(239)
項羽軍スーパーざまぁタイム!
独り善がりで他者を潰し続けると、自分が転がり落ち始めたら止まらない!
今切実に必要なものも、安住の地だと思っていた本拠地も、全てはその手から滑り落ちていく。史実通りの、破滅が始まる。
「何ぃ、韓信共が動いただと!?」
劉邦軍から食糧を奪って食いつないでいた項羽は、もたらされた報に愕然とした。
劉邦が負けても動かず日和見を決め込んでいると思われた韓信と彭越が、にわかに兵を動かしてこちらに向かってくるというのだ。
そのうえ、自分の配下であったはずの周殷までも寝返って、自分の領土を次々と攻め落としている。
「こ、項王様……いかがいたしましょう!?
このままでは、包囲されます!」
伝令の兵士が、泣きそうな顔で訴える。
項羽は頭がくらくらして、すぐには答えられなかった。
(おおお、一体どうなっているのだ!?
劉邦とならず者共の関係など、役に立たぬ卑しいもののはず……なのに、これは何だ!なぜ奴らは動いた!?
あんな浅慮で欲しかない奴らが、団結できる訳が……!)
しかし、いくら否定しても現実は変えられない。
目の前の劉邦軍だけなら数で劣るといっても、勝てない相手ではない。だが韓信たちが合流するとなると話は別だ。
項羽の今の兵力では、それだけを相手に勝負にならない。おまけにぐずぐずしていたら、包囲されて今度こそ飢え死にしてしまう。
「ぬうう……撤退だ!彭城まで退け!」
項羽は、奥歯が割れそうなほど噛みしめて命令を下した。
せっかく劉邦を蹴散らして粗末な古城に追い込んだのに、それを見逃して逃げなければならないなんて、これ以上ない屈辱だ。
だが、ここで怒りに任せるほど項羽は愚かではない。
いや、怒りよりも危機感の方が勝っている。
ここで包囲されてしまったら、自分の道はここで終わる。
天下を取って救世主として君臨する未来も、虞美人と温かい家庭を作る日々も、全ては泡と消えてしまう。
それだけは、避けなければ。
自分は生きて、守らねばならない。自分を慕ってくれる部下たちや故郷の父兄たちを。病毒をまかれた世界で健気に生きる人々を。
そして、今後ろで青くなって震えている愛しい女を。
項羽は、恥を忍んで部下たちに叫んだ。
「すぐ彭城まで退いて、籠城するのだ!
あそこなら食糧も財貨もたっぷりあるし、そう簡単に落とされる城ではない。
奴らは所詮烏合の衆、戦が長引いて疲れたところに少し金をばらまいてやればすぐ仲たがいするだろう。
そこを打ち破って、残らず平らげてやる!!」
これは敗走ではなく戦略的撤退だと、項羽は自分にも配下にも言い聞かせた。
自分たちはまだ、全てを失ったわけではない。彭城からの食糧が届けば撤退できるし、比類なき武を誇る項羽自身は健在だ。
これまではずっと勝っていた相手だし、まだまだ押し返せる。
その希望が砂上の楼閣にすぎないと、項羽はまだ知らなかった。
項羽軍が急いで彭城に向かっていると、大量の食糧を運ぶ軍勢に出くわした。
「おおっようやく彭城からの食糧が……いや、あの旗は!?」
項羽は、その軍勢が自分のものではないと気づいて愕然とした。その軍勢が掲げる旗は、彭越のものだ。
憎き彭越が項羽の前に出て来て、嘲笑とともに言う。
「よお、彭城からの食糧なら残らずいただいたぜ。
ついでにこれまでおまえんとこから盗んだヤツと一緒に、これから劉邦に売りつけに行くんだよ。わざわざ追加ありがとうな、ガッハッハ!」
その瞬間、項羽軍に動揺が広がる。
彭越が彭城からの食糧を取ってしまったということは、もう自分たちの腹に入らない。彭城まで引き揚げるだけの、食糧が足りないのだ。
それでも項羽は、強気に命令する。
「何をしている、早く攻めんか!
奴らが持っているあれを奪えば、食うに困らぬではないか!」
兵士たちはそれを聞いて突撃を始めたが、どうも覇気がない。それを奮い立たせつつ突破口を開こうと項羽自身も突撃したが……それを迎え撃つように矢の雨が降り注いだ。
「くっ……こしゃくな!だが、兵共だけでも……」
項羽から離れて突撃して来る兵士たちに、彭越はニヤリと笑って声を張り上げた。
「おーい、降伏するなら腹いっぱい食わしてやるぞぉーっ!!
腹減って力が出ねえんだろ?早く武器捨ててこーい!」
それを聞くや否や、突撃していた前線の兵士たちの一部が武器を捨てた。そのまま彭越軍と混じり合い、彭越軍の後方に消えて行ってしまう。
「な、何をする!?戦え!戦わんか!!
逃げる者はこの俺が斬って……ぬうっ!」
項羽は逃げる者を斬ろうとするが、彭越軍が矢の雨を降らせるためうまく動けない。その間にも、空腹の兵士たちはどんどん彭越に降っていく。
「ガッハッハ、虐殺王は止めとくから、どんどん来い。
この矢もてめえらから盗んだヤツだから、たーっぷり返してやるよ。
てめえらは俺に降れば飯が食える、俺は項羽の兵を削げば漢王からほうびがもらえる、あの虐殺王以外誰も損しねーぜ!」
彭越はそう言って、景気よく笑う。
項羽は腹立たしくて悔しくて、矢を打ち払って逃げる兵士を留めに向かうが、散り散りになる兵を一人では追いきれない。
それに、項羽が向かうと兵士たちはますます血相を変えて逃げ出す。
当たり前だ、逃げ切れば飯が食えて捕まれば殺されるのだ。降伏する気がなくても、空腹で力が出ずフラフラしているだけで殺されるかもしれない。
己の命を守るために、皆必死で項羽から逃げていた。
そのうち、十万ほどいた項羽軍はごっそりと減ってしまった。
「項王様、これでは勝負になりませぬ!
包囲される前に、早く撤退を!!」
側近の護衛兵が、泣きそうな顔で叫ぶ。
降伏せず健気に戦おうとしている兵も、空腹と疲労で力が出ず次々と討ち取られている。このままでは、全滅も時間の問題だ。
項羽は屈辱で頭がおかしくなりそうだったが、虞美人の乗る馬車を見て何とか心を支え、残り少ない兵士たちに叫んだ。
「退け!このまま彭城まで突っ走れ!」
自分はいくらでも戦えるし他の兵士はいくら死んでもいいが、虞美人はだめだ。何としても守り、心安らぐ場所に連れて行かなくては。
矢を避けて愛する名馬を走らせながら、項羽は信じられない気持ちで一杯だった。
自分は今までどんな戦にも勝ってきたのに……こんな無残な負けは初めてだった。
ほうほうの体で彭城に向かう項羽軍の前に、少数の味方の軍が現れた。疲労困憊の項羽軍は、ようやく援軍が来たのかと奮い立った。
「おお、遅かったではないか!
だが今はそんな事より食事だ、早く食糧を出せ」
これで一息つけると、項羽は味方に近づいたが……どうも様子がおかしい。
現れた味方は、援軍と言うにはあまりに心もとない数だ。そのうえ皆ボロボロで、荷物らしきものを何も持っていない。
「おい、なぜ食糧を出さぬ!?持ってこいと命令したではないか!!」
項羽が語気を強めると、ボロボロの味方は泣き出した。
「ほ、彭城の食糧は……もう我らのものではありません!
彭城は、韓信に落とされました!!」
「何いぃ!!?」
項羽は、己の耳を疑った。
頼みにしていた彭城が、反撃の拠点となるはずの彭城が、虞美人との愛の巣になるはずの彭城が……もはやこの手にないとは。
「では……た、蓄えておいた食糧や財貨は?」
「全て、韓信に奪われました!
持ち出している余裕など、ありませんでしたあぁ!!」
項羽は、ぎょっとした。
これでは、兵士たちの腹を満たせない。それどころか補給の当てもなく、安心して身を休められる場所もない。
「信じられん……この目で確かめてやる!」
そう言うや否や、項羽は愛馬に鞭を入れて走り出していた。
どんなに状況がそれらしくても、信じられない。信じたくない。たとえ天地がひっくり返っても、こんな事が起こる訳が……。
しかしそう否定して突っ走った項羽の目の前で、彭城は韓信の旗をたなびかせていた。そのうえ、城壁の上に上等な鎧をまとった見知らぬ男が立っている。
そいつは項羽に気づくと、見下した笑みで言った。
「どんな気分です?昔逃げられても気にしなかった男に本拠地を取られるのは。
ああ、あなたは無くすことに関してだけは一流ですからな……私も陳平殿も黥布も、そのうえ周殷も……兵や民の心までも。
城の一つくらい、訳ないことでございましたか」
韓信の皮肉は癪に障るが、それよりこの状況で大変なのは周殷の裏切りだ。
これでは、もう南に逃げることもできない。周殷が故郷に残してきた兵を駆り出して反撃することもできない。
彭城がなくなれば次は周殷のところへと無意識に考えていたが、もうそれもできないではないか。
どうしようもない、八方塞だ。
うろたえる項羽の前で、韓信がドヤ顔でさっと手を下ろす。
すると、彭城の城壁の上から数多の弩が項羽に狙いを定めた。
「ぐっ……ぬっ……くそっ覚えておれ!!」
さすがにこれに一人で突っ込む訳にいかず、項羽は必死で愛馬を走らせて逃げ出した。後ろからは韓信の哄笑が響き、延々と耳に残っていた。
残り少ない兵の所に戻ると、項羽はすがるような思いで東を目指した。どうにか江南まで逃げ切れば、まだ劉邦の手は及んでいない。
しかし項羽軍はもう矢尽き刀折れ、食糧も援軍の当てもない。
こんな状態でそこまで行ける望みがどれほどあるかは、普通に考えれば分かることであった。




