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どうにもならない項羽の下に降りてきた、この状況を終わらせる一手。
考えるのが苦痛で、しかし大切な人を守りたい項羽はそれにすがりつきますが……。
ひと時の平和の予感と、劉邦との温かい一瞬。劉邦と家族たちの再会を見て、項羽はようやく己の過ちに気づき希望を抱きますが……。
両者の愛する女が登場。
虞美人:項羽の最愛の女性。しかしこの後……有名な覇王別姫が。
呂稚:劉邦の正妻。劉邦が貧しかった頃から支えた糟糠の妻で、しかし不満が溜まっていたのか劉邦亡き後大変なことに……。
項羽は、昼間だというのに酒を飲んで憂さを晴らそうとしていた。
考えなければいけないことはたくさんあるのに、考える気も起こらない。だって、いくら考えてもどうしていいか分からないからだ。
いくら対峙して挑発しても、劉邦は出て来ない。
自軍の食糧は減っていくばかりで、次の補給がいつ来るかも分からない。
今は兵士たちに悟られないようにいつも通り飯を出しているが、このままでは遠からず食糧が尽きる。
かといって飯を減らせば、さらに脱走者が増えるだろう。
ただでさえ、斉に向かわせた二十万を失ったのだ。新兵の補給もできない今、これ以上兵が減ったらまともに戦えなくなってしまう。
そうでなくても、劉邦軍は北方や関中から食糧も兵も補給し続けているのに。
待てば待つほど、戦力差は広がるばかりだ。
いっそ後方に戻って立て直せればとも思うが……今退けば、劉邦軍に追撃されるのは火を見るより明らかだ。
撤退しながらの戦が不利だということくらい、項羽も知っている。
それに。劉邦軍だけならまだいい。彭城まで退いたところで、北の韓信と東の彭越が加わって包囲されようものなら……。
(一体どうすればいい!?)
考えれば考えるほど、八方ふさがりでどうにもならない。
それを相談できる仲間も、もういない。
范増は死んだ。龍且も死んだ。周殷は逃げてしまった。鍾離眜は自分がいない間劉邦軍を抑えられなかったのを叱責したら、他の将兵たちと同じように媚びへつらうだけになってしまった。
有用な助言はもらえないし、せめて一緒に気勢を上げることもできない。
結果、項羽は酒を飲んで考えることから逃げるしかできなくなった。
どいつもこいつも信用できず、側に置くのは愛する女一人になった。
将兵たちは自分が酒と女に溺れているなどと言うが、あいつらにこの苦しみが分かるものか。この事態を何とかする策の一つも出せないおまえらが悪いんじゃないか。
そう思って、またぐいっと杯を傾ける。
その手に、白く柔らかい手が重なった。
「項王様……そんなに飲まれては、お体に障ります」
鈴が転がるような美しい声が、耳をくすぐる。振り向けば、心配そうにこちらを見ている澄んだ瞳と目が合った。
項羽は思わず頬を緩め、その細い体を抱き寄せる。
「ああ、そう心配するな……虞や」
彼女こそ、項羽が最も愛する女性、虞美人であった。
項羽は、戦場でもこの女を側に置いて片時も離すことがなかった。特に話せる者が誰もいなくなった今、項羽にとってこの女が最後の心の拠り所だった。
ゆえに、虞美人にこんな顔をされると心がひどく痛む。
何とかしてやらねばと、心に焦りが生まれる。
しかし考えたとて、どうにもならないのだ。そのうえ不思議なもので、そんな気分の時ほど酒の手が伸びて止まらなくなる。
「大丈夫だ、おまえは何も心配せずとも良い。
だからそんな顔をしないで、笑っていてくれ」
項羽がそう言うと、虞美人ははっとして微笑みを浮かべた。しかしその笑みの向こうに、押し殺した不安が透けて見える。
それを見ると、項羽はますます辛くなる。
自分が口で何を言ったとて、自分たちを取り巻く状況は何も変わらないのだ。
それを突きつけられているようで、項羽はひどくみじめになる。自分には、愛する女一人安んじてやれないのかと。
(……くそっ何をやっているんだ俺は!虞が苦しんでおるというに……。
だが、どうすれば……そうだ、やはり范増の遺したものを……!)
ここに至り、項羽の頭の中に范増の遺した箱のことがよぎった。
今はもう、目障りなので自分の幕舎にすら置いていないが……虞美人がチラチラ見るので、俺よりあのジジイが頼りになるのかと嫉妬に駆られたのだ。
だが、もうそんなことを思っている場合ではない。
あれを使うことで状況が打破できるなら……虞美人の心からの笑顔を取り戻せるならば。
項羽はついに、あれを持ってこさせようと立ち上がった。
しかし、そこに伝令が駆け込んできた。
「劉邦の陣から、和睦の使者が参りました!」
項羽は一瞬呆けたような顔をし、それからほーっと安堵の吐息を漏らした。解決策は、なんと向こうからやって来たのだ。
ようやく動けるようになった劉邦は、軍師たちとゆっくり返事を待っていた。
「なあ、どう思う?項羽のヤツは、和睦に応じてくれっかな~?
俺ぁどうも信じられねえんだよ。だってさ、これまで何度か和睦しようとしたけどあいつが応じた例がねえし」
半ばあきらめたような顔をする劉邦に、陳平は含み笑いで返す。
「んっふっふ、わっちはそうは思わないな~。
だって、これまでとは全然状況が違うんだもん。これまではずーっと、項王が有利であっちに和睦の意味がなかったから。
でも、今は……んふふ、項王、とーっても休みたいと思うのぉ♪」
「このままではジリ貧だと、それくらい彼でも分かりますよ。
でもそれを解決するか思い切った進言をしてくれる者が、もうあちらにいませんから」
張良も、楽しそうに言う。二人とも、項羽が受けることを確信しているようだった。
劉邦も、それならと期待を込めるように言う。
「あー、今回ばかりは本当にそうなってくれねーかな!
そしたら一旦戦が区切りで恩賞を整理するとかで、デカくなりすぎた韓信を何とかできると思うんだよ。
それに親父や嫁もさぁ……ずーっとあっちの手にあると、やっぱ落ち着かねえ」
「大丈夫です、すぐに会えますよ」
張良の励ましの声とともに、項羽の下へ出していた使者が戻ってきた。
「項王様、和睦を受けられるとのことです!」
使者の報告に、劉邦と軍師たちは会心の笑みを交わした。ついにこの不毛な戦を一旦止め、いろいろ立て直すことができる。
浮かれ回る劉邦の目がそれた途端、軍師二人の目が猛禽のように光ったことには、誰も気づかなかった。
数日後、項羽と劉邦の間で和平条約が結ばれた。
決着がつかないままでいつまでも争い続けても仕方ない。ならばひとまず現状維持で、天下を二つに分けようではないか。
幸い、どちらの勢力の頭も人食いの病のことを知っている。ならばそれぞれのやり方で平和の中で守った方が、争いで混乱させ続けるよりましだ。
それにこれなら、どちらかが守り切れずに滅びそうになってももう片方は生き残るかもしれない。考えようによっては、一つのやり方に固執するよりいい。
何より、そろそろ民を安んじないと、不満からさらに新しい勢力ができても困る。
お互いの、それぞれの理由で戦をやめたいという意志が合致した。
「そんじゃ、こっから西は俺、東はおまえってことで」
二人の見守る中、広大な中華の地図に線が引かれる。線の西……関中とその周辺が劉邦、それ以外が項羽の領土だ。
明らかに、項羽の領土の方が大きい。
ここも、項羽が納得して和平に応じた理由の一つであった。
(これなら、平和になれば国力で立て直せる。
韓信に取られた領土もだいぶ戻ってくるし、もし出て行かなければ劉邦に手を出させることなく打ち破れる。
背後が安全なら、彭越とも腰を据えて戦える。
そして、時が来たら今度こそ劉邦を押し潰して……)
項羽が頭の中で計算していると、劉邦が控えめに声をかけた。
「なあ、そろそろ俺の家族を……」
「良かろう、連れてこさせる」
和睦のもう一つの条件として、項羽が捕らえていた劉邦の家族を返すというのがあった。これで劉邦は、ようやく何年も生き別れになっていた家族を取り戻せる。
項羽が引き渡すと、劉邦と家族たちは抱き合って再会を喜んだ。
それを眺める項羽に、虞美人が寄り添う。
「良いですね、家族というものは。
私たちも、落ち着いた日々を過ごせばああなれるでしょうか?」
虞美人は微笑ましそうに、劉邦の子供たちが久しぶりに会う母にしがみつくところを見ている。その姿に、項羽も思わず体が温かくなった。
(そうか、家族……子供か。
なるほど、心許せて頼りになる味方がいないなら、作ればいいのだ!やはり血の絆は何よりも濃い、子ならば決して俺を裏切るまい!)
そう思うとつい虞美人を見つめる目に熱が入り、手が虞美人の方に伸びてしまう。
それを見て、劉邦がニヤリと笑って冷やかした。
「ヒューヒュー、若いねお二人さん!
そうだぜ、激しくヤるのはそっちだけでいいんだよ。男として振るうのは人を傷つける矛なんかより、気持ちよくさせる股間の……いってぇ!」
劉邦の下品な冷やかしは、妻にきつく足を踏まれて止まった。
「おいおい、ひでえな呂稚……妬いてんのか?
今日はおまえも可愛がってやるから」
劉邦は少し年を取った妻と二人の子供ににらまれて、バツが悪そうにしている。こうして見ると、本当にどこにでもいるちょっと頼りない親父に見えた。
劉邦はほがらかに笑い、項羽に声をかけた。
「な、家族っていいもんだぜ。
今ここにいる家族だけじゃねえ……子々孫々が安心して生きられる世の中を、俺らは作らにゃならんのだよ。
俺らのだけじゃなくて、天下みんなのさ……。
せっかく平和にしたんだから、ちったぁ民のことも考えてやってくれよ」
その言葉が、ようやく項羽の胸に痛みを呼び覚ました。
世を救うためと信じて、裏切りをなくすために生き埋めにした多くの民……その周りでどれだけの家族が泣いていただろうか。
戦で逃げようとするのを見て殺したり、強引に敵に突っ込ませて犬死させた兵士……故郷でどれだけの家族が帰りを待っていたのだろうか。
切迫した状況がなくなって、心に余裕ができて、自分も新しい家族を作ることを考えて、初めて思い至った。
自分のしてきたことは、本当に救世主のやることだったのかと。
だが項羽は、深く考えたくなくて強引に思考を打ち切った。
(……乱世でのことだ、仕方ない。
平和な世をしばらく治めれば、民たちも俺の優しさに気づこう)
顔を上げれば、劉邦はさっそく宴席の準備をしている。
そうだ、派手に祝って気分を直そう。戦はもう終わったのだ、もう考えなくていいのだ。もう、どうしようもない日々は終わったのだ。
いつかの秦を打つ前のように、劉邦が酒を注いでくれる。
欲望から生まれたおぞましい病毒がまかれた世界で、自分こそが救世主だと殺し合い、それでもまだお互い生きている。
天下は一つではなくなったけれど、まだ変わらず存続している。
自分が唯一の救世主でなくても、最悪ではないなと項羽は思った。いや、こんな半端な状況はいつか終わらせる。そのための一時の平和なのだ。
これで終わったと思うなよと己への言い訳のように心の中で呟いて、両軍の宴の夜は更けていった。
以前ニコ動で『虞美人一輪』を歌った時から考えていたゾンビ的覇王別姫の方向がようやく固まりました。
あと少しですが、どうか最後までお付き合いくだされ~!




