策を考えていた。
「もうすぐ、彭越が戻ってきます。
それで我が軍の検査体制が整ったら、新たな策を始めましょう。
項羽が范増の遺品に手を出しにくいよう誘導しつつ、これまで降伏してきた兵士たちを使い、捨てられぬ故郷への想いを逆に利用して……」
全てを冷静に見通す張良の智謀は、項羽軍に暴発すらも許さない。
目の前の現実にしゃにむに抗おうとする項羽を、さらに打ちのめす策が下されようとしていた。




