(238)
まさかの追撃戦で敗れた劉邦のターン。
助けに来なかった味方を動かす一番有効な手はやっぱり……みんな現金なんだよ。だがそこが劉邦軍の強みでもある。
韓信、彭越、周殷の内心は……これまであまり登場しなかった人物が加わってきます。
みんな自分がかわいくて欲望には勝てなかったよ。
劉邦は、思わぬ敗走に驚いて軍師たちに愚痴をぶちまけていた。
「どういうことだよ!何で簡単に勝てるはずの追撃戦で負けにゃならんのだ!
つーか、本当なら韓信と彭越が来て項羽を包囲するはずだったのに。何であいつら来ねえんだよぉ~!!」
そう、劉邦たちは自分たちだけで戦うはずではなかった。
北にいる韓信と東の彭越にも協力させて、項羽軍を包囲し押し潰す算段だった。和平を破った時点で、二人にもその段取りを伝えてあった。
だが、待てど暮らせど二人は来ない。そのせいで劉邦が逆に敗れても、知らぬふりで動こうとしない。
焦る劉邦に、陳平が言う。
「んふっそんなの簡単!
もうすぐ戦が終わるってのに、ごほうびを約束してあげてないからでしょ」
それを聞いて、劉邦は目を白黒させた。
「はぁ!?あいつらこんな時にまで……。
もしここで俺が死ぬようなことになったら、ほうびも何もなくなるんだぞ!それとも、それを待って取って代わるつもりでもあんのか!?」
見捨てられる恐怖に取り乱す劉邦を、張良と陳平は優しく諭す。
「そのような気持ちも、ないとは言えません。
しかし考えてみてください、勝っても何が得られるか分からぬ状況で、人は他人に力を貸せるでしょうか?
何も得られなければ、まさしくいいように使われただけの徒労に終わるのです。
そうでないと確約されるまで動いて消耗したくないのは、当たり前の人情ですぞ」
「そうねぇ、わっちもその気持ち、すごーく分かるな。
だって項王って、いくら働いてもケチケチしてごほうびくれなくて失敗ばっかりあげつらって、わっち虚しくてたまらなかったの。
韓信ちゃんと彭越ちゃんも、項王のところで一度味わってるから……」
それを聞くと、劉邦もしんみりして鼻をすすった。
「そうか……そうだよな。
俺だって、一生懸命従って尽くしてもあんな辺境与えられて、納得できんかったもんな……」
劉邦は、自分と項羽の秦を滅ぼす先陣争いを思い出していた。
あの時劉邦は当時の楚王に、先に関中に入った者が関中王だと約束してもらっていた。だから労や出費をいとわず頑張れたのだ。
それを項羽に覆されて辺鄙な漢中に押し込められて、悔しくてたまらなかった。自分の頑張りを全否定されたようで、虚しかった。
約束があってすらあんな事があったのに、約束もない何を信じられるというのか。
特に彭越は、項羽にそんな目に遭わされたお返しに暴れ回っているのに。また同じ目に遭うかもしれないのに、力を貸せる訳がない。
韓信だって、もらえなくて項羽を見限り、もらえるから劉邦に従っているのだ。もらえるか分からなければ、働きたくないに違いない。
二人の気持ちを理解した劉邦に、張良は進言する。
「なので殿のやるべきことは一つ、いつものように気前よく恩賞を約束してください。
そうすれば、二人の協力の下で殿の天下が得られましょう」
「うん、そうする……俺は項羽とは違うんだって、分からせてやるぜ!」
劉邦は素直に、二人に恩賞を約束する手紙を書き始めた。項羽に勝ったらその領土を分けて二人に与え、二人とも王にするという大盤振る舞いだ。
それからさらに、項羽との関係が悪くなって助けに行かない周殷にも寝返るよう秋波を送った。このまま項羽配下なら罰するが、これから協力すれば命は助けると。
これで信じてもらえれば勝敗は決すると信じて、劉邦の美味しい話を携えた使者が各地に散った。
しかしそれだけの恩賞を決めると、劉邦はポツリと漏らした。
「はぁ……しっかしこれだけ気前よく出して、全軍の分足りるんかねえ?
項羽を倒したって、得られる土地はみんなこの二人にやっちまうんじゃあ……他の手柄を立てた奴にやる土地がねえよ。
金や宝物や官位だって、無限にある訳じゃねえし」
劉邦は、戦が終わった後に皆に与える恩賞が足りるか不安を覚えたのだ。
劉邦が気前よく与えてくれるのを信じて、皆ついてきてくれている。劉邦になびいている他の諸侯だってそうだ。
もし戦が終わって劉邦が皆の期待するだけの恩賞を与えられなかったら、今度は劉邦が項羽のようになるのではないか……。
だが、陳平はにこやかに笑って答えた。
「大丈夫、わっちの策で何とかしたげる。
殿の天下にさえなっちゃえば、その後のことはどうにでもなるから」
「そうか……ありがとよ!」
その答えの意味が、果たして劉邦には伝わったのか。
(今回の約束はあくまで、戦が終わって王にするところまで……その後どうなるかまではなーんにも約束してない。
どのみち大きすぎる勢力は残しとくと危ないんだから……後からあいつらどうにかしてその領土切り分ければ、何とかなるでしょ♪)
もちろん、今そんなことを口には出せない。
最終決戦のことだけ考える劉邦の前で相変わらず緩い笑みを浮かべて、陳平はその先の残酷な策まで思い描いていた。
恩賞の効果は、てきめんに表れた。
韓信は王にしてくれるという約束に感激し、心から劉邦について良かったと思った。
「あれだけ広大な領土が、この私のものに……項王の下にいたら絶対にこうはならなかったであろう。
やはり劉邦様ほど私を評価してくださる人は他にいない、ならば私も劉邦様の期待に応え存分に働こう!」
韓信はその働きと勢力の大きさから、項羽軍に寝返らないかと誘われたり独立するようすすめられたりしたこともある。
だが韓信は、それらの話に頑として応じなかった。
項羽の陣営では冷遇されていたし誘い方があまりに上から目線で尊大だったので、戻ることなど考えられない。
独立の話には少し心が揺れたが……劉邦に悪いと思って蹴った。
韓信にとって、劉邦に評価してもらうのはあまりに心地よかった。
ずっとうだつが上がらずどこでも無能の厄介者扱いだった韓信に、劉邦は初めて天にも昇るような評価をくれたのだ。
韓信の強すぎる功名心に、その快感は何よりも強く刻まれた。
自分は何にも代えがたい恩を返すために、絶対にこの人を裏切るまいと。
……当初言われた通り合流しなかったのはちょっと試しただけであって、裏切りではないと思っている。最近は前程ほめられなくなった気がして、物足りなさを感じていたから。
「ふふふ、やはり劉邦様には私がいないとダメか。私も劉邦様でないとダメだ。
ここは颯爽と助けに行って、もっとほめてもらわねば!
手始めに……なになに、自分の領土になる彭城くらい自分で取ってみろ?そうすれば彭城の財貨は全部私のもの?
これはすぐ行くしか!!」
約束された楚王の位と目の前に投げられたほうびに、韓信は喜び勇んで彭城へと進軍を始めた。
彭越の反応も、だいたい張良と陳平が予想した通りだった。
「へえ、この俺様を王にねえ……話が分かるじゃねえか!
秦との戦いであんなに働いたのに何もくれなかった項羽のクソ野郎とはえらい違いだ。やっぱ人に慕われる奴ぁ違うねえ」
彭越はこれまで劉邦の配下ではなかったが、劉邦と共に戦うような形をとっていた。
どちらも、自分だけで戦えば項羽の圧倒的な力と数に押し潰されてしまう。西と東で項羽を引っ張り合っているうちに、自然と共闘関係になっていた。
項羽と戦う動機にも、似たものがあった。秦を討つ戦いで正当な恩賞をもらえなかった者同士、心を重ねられた。
問題は、劉邦が項羽のような仕打ちをしないかだが……。
「やられる気持ちがわかる奴は、一方的にやる奴より余程信用できる。
項羽との和平は破ったが……ありゃ項羽が先にやったんだから仕方ねえ。放っといたら項羽の都合のいい時に破られてただろうからな。
信じてやるぜ、心の友よ……。
手始めに……なになに、項羽に食糧を取られたから持ってきてくれたら買う?
ありがてえ!これまで項羽から盗んだ分が売りさばききれなくて余ってんだ!」
彭越は、盗んで蓄えていた大量の食糧とともに小躍りで出陣した。
周殷も、命を助けるという劉邦の誘いにうれし涙を流した。
「おおお、これまであんなに貴公を苦しめた私を許してくれるというのか……何たる寛大なお方だ!
思えば項王様は、いくら力を尽くしても結果が伴わねばすぐ処罰していた。陳平もそれを恐れて逃げたんだったな。
私ももう、いくら頑張ってもそうしかならぬと思っていたが……。
くくっ……救いの光は敵の中にあったのだ!」
周殷自身、これまで味方を見ていて不安を感じていた。
范増は実績が出せず少しでも疑わしいというだけで見限られて暴行され、龍且はがむしゃらにもっと頑張ろうとして無駄死にしてしまった。
正直、もう項羽の側にいて何かを期待されるのが怖くて仕方なかった。
だから疲れて体調が思わしくないとうそぶいて、逃げた。
しかし、項羽からは体調を気遣う言葉から始まって早く助けに来いと圧力をかける手紙や使者が矢のようにやってくる。
こうしていても、いつ首をはねられるか気が気でない。
(ああ、黥布もきっと同じ気持ちだったのだ。
あいつは今、漢王の下で楽しくやっているんだろうか……)
その黥布と同じ所へ行ける機会が、自分に舞い降りた。
これに飛びつかぬ手はない。
「もはやこれしか助かる手はない……私は漢王につくぞ!私の望みは私と一族と部下たちの安泰、それを脅かす項王の下になどいられるか!
それから、なになに……他にも項羽の下にいる親しい者を寝返るように誘ってくれ?
望むところだ!私だけでなく他の者の命も同じように助けてくださるとは、何たる慈悲!助けてもらった恩返しに、私も同朋を助けようぞ!」
周殷は少しでも劉邦に恩を売ると言わんばかりに、項羽の領土の後方をものすごい勢いで攻め始めた。
かくして、各地の英雄たちが続々と劉邦の下に集結する。
天下を手にする者を決める最後の戦は、間近に迫っていた。




