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時を経て、確実に崩れていく項羽と力をつける劉邦。
しかし、二人以上に力をつけている、一応劉邦軍の強すぎるあの人の存在が……別動隊が誰で何をしていたか覚えていますか?
屍記もだいぶ終わりが見えて来て、「ゾンビ百人一首」を超えられるかなと思っていたら、「ゾンビ百人一首」の総合評価が400を超えていたという。
ありがとうございます!
ここから屍記のクライマックスと完結でどこまで上げられるか……。
項羽と劉邦の戦いは、それからもしばらく決着がつかなかった。
しかし、変化は確実にあった。
項羽軍が、自分から動くのではなく周囲の状況に引きずり回されるようになったのである。項羽が劉邦と戦い続けたくても、思い通りにならないことが増えた。
「何ぃ、また補給が滞っているだと!?
ええい、輸送隊は何をやっている!!」
項羽の陣には、前にもまして項羽の怒声が響くようになった。
原因は主に、劉邦と戦っていてもいい所で食糧が切れて撤退する破目になることだ。滎陽の戦い以来、項羽軍の補給は明らかに不安定になっていた。
「今まではやれていたのに、なぜできぬ!?
食料を運ぶなど、誰でもできることではないか!!」
そう言っていくら責任者を叱っても、責任者を次々変えてもうまくいかない。
楚の地は豊かで運ぶことさえできれば食糧には事欠かないはずなのに、無事にここまで運べることが明らかに少なくなっている。
もっとも、直接の原因は以前から項羽軍の後方で食糧を盗み続けている彭越のせいなのだが……以前はここまでの被害は出ていなかった。
最近になって、急にやられっ放しになったのだ。
項羽には、その原因がさっぱり分からなかった。
いや、思い当たる節はあるのだが……認めることができなかった。
だが、現場の兵士たちからは愚痴が聞こえてくる。
「范増様が指揮していらっしゃった頃は、こんな事はなかったのに……」
そう、范増だ。これまで項羽軍の補給や後方の体制を整えるのは、全て范増が一手に引き受けてやっていた。
范増はその卓越した頭脳で各地の情報を分析し、彭越の動きを読み、その時に合わせた道を選び時には補給路を分散させて途切れないようにやってきた。
それが、目の前のことしか見えない平凡な人間にはできないのだ。
しかし項羽には、それが分からなかった。
戦の勝敗を決するのは最前線の武勇、自分はこれまでも己の武勇でどんな敵でも蹴散らしてきた。
これまで勝てたのは自分と楚の兵が強いからで、それ以外の要素などあって当たり前だと思っている。
その当たり前がなくなったのは、責任者が無能だからだ。
項羽は苛立ち、食糧の責任者に容赦なく罰を与えて次々と変えた。
もちろんんそんなことをしても、解決できるはずがない。
そのうち項羽軍の中で、補給係は誰もが嫌がる役職になってしまった。なるのは項羽を崇拝する脳筋か、誰かに押し付けられた不幸な者のみになった。
こんなんで、まともに仕事ができるはずがない。
後方の項羽軍が弱体化したことで彭越はますます勢いづいて、しまいには後方の城まで落とすようになってきた。
事ここに至って、さすがの項羽も引き返さざるを得なかった。
「くそっこのまま戦い続ければ劉邦を討ち取れるのに……なぜこうなる!?
亜父も、天下の大勢は決したと言ってくれたのに!
これでは、いつまでも亜父の魂を安らげてやれぬではないか!」
項羽は、悔しそうにそう言って側に置いてある箱を見た。
これは、范増が死後に項羽に送ってきたものだ。それには、どうにもならなくなったら開けよという手紙がついていた。
罠なのか本気なのか項羽には判断がつかなかったが、それ以上に気分的な問題で開けたくなかった。
だって、もしこれを開けたら、結局自分は范増なしで勝てないことになってしまう。
項羽の高すぎる自尊心は、それを頑なに拒んでいる。
それに、もしこの中に入っているものが本当に自分を救うものだったら、項羽はそこまで忠実な臣下を一方的に切り捨てたうえ遺産にかじりついたようになってしまう。
項羽は、自分をそこまで浅ましい存在に落としたくなかった。
自分はあくまで自分だけで勝てるから范増に暇を与えたと……そういうことにしておきたかった。
だから項羽は、范増の残したものを使うどころか見ることもできなかった。
(……大丈夫だ、亜父も言っていたではないか……天下の大勢は決したと!
俺はきちんと、俺の力で天下を取ってみせる。俺にはできる力がある。亜父がいなくても、できるはずなのだ!
とにかく、一つ一つ確実に潰していくしかない)
項羽はそう自分に言い聞かせ、軋み始めた軍を引きずって転戦するしかなかった。
劉邦は、項羽が後方を抑えられなくなっていると聞いて手を叩いて喜んだ。
「いやぁ、良かった良かった!
これで一息つけるぜ。あの野郎、本当に力での戦じゃ化け物みたいに強いからな……これでしばらく逃げ回らずに立て直せるぜ」
「本当、私もしばらくは殿の心配で胸を潰されなくて良くなります」
張良が、隣でチクリとぼやく。
滎陽の戦いの後も、劉邦は何度も危機に陥って逃げ出していた。ある時など、性懲りもなく御者と二人きりになって、韓信のいる趙まで逃げていったほどだ。
そのたびに張良たちは、行方不明の劉邦の安否に気を揉んでいた。
もっとも、もはや逃走の天才と言えるほどのしぶとさと腰の軽さを誇る劉邦が敵に捕まることは決してなかったが。
劉邦は、話を逸らすように若干目を泳がせて言う。
「でも、前よりは確実にやりやすくなってきてるだろ。
韓信は北でよくやってくれてるし、おかげで請求すれば兵を送ってもらえるようになったし……時間稼ぐだけでも有利になってるぜ」
それには、張良もうなずいた。
「ああ、韓信は本当によくやってくれていますね。
この調子なら、遠からず項羽に北から圧力をかけられるようになるでしょう」
しかし、張良の目は笑っていなかった。
韓信が北で勝ち続けているのは、劉邦にとっていいことだ。韓信は趙を平定し、そのまま勝ち続けて斉まで平らげようとしている。
おかげで劉邦が人と物を集められる地域は、ぐっと広くなった。
このまま北と西から項羽を攻められるようになれば、戦はぐっと楽になる。
おまけに、韓信が平定した地域にも劉邦軍の調査と感染対策を広げられた。世界の中で、安全な地域が広がった。
だが、それでも張良の表情は浮かなかった。
「韓信が、ずっと従い続けていてくれればね……」
ぼそりと漏れたその声には、かすかに恐れがにじんでいた。
「何だよ?韓信は忠実だぜ、そんなことは……」
劉邦は首を傾げるが、張良の唇は引き結ばれたままだった。
確かに別れてからこれまで、韓信が劉邦に逆らったことはない。むしろ、劉邦が無茶をやっても温かく助けてくれている。
劉邦は御者と二人で韓信の下へ逃げた時、韓信が寝ている間に韓信の兵を奪って自分のものにしてしまったことがある。
それでも、韓信は仕方ないと許してくれた。
自分は征服地から新たに兵を募って戦い続け、そのうえ訓練した兵を時々劉邦の下へ送ってくれるようになった。
劉邦にとって、そんな韓信の存在は心強い事この上なかった。
もっとも劉邦とて、韓信に依存しようとは思っていない。
少しでも自分の手で天下統一を早められるよう、韓信が斉を攻める前に斉王を説得して降伏させるべく使者を出している。
「韓信はなあ……今の俺にゃ必要不可欠なんだよ。
それに韓信だって、俺の恩を仇で返すこたぁねえだろ?
それよりも、今は項羽との戦線を何とか押し返さねえと」
「はいはい……今は、ね」
劉邦は信じ切っているが、張良は不安を覚え始めていた。
劉邦軍の本隊は何年も項羽軍と対峙しながら、負けてばかりで戦線を動かせていない。その間に、韓信の征服地ばかりが広がっていく。
もし、今韓信に変な気を起こされたら……。
張良は、ひたひたと潮が満ちるような不安と共に思った。
(時が経てば経つほど、項羽は不利になる。しかしそれで必ずしも我々だけが有利になる訳ではない。
このまま時が経つのを待てば、韓信の力ばかり強くなっていく。
だが韓信は、世界の本当の危機を知らない。そういう者の独立勢力ができてしまっては、非常に困るのですよ)
ぐっと拳を握りしめる張良の前で、劉邦が哀れむように言った。
「そう言や、項羽の方は范増がいねえから、もう人食いの病の研究は続けられねえんだよな。
つーか、范増なしで感染対策とか大丈夫かねえ?何かもうあいつのことだから、怪しいと思ったらすぐ皆殺しにするとこしか思い浮かばんのだが」
これには、張良も苦笑して素直にうなずいた。
「でしょうね。
それ以外にどうしていいか分からず、己を支える民を殺しまくって人望を失うことでしょう。時が経てば経つほどに、ね。
殺される民には気の毒ですが、ここにいる我々にはどうしようもありません。
項羽のせいなのですから、せいぜい利用させてもらうとしましょう」
時が流れるほどに起こる変化は、劉邦のみを利するとは限らない。それでも項羽を倒せない劉邦は、まだしばらくその変化を眺めているしかなかった。
その時の流れによる変化には、項羽も薄々気づいていた。
范増を失ったその時は、項羽が天下の中で圧倒的に抜きんでていた。しかし今や北や後方の状況が、そうでなくなりつつある。
項羽は焦り、少しでも早く戦を終わらせるべく大地を駆けずり回った。
(早く、早く劉邦と彭越を討たねば!
食料が尽きぬうちに!韓信が北を平定してしまう前に!
それに、ああ……亜父が作ろうとしていた治療薬はもう望めぬ。だが俺は何としても、俺の力で世界を守らねば!!)
早く早くと己の気がはやるままに、補給もろくに考えず疲れた味方に鞭打って引きずり回し、感染対策への不安から少しでも怪しい病人や敵に降った民を虐殺し……。
それが時の流れ以上に自分を追い詰めていることに、項羽は思い至らなかった。




