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続、落ちていく項羽。
そして劉邦軍の方も、ついに北にいるあの人に暴走の兆しが見え始めます。
心強い味方だと思っていても、コントロールできなくなるとそれが厄介となって跳ね返ってくるのはお約束。生物兵器でも、人でも同じです。
さらに、しばらくご無沙汰だった感染関係も良くない知らせが……。
今や二人が望むことは……。
項羽はもう、ゆっくり休むどころか冷静に物事を考える暇もなかった。
項羽がどんなに殺意をたぎらせて突撃しても、劉邦も彭越もひらりひらりと逃げてしまう。いくら怒りを爆発させて戦っても、一向に成果が上がらない。
劉邦と戦っていると彭越に糧道を断たれ、彭越を追いかけ回していると劉邦が西の戦線を押し返してくる。
いくら駆けても矛を振るっても、埒が明かない。
その晴らせぬうっぷんはともすれば味方に向かい、将兵たちの心は項羽から離れていく。逃亡や脱走が増え、将たちもひたすら項羽の機嫌を伺って保身ばかり考えるようになった。
それに気づくと、項羽はますます焦った。
何が何でも早く戦を終わらせようと、次第に手段を選ばなくなってきた。
ある時、項羽は性懲りもなく城に籠る劉邦に呼びかけた。
「おい、さっさと降伏しろ!
でないと、貴様の親父を切り刻んで釜茹でにしてやるぞ!!」
業を煮やした項羽は、ついに捕らえてあった劉邦の家族を使って脅しに出た。このためだけに特別にこしらえさせた、大きなまな板に劉邦の父親を乗せて、両軍によく見えるようにしてである。
だが、劉邦はあっさりと言い返した。
「ああ、俺は構わんぜ。
そう言や秦を討つ時、俺とおまえは楚王様の前で兄弟同然に助け合うって約束したな。じゃ、俺の親父はおまえの親父みたいなもんだ。
それを釜茹でにするってんだから……まあ止めはせんが。
汁物を作ったら、一杯くらい分けてくれよ」
まったく気にしていないような、不敵な物言いである。
劉邦は子嬰や周りの軍師たちが見込んだように、自分が何よりもかわいい男だ。たとえ家族であろうとも、人質は通じない。
何を捨てても自分が生きてついでに世界を救う、それだけだ。
その反応に、項羽は一気に頭に血が上って叫んだ。
「そうか、ならその通りにしてやろう!!
皆の者、よーく見ておけ!この親父は息子の薄情によって死ぬのだ!劉邦が肉親すら見殺しにする様を、目に焼き付けるがいい!!」
項羽はぎらりと大刀を振り上げ、劉邦の父親を斬ろうとした。
が、それを止めに入る者がある。
「や、やめるのだ項羽!!」
二人の間に割って入ったのは、項羽の叔父の項伯だ。
鬼のような顔で息を荒げる項羽に怯えながらも、項伯は必死で言う。
「こんな所でこいつを殺しても、何の得にもならんぞ。劉邦は家族のことなど眼中にないのだ、むしろ殺されてもそれを利用するだけだ。
逆に、おまえの凶行を喧伝されて厄介なことになる。おまえが気分一つで人質を殺すと天下に広まったら、今人質を預けている他の者がことごとく従わなくなるぞ!」
それから項伯は、ひどく不安そうに周りを見回した。
「こんな事は、まっとうな人間のやる事ではない。
おまえは気づかぬのか……周りの兵士たちが皆、おまえに恐怖していることに!」
そう言われて、項羽ははたと気づいた。
見ている将兵たちはほとんどが青ざめ、震え上がり顔を覆っている者もいる。敵だけではない、味方も同じだ。
これまで保護されていた人質の扱いに衝撃を受け、項羽を化け物を見るような目で見ている。
「なあ項羽……おまえはこれまで弱き者に優しく、正々堂々とやってきたではないか。
なのにこのような事をしては、そうではないと自ら叫ぶようなものだぞ。皆がおまえを信じられなくなり、おまえが人望を失うだけだ」
全方位から注がれる異様な視線の中、項羽は矛を収めざるを得なかった。
しかし、やろうとして見せてしまったことは取り消せない。項羽の本性は人を人と思わぬ暴虐だと、悪評が中華全土を駆け巡った。
人質作戦が失敗した項羽は、今度はとことん正々堂々とやろうとした。自ら馬にまたがって一人軍勢を飛び出すと、雷のような声で劉邦に呼びかけた。
「ここ数年、我ら両人の争いのせいで天下万民が苦しんでおる。お互い天下を安んじたいのに、全く逆のことになっておるではないか!
こんなことを終わらせるために、俺とおまえの一騎打ちだ!!」
これならどちらに転んでもまずいことにはなるまい、と項羽は思った。
劉邦が出てくれば自慢の武で討ち取ってやるし、出てこなければ劉邦は臆病者だ。これなら自分に傷などつかない、と。
しかし劉邦は、哀れむような目で項羽を見下ろして諭すように言った。
「俺は知恵では戦うが、力ではやらんぜ。
考えてもみろ、天下を治めるのに必要なのは力より知恵だろ。力が強いだけじゃ、目の前のものを壊すことしかできねえ。
おまえは、自分がそういう人間だって天下に知らしめてえんだな?」
見事な返しである。
そもそも劉邦は自分が武で項羽に敵わないと分かっているから、いつも不利になると迷わず逃げ出すのだ。
その劉邦を一騎打ちに引きずり出せると考えるのがまず間違いだ。
敵も味方もそのことはとっくに分かっていて、何とも言えない生温かい目で項羽を見ている。皆が、項羽の頭の悪さに呆れていた。
しかしどこまでも自分の都合で物事を考える項羽は、それが分からない。
何としても劉邦を挑発しようと屈強な者を前に出して一騎打ちの勝負に持ち込もうとしたが、劉邦軍は一騎打ちに見せかけて弓の得意な者を出して次々と射殺してしまった。
結局この作戦も、項羽が頭の悪さを晒して屈強な兵を無駄に失うだけに終わった。
「おーおー、項羽の奴本当に頭が煮えてきてんな!
こりゃ破綻するのも時間の問題かねえ」
閉じこもった城の中で、劉邦は上機嫌だった。
同じ籠城でも、もう以前のような悲壮感はない。だって今はしばらく大人しく待てば、項羽が食糧を切らして退くと分かっているからだ。
劉邦軍は決死の覚悟で抵抗しなくても、時が過ぎるのを待つだけで勝てるようになってきた。これは大きな変化だ。
その楽さに、劉邦は積極的に動かなくていいんじゃないかとさえ思い始めた。
しかし、北の情勢がそうでもないことを知らせてくる。
「韓信が、斉をさんざんに打ち破りました!」
その報告に、劉邦は目を丸くした。
「ええ……ちょっと待て、斉とは俺が出した使者との間で和睦が成ったんだよな!?なのに、何で韓信が戦ってんだよ……?」
斉のことは、劉邦が出した使者から和睦に応じて傘下に入ったと報告がきていた。斉王もこれで滅びずに済むと歓迎し、祝いの宴にふけっていると。
だというのに、韓信は一体何をやっているのか。まさか和睦を知らない訳でもあるまい。
伝令によると、韓信は斉王たちが祝いの宴にふけっているところに突っ込み、油断しているところをことごとく打ち破って制圧したという。
結果、騙し討ちの形で斉の有力者たちをほぼ一掃することができた。これから劉邦が新しい体制を作るには、良かったかもしれない。
だが、劉邦が出した使者は煮殺されてしまった。
斉の民の印象も、良くないに違いない。劉邦にそんなつもりはなかったのに。
驚く劉邦に、張良が憂いを帯びた顔でささやく。
「だから言ったでしょう、このままではまずいと!
韓信は元々、功名心の強い男……今回も自分の手柄が欲しくて殿の作戦をぶち壊したのです。
韓信は自分を取り立ててもらえず評価されなかったことで、項王の下を去り、一時は殿の下からも逃げようとしました。
要は、評価と手柄にとことん貪欲なのです!
放っておけば、どこまでも上を目指して止まりませんぞ!」
張良の言葉に、劉邦は青くなってうなずくしかなかった。
劉邦はこれまで韓信のことを、固い信頼で結ばれた絶対の味方だと思っていた。だが今回の件で、そうではないと分かった。
韓信はどんどんと力をつけ、劉邦の下から外れようとしている。
劉邦が韓信を満足させるだけの評価と恩賞を与えられる間はいい。しかし、もしそれができなくなる時が来たら……。
「そ、そんな……どうすりゃいいんだよ!?」
泣きつく劉邦に、陳平は難しい顔で答える。
「うーん、とりあえずはほめて気前よく恩賞を与えるしかないでしょ。今不満を持たれて反抗されたら、それこそ目も当てらんない。
韓信をどうにかするのは、項王がどうにかなってからね。
幸い、まだ殿の評価をほしがってるなら何とかなるでしょ」
時が経ってどんどん崩れていく項羽を笑っているうちに、劉邦軍の方の変化も取り返しがつかない限界が見えて来てしまった。
その限界を迎えずに済む方法は、早く項羽との戦を終わらせることのみだった。
さらに悪い報告が、斉からもたらされる。
元研究員たちが斉で感染調査を行ったところ、斉から始皇帝の後宮に連れて行かれた女たちの産婆が感染していたというのだ。
幸いもう老婆なのでこれ以上感染を広げる恐れは少ないが、ついに感染したまま故郷に帰った者が発見されてしまった。
<このような者が、たった一人とは考えぬ方がいいでしょう。
今回はもう男と交わらぬし子も生まぬ老婆でしたが、もし若者にこういう者がいれば感染は竹が地下を這うがごとく広がります。
どうか、早く全土の調査を行えますよう……>
斉から、石生の警告ともとれる報告書が届いた。
劉邦たちは、ぞっとした。
最近は項羽や韓信のことばかり気にしていて忘れかけていたが、人食いの病による危機はまだ終わっていない。
これこそ、早く手を打たねば手遅れになるかもしれない。
人の勢力図と違い、こちらは手遅れすなわち世界の終わりだ。
「ああああダメだ、やっぱ病毒は漏れてたんじゃねえか!
こりゃ一大事だ、早く項羽にも知らせろ!
にしても……項羽が倒れるか認めてくれねえとあっちの検査が進まねえよ。頼むから、早く戦が終わってくれ~!!」
劉邦は、地団駄を踏んで叫んだ。
早く戦を終わらせたい、時と共に悪化していく状況を何とかしたい。もう自分の望まぬ方に転がる世を眺めているのはたくさんだ。
項羽と劉邦両者の胸に、その思いは募るばかりだった。




