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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十八章 追撃
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(236)

 劉邦最大の卑怯が、最高のタイミングで炸裂!

 勝つために、生きるために何でもやる奴とした約束など信じてはいけなかった。


 守りたいものを手元に戻した劉邦は、それを末永く守るために非情な決断を下します。それがたとえ、相手の温かい希望を破壊すると分かっていても……。

 自分のためが天下のため、ならばそれが最大の正義。

 和平条約が結ばれると、両軍は慌ただしく撤退の準備を始めた。

 これまで密集して並んでいた兵士たちの天幕が払われ、物資が次々と馬車に乗せられていく。人であふれていた戦場は、あっという間に元の荒野に戻った。

 特に食糧が尽きかけて数も少なくなっていた項羽軍は、少しでも早く故郷に帰ろうと潮が引くように退いていった。

 来た時よりずいぶん少なくなった軍を眺め、項羽はため息をつく。

「気が付けば、ずいぶんやられたものだ。

 だが、数が減ったおかげで食糧は何とか彭城までもちそうだ。

 まあ足りなくなりそうなら近くの村や町から徴収すればよかろう。ここは正式に我が領土と決まったのだから、拒むことなどできまい」

 項羽は、とにかく自分も兵も早く休ませたかった。

 思えば、本拠地に帰ってゆっくりできるのはもう何年ぶりだろう。このところ戦ばかりしていて、落ち着く暇もなかった。

 結局戦いは中途半端なまま終わってしまったが、今は劉邦を討てなかった悔しさより安堵の方が勝っていた。

(これでいい、俺の領土の方が広いのだから俺の勝ちだ。

 次は全国から兵も物資もかき集めれば、負けることはあるまい)

 項羽は、そう自分を納得させて劉邦軍に背を向けた。

(そう、次だ……次こそは勝つ!

 何年後……いや十何年後になるか分からぬが、絶対に裏切らぬ子らと共に次こそあいつを滅ぼしてやる!

 ……それまでにあいつが死んで、その隙を突ければ最善か)

 背にした劉邦軍は今や自軍の数倍もいるが、項羽はそう心配していなかった。

 直接ぶつかり合う戦はもう終わったのだ、平和なうちにこの程度の差などすぐに追いついて逆転してやる。

 自分には、それができるだけの領土を与えられたのだから。

 それに、自分は劉邦よりずっと若い。まだまだ元気でずっと長く生きられるし、これからいくらでも子を増やしてやる。

 時を与えられた時点で、自分は勝ったようなものだ。

「フフフ、愚かなり劉邦。

 せいぜい平和に酔いしれて短い余生を過ごすがいいわ!」

 項羽は鼻先で笑って、虞美人の乗っている馬車にチラリと目をやった。

(さて、これからはたっぷりと女を抱いて味方を増やさねば。

 あいつにも、俺の妻となって良かったと思わせてやらぬとな。まあここまでの時点で、劉邦の妻よりよほどましな生き方をさせてやれているが)

 これからはしばらく、虞美人を大事にしてお互い安らげる日々を過ごそうと項羽は思った。

 虞美人もこれまで戦続きでずっと自分と共に動き続けて、落ち着けなかっただろう。項羽はそれを申し訳なく思っていた。

 だが、それももう終わりだ。

 これからはこれまでの苦労の分を返すように、幸せにするのだ。これからの時間は、そのためにたっぷりあるのだから。


 項羽は、己の輝かしい未来をひたむきに信じていた。

 苦悩の日々の終わりと、温かく穏やかな日々の始まりを信じていた。


 ……よもや、その道がポッキリと折れてなくなろうとは……この時は考えもしなかった。


 一方、劉邦軍は大所帯の荷物をまとめるのに手間取っていた。物資は次々に馬車に積み込まれていくが、その列は全く動かない。

「おいおい、積んだ分だけでも運びゃいいだろ。

 もう戦は終わったのに、何を待ってんだ?」

 ぼやく劉邦に、張良がささやく。

「もちろん、殿のご命令をですよ」

「え~、んなもんもう撤退で決まってんだから……」

「本当に、それでよろしいのですか?」

 急に、張良の声が一段下がった。表情もいつものたおやかなものではなく、真剣を突きつけるような鋭い顔になっている。

 劉邦は、そんな張良を前にたじろいだ。

「本当にって……何だよそれは?だってもう決めちまったし……」

 戸惑う劉邦の目を覗き込んで、張良はささやく。

「今、殿は天下の半分を手に入れ、他の諸侯もよく従い兵も食糧も豊富です。対する項羽は諸侯にも民にも見限られ、食糧も尽きている有様。

 今をおいて、項羽を討てる機会があるとお思いですか?」

 その言葉に、劉邦はヒュッと息をつめた。

 これが意味するところは……。

「和平を、破れってのか……!?

 いやいや、でもそんな不義理なことは……」

 うろたえて後ずさりする劉邦の背中を、誰かがぴたりと受け止めた。耳元に、陳平の甘ったるい含み笑いが響く。

「んっふっふ、そういうの……殿らしくないなぁ~♪

 これまでだってさんざん、卑怯なことも見苦しいことも恥ずかしいこともやり尽くしてきたじゃない。

 天下のためなら何でもするって、覚悟してるんでしょ?」

「う、うん……そりゃそうだが……」

「じゃあ、何を今さらためらうの?

 大丈夫、殿はそういう不埒なことしても民には優しいってみんな知ってるから。

 むしろ相手はこれまでさんざん約束を破って好き放題してきた項王だもの……殿が同じことしたって、みんな項王ざまあみろって思うでしょ」

 陳平は、緩く甘い言葉で劉邦のためらいを解していく。

 劉邦も、思わず口の端を緩めてこぼした。

「そりゃ、それで息の根止めれたら一番だけどよ……できるんかねえ?

 こっちももうちょっと力を蓄えて、力を整理してからのが良くねえ?」

 張良は、女が告白を拒むように首を横に振った。

「良い訳ないでしょう。領土は項羽の方が広いしあなたは高齢なのですから、これからの時の流れは項羽の味方です。

 このまま項羽を逃がして放っておけば、虎を養って自ら患いを残すようなもの。あまつさえ時をかけすぎて虎が増えたら、狩りに出るのも難しくなります。

 あなたは、自ら食い殺されるのを選ぶと?」

「んっ……ぐっ……それは、嫌だぁ」

 劉邦は、弱弱しく答えた。

 その背中を、陳平が気合を入れるように叩く。

「じゃ、もう一仕事踏ん張って、疲れ切った虎を狩りに行かなくちゃ。大丈夫、項王は殿以上に疲れて追い詰められてるから。

 和平に応じたのが、何よりの証拠。

 ここで項王をきっちり討ち取れば、それからは安心して休んで遊べるんだから!」

「うん……」

 劉邦は、大人に道理を説かれた子供の用にうなずいた。

 軍師たちの言うことは、間違っていない。自分の怠惰な心がどんなに目の前の休みに誘っても、それに従えば真の安息はやってこない。

 さらに、感染の面でも……。

「是が非でも、今項羽を討って検査を進めてください」

 石生たち元研究員が、揃って劉邦に頭を下げる。

「項羽の側にあった人食いの病毒が本当に全て廃棄されたか、確認が取れません。

 范増のやっていた研究が止まり、検体と汚染物は焼却されたそうです。しかし、病毒は竹筒の一本もあれば保存できます。

 項羽が、范増の遺したものを大切に保管しているという情報もあります。

 このまま放置すれば、何が起こるか分かりません」

 その報告に、劉邦は総毛だった。

 項羽は、焦って頭に血が上ったらどんな大それたことでもやる男だ。一度自分の中で結論を出したら、誰にも止められない。

 もし、その調子で人食いの病毒に頼ろうと血迷ったら……。

「項羽んとこにいた研究員は?」

「范増の無実が分かった時、責め抜かれて殺されたそうです。

 もう、あちらで何かあった時に、早く危険を察知して適切な対応ができる者はおりません」

 劉邦と軍師たちの表情が、一層険しくなった。

 項羽は怒りと屈辱に任せて、生命線ともいえる専門家をも殺してしまった。これでこの後正しい感染対策など、できようはずがない。

 異常と感じたらすぐ虐殺に走り、恐怖に駆られた民の統制が取れなくなり、感染者混じりの民が大挙してこちらに押し寄せてきたら……。


 項羽が生きている限り、その恐れは残り続ける。

 自分が治める天下の半分も、守り切れる保証はない。


 劉邦は、妻にじゃれつく子供たちと、穏やかにそれを眺める父親を見つめた。

 項羽には捕まったけれど、生きてまた一緒になれた家族。相手が一応外聞を気にする人間だったから、殺されずに済んだ。

 だがもし相手が、人間を餌としか思わない理性なき化け物だったら……。

 劉邦は、ぎゅっと拳を握りしめた。

「俺の命がかかってるなら、どうなってもいいとか思っちまった日もあるよ。

 でもさ、今はそうじゃねえ……やっと、そうじゃなくなったんだ。そうじゃないなら……きちんと守ってやらねえと、さすがに極まりが悪いよなぁ」

 劉邦は、そっと妻子に近づいてそのまま抱きしめた。

 妻の厳しい眼差しが、子供たちのふしぎそうな眼差しが、劉邦の目に注がれる。

 劉邦は、くしゃくしゃの笑みを浮かべて言った。

「大丈夫だ、これからは、絶対守ってやるからな!」

 劉邦の胸に、病毒に翻弄されて死んでいった者たちのことが去来する。


 不老不死を求めこれを作りださせた始皇帝は、真実を知らぬまま侵されて死んだ。多くの妻と子が、感染を絶やすために殺された。

 彼に仕え天下統一を支えた李斯や馮去疾も、趙高の実験で家族もろとも人の尊厳を奪われて死んだ。

 それを命じた胡亥も、大事にしたつもりだった家族の誰も助けられなかった。

 趙高は、最期は皆に見捨てられて一人で死んだ。

 最後に残った子嬰も、妻子ともども死を免れなかった。


「俺は、そんなにはならねえ。

 俺の家族も、そんなにはさせねえ。

 俺を支えてくれる臣下たちも俺を慕ってくれる民たちも、そんな思いは絶対にさせねえ。させていいのは、それを阻む奴だけだ!」


 劉邦は主な将たちを呼び集め、意を決して宣言した。

「これから、項羽軍を追撃して討つ!

 約束破りだろうが詐欺だろうが、何とでも言え!

 俺は何としても項羽を討つ、天下を一つにするんだ。そのためなら何だってやる、最初からそう決めてたんだ。

 だからおまえらも……最期の戦だ。あとちょっとだけ、頑張ってくれ!!」

 劉邦が言い切ると、将兵たちから大きな歓声が上がった。当たり前だ、皆求めているのは一時の休息ではなく、二度と脅かされることのない真の安泰なのだから。

 この日、結ばれたばかりの和平はあっさり破られた。

 そして、天下を一つにまとめる最後の戦いの火ぶたが、切って落とされた。

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