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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十六章 無念、老軍師
231/255

(230)

 范増、終わる。これが全て。


 范増は忠実だけど、一人で学問ばっかりして生きてきたせいで他人の感情があまり分からないのだと思う。冷徹で、効率的で、自分の信じる学問だけで判断して。

 そんな范増は、味方の中にすら敵を作っていたことに気づけなかった。

 今日も研究に打ち込んでいた范増の下に、いきなりどかどかと兵士たちが踏み込んできた。范増が事態を認識する前に、力任せに范増を掴んで引きずるように歩かせる。

「おい、何事じゃ!?

 儂がどんな大事なことをしておるか、項羽に聞いておらんのか!」

 頼みにしている偉大なる王の名を出すも、兵士たちは憎しみの詰まった目で范増をにらみつけて口々に呟く。

「フン、その項王様を裏切っておいてよく言うぜ!」

「この期に及んでまだ演技か、老獪な化けだぬきめ!」

 いきなり身に覚えのないことを言われて、范増は驚愕した。

 いつの間にこんな話になっていたのか。周りの兵士たちの様子を見るに、もうすっかりそのでたらめを信じ込んでいる。

 その中には、いつも范増の警護をしている選り抜きの忠実な兵士たちもいた。そいつらさえも、恨みがましい目で范増をにらみつけて呟く。

「ああ……これでようやく、同朋が無意味に殺される日々が終わる」

「こいつさえいなくなれば、項王様は元の部下思いに戻られるはずだ!」

「項王様もようやく、目を覚まされたらしい。

 こんな人道にもとるやり方を認めさせて成果を敵に売るなんて、ふてえ野郎だ!俺たち楚軍の誇りを汚しやがって!」

 それを聞いて、ようやく范増は己の失策を悟った。

(そうか、実験で味方の元気な者を殺したのがまずかったか!

 ……とはいえここの警護を信用できぬ者には任せられぬし、項羽がしっかり従わせていれば大丈夫だと思ったが。

 いかに反感を持たれようと、真相を知らせる訳にはいかぬしのう)

 確かに何も知らない兵士の身になってみれば、戦ってもいないのに元気な味方が死ぬのは怪しくて悲しくてたまらないだろう。

 だが范増は成果を急ぎ研究に没頭するあまり、そんな当たり前の感情を無視していたのだ。

 いや、意図して無視したのではなく、范増がこれまで他人に無頓着に一人で生きてきたため想定していなかったというべきか。

 自分が何かをすることでそれが他者にどう見られるか、それを考えられなかった結果がこれだ。

 范増は歯噛みしたが、所詮下々の騒ぎだと思い直した。

(この様子だと、項羽は方々からこう言われて情に流されたか。

 だが覇王たるもの、小人共の情に抗っても大義を為すのが役目だとしっかり言い聞かせたはず。あやつもそれこそ英雄だと乗り気だったではないか。

 何より、我らには世界を守るという一番大切な役目がある。

 それを分からぬ項羽ではあるまい)

 下々がいかに騒ごうと、項羽が一喝すればすぐ静かになるだろう。自分の役目は、こんなものに動揺してしまった項羽の心を引き締めることだ。

 范増は、まだそれができると信じて項羽の下へ連行されていった。


「項羽よ、これは一体どういう……!?」

 項羽のいる幕舎に入った途端、范増は体が押し潰されるような圧を感じた。

 見れば、項羽は地獄の悪鬼のような形相でこちらを見ている。額には山脈のような筋が立ち、顔は怒りのあまり赤黒く染まっている。

 それを目にした瞬間、范増の頭の中に警鐘が鳴った。

(いかん、ここまで情に来るっておるか!

 これに話を聞かせるのは骨じゃぞ。

 しかし……儂は何も間違ったことをしておらん。何もやましいことはない。謂れなき悪評になど、負ける道理はないわい!)

 范増はそう思い直して、ピンと背筋を伸ばし胸を張った。

 だがその様子を見た項羽は、口元を憎らしそうに歪めてぴくぴくさせた。

「ジジイ……やはり、俺に従う気などさらさらないようだな。前々から臣下のくせに生意気だと思っていたところだ!」

 その言葉に、范増は面食らった。

 范増の態度はこれまでと何ら変わらないのに、こいつは一体何を言っているのか。

 生意気と言われたって、項羽が父に次ぐ者(亜父)と慕ってくれたから年長者として導いてやっていたのではないか。

 范増もつい、カッと頭の中が熱くなった。

「おまえこそ、父と慕うと言っておいてその言いがかりは何じゃ!

 儂はおまえが例を尽くしたからこそ、導いて……」

 しかしその言葉を遮って項羽が側にあった机を乱暴に叩いた。

「黙れ、貴様などもう父でも何でもないわ!!

 裏切り者め!!」

 項羽の雷のような声に、范増は耳が破れそうになって頭がくらくらした。項羽のこんなところは何度も見たが、自分に向けられたのは初めてだ。

「ま、待て!儂はおまえを裏切ってなど……」

 さすがに身の危険を感じた范増が弁明しようとするも、項羽は聞く耳持たず一方的に罪状を並べ立てる。

「知っているぞ……貴様が俺を裏切り劉邦にすり寄っていることは!

 俺の側で研究をして俺の兵を死なせ戦力を削ぎ、それで得られた成果を持って劉邦に降る算段だそうだな。

 劉邦には不老不死を、そして俺には変異体を使って死を。

 とんでもない計画だ!まんまとしてやられたわ!!」

 それを聞いて、范増はピンときた。

 これはおそらく、劉邦軍の策略だ。劉邦軍が兵士たちの不安に付け込み、自分と項羽の仲を割こうと仕組んだのだ。

「ち、違う!それは劉邦軍の罠じゃ!!

 おまえは敵にまんまと騙されて……」

「黙れ老いぼれが!!証拠ならあるわ!

 俺が劉邦軍に送った使者の身に、これこれこういうことがあったというぞ」

 項羽は、自分の信頼する使者の身に起こったことを語った。


 使者が滎陽城に行くと、王に供するような豪勢な食事が出されそれはもう素晴らしいもてなしを受けた。

 劉邦や側近たちが親し気におべっかを使い、范増の計画はどうなったのかと聞いてくる。素直な使者は思わず、自分は范増ではなく項羽の使者だと告げた。

 すると、劉邦軍の態度が一変した。

 皆ひどく失望した顔になり、豪華な膳はすぐに下げられ質素な膳が出てきた。劉邦の態度はぞんざいになり、話も聞いてもらえなかった。

 その変わりように不安になって使者が滎陽城を探ったところ……范増の裏切りを示す手紙が置いてあったというのだ。


 范増は、ポカンとしてその話を聞いていた。

 これは完全に、劉邦軍の工作だ。しかも大根役者も真っ青の、あからさますぎる演技だ。項羽は、こんなものを信じてしまったのか。

 本当に内通しているならバレないようにこんなあからさまなことはしないし、内通の手紙をすぐ見つかる所に置いておく訳がない。

 だが激情に飲まれた項羽は、もうそんなことも分からない。

「使者にした奴は、決して嘘のつけん素直な奴だ。そいつが涙ながらに語ったのだから、本当にあったに違いない!

 この事実を否定などさせんぞ!!」

 項羽は范増を黒と決めつけるあまり、使者の言う事実と真実を混同していた。

 使者が実際にそういうことを体験しても、それが劉邦軍の本心とは限らないのに。何事も素直に受け取る項羽には、それが分からない。

「ええい、ならば儂も言わせてもらうぞ!

 儂に二心などない!内通などしておらぬ!これが天地神明に誓った真実じゃ!!」

 范増も負けじと正面突破を図るが、項羽はもう范増の言うことを認めない。どこまでも不毛な水掛け論になってしまう。

 そこに、項伯が水を差した。

「そのように言い争ってもキリがない。

 ここは別方面から、専門家にも意見を聞こうではないか」

 その言葉とともに、ついたての後ろから何者かが出てくる。見れば、それは今休んでいるはずの研究員だった。

 項伯は、淡々と研究員に問う。

「さて、凶暴な変異体を用いて項羽を倒そうという計画について……どう思う?」

 その瞬間、范増の背筋に凍り付くような悪寒が走った。

 だが、今ここで研究員の発言を止めることなどできやしない。それこそ怪しまれるだけだ。

 研究員は、ひどく心配そうに言った。

「可能であると、考えます。范増様は強い変異体を作る方向に研究を進めておりますので、いずれ項王様を超える強さの化け物ができてもおかしくありません。

 そして、事故に見せかけてそれを真っ先に項王様に当てられます。

 事が済んだ後は兵糧攻めにすれば変異体はすぐ死ぬし、感染者が出たとしても范増様は対処法を知っています。

 実験にかこつけて項王様子飼いの部下を減らせることも含めて、よくできたやり方です」

 研究員はただ、事実に基づく意見を述べたにすぎない。

 だがそれは、項羽のほぼ確信となった疑念をさらに後押しするものだ。

 そう言えば、この研究員たちは元々研究を続けるのに反対していた。それを范増が脅して手伝わせたせいで、さらに恨みと屈辱を溜め込んでいたのだ。

「ううむ、私には難しいことは分からんが……。

 范増の研究のせいで死ななくて良かったはずの兵が死んだのは事実。項羽よ、おまえはこんなことをしていて、子弟を貸してくれた江東の父兄たちにどんな顔を合わせるのだ?」

 項伯も、さらに別方面から項羽の情に訴える。

 そう言えば項伯も、危険だとか味方を犠牲にしたくないとかで研究を渋っていた。身内の自分の意見を蹴られて、さぞ悔しかったに違いない。

 こいつらは、元から味方の中で范増の研究を止める機会を狙っていたのだ。

 范増はようやくそれに気づいたが、もう遅い。

 もうここに、范増の味方は誰もいない。この場はただ范増を裏切り者として断罪するためだけの、魔女裁判の火刑法廷と化していた。


「あ、あ……!!」

 范増の目から涙があふれ、体から力が抜けた。

 項羽はもう、自分を信じてくれない。何を言っても無駄だし、何もさせてもらえない。自分がいくら誠実にしても、通じない。

 自分と項羽は、真の君臣の絆でつながっていると思ったのに。

 自分は心の底から項羽のことを思い、老体に鞭打って尽くしてきたのに。

 ありもしないことを項羽が信じて、何もかもなかったことにされた。それどころか、あんなに捧げてきたことが反転してしまった。

 圧倒的な虚無と絶望が、范増を襲った。

 もう、自分がここにいる意味はない。

 だがせめて無様に処刑はされまいと、范増は最後の気力を振り絞って別れを告げる。

「それでは、儂の役目はもう終わりじゃな。

 もはや天下の形勢は定まった。後は、おまえだけの力でやるがよい。用無しの老人は、故郷に帰って隠居するとしましょう」

 そう言って軽く下げた范増の頭を、項羽がむんずと掴んだ。

「主に暇乞いをするなら、もっと深く頭を下げんか!!」

 項羽はその圧倒的な腕力で、ぐんぐんと范増の頭を下げていく。背中が折れそうに痛む范増は必死で抵抗して許しを請うが、項羽は残虐に笑うばかりだ。

「ぐっ……や、やめてくれ!儂は、背中が痛んで……ぎゃあああ!!!」

「フン、今さら言い訳は通じぬ!

 いくら抵抗したとて、裏切り者にかける情けなどないわ!!」

 范増が地面に突っ伏して動かなくなると、項羽は范増を故郷まで送りそのまま見張るよう部下に指示を出した。

 引きずり出された范増を見て追放されたと聞くと、兵士たちから歓声が上がる。

 その万歳の声を聞きながら、項羽はこれで可愛い部下たちを守れたと満足し、必ず自分はいい方向に向かうと信じていた。

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