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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十六章 無念、老軍師
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(229)

 いよいよ、范増に対する不穏な噂が真実っぽい熱を帯びてきます。

 そして、范増の研究でもやっぱりじこはおこるさ。項羽がいれば被害はそんなに出ないが、ゼロという訳にはいかず……理由を知らされない兵士たちの不安は募ります。

 その心の隙間に、陳平の卑怯極まりない策が滑り込んで……。


 どんなに大事な理由があっても、理由を隠すということはどんな噂を立てられても否定できなくなるということです。

 そして項羽は、身内への情に極めて弱かった。

 范増の研究は、着実に進んでいた。凶暴な変異体ができる確率は上がり、より強い変異体ができるようになった。

 しかし、いいことばかりではない。

 ある日、ついに事故が起こってしまった。

 変異体が拘束を断ち切り、暴れ出したのだ。范増は強力な拘束具を作らせて備えていたが、どれだけ長い間生かせるかと実験しているうちに時間をかけて壊されてしまったのだ。

「うわぁ、何だこいつは!?」

「は、范増様を守れ!早く、項王様にお知らせしろ!!」

 幸い、項羽がすぐかけつけてきて変異体を倒すことができた。項羽は事故が起きたら自分が責任を持って対処できるよう、自分の近くで実験をやらせていたのだ。

 しかし、一般の兵士たちに犠牲は出た。

 元から何も知らされず、ただ范増を守るためにいる兵士たち。暴れているのが何だか分からなくても、任務を果たすため立ち向かった。

 結果、十人ほどが死に十数人が大けがを負った。

 その死傷者についても、どうして死んだか本当のところを知らされることはない。ただ家族への慰問金が手配され、無残な死体の入った柩が並んだ。

 項羽は自分に忠義を尽くして死んだ者に礼を尽くし、自ら喪主となって簡単な葬儀を執り行った。

 項羽の周りで、死んだ兵士の親戚や友が涙を流している。

 わんわんと嘆き悲しむ声が、項羽の心を揺さぶる。

 自らもつられて涙をこらえる項羽に、一人の兵士がすがりついた。

「項王様、この者たちは……私の兄たちは、一体何のために死んだのですか!?

 こんな敵も来ない陣中で、どうやったらこんな風に死ぬのですか!?」

 項羽は、答えられなかった。

 今ここにいる者たちは、項羽が叔父項梁と共に旗揚げした時からついてきた忠義に厚い江東の子弟たち。

 本当ならば、真実を明かして悲しみを分かち合いたい。ここにいる者たちはかけがえのない勇者だったと、知らせてやりたい。

 だが、できないのだ。

 世界の安全のために、いかなる理由があろうと情報を広める訳にはいかない。

 何も言わない項羽に、忠実な兵士たちは一部が裏切られたような怒りを浮かべ、大多数は諦めてさらに悲痛な顔になる。

 その光景に、項羽は苦しくて仕方なかった。

 自分はこんなに忠義を尽くした部下たちを裏切ってしまったのかと自問し、申し訳なさで胸が一杯になってしまった。

 どうしてかわいい部下たちにこんな思いをさせねばならぬのか。ここまでひどいことを部下に強いることが、本当に必要なのか。

 情に心を抉られた項羽に、別の兵士が訴えかける。

「俺は、戦に来たのにこんな風に死にたくはありません!

 敵と矛も交えず、主への忠誠も失い家族のことも忘れてただ暴れて死ぬなんて。こんなの、戦じゃありません!

 項王様はいつも正々堂々と戦っていらっしゃるのに、我々はそんな項王様に憧れお慕い申し上げているのに……こんなものをお認めになるのですか!?」

 項羽は、頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。

 言われてみればその通りだ、自分は部下たちも含めて正々堂々を誇ってきたじゃないか。圧倒的な力と勇気で敵を退けてきたじゃないか。

 なのに、今進めているこの作戦は全く逆だ。

 卑怯で、非人間的で、項羽が本来嫌っているものじゃないか。

 項羽は自分がいつの間にかそれを正しいと思わされていたことに、ぎょっとした。

 戸惑う項羽に、兵士たちが涙を流して言い募る。

「項王様、私たちは心配なのです!これほど堂々として部下思いの項王様が、変わってしまわれるのではないかと!

 どうか項王様は、ご自分をしっかり持ってください!」

「項王様がこんなことをなさるのは、范増様のせいではございませんか?

 差し出がましいようですが、范増様は本当に項王様のためになることをしているのでしょうか?俺には、そうは思えません。

 むしろ、項王様を貶めお力を削ごうとしているような気さえいたします」

 その指摘に、項羽はぎくりとした。

「だってそうではございませんか。

 こんなことが続けば、項王様への忠誠は揺らぐし、項王様が頼みにしていらっしゃる忠義者がどんどん戦う前に死んでいきます。

 これでは、やればやるほど項王様が不利になります!」

 項羽は、頭がぐらぐらするような動揺を覚えた。

 今までそんな風に考えたことはなかったが、言われてみればまさにその通りになっている。

 自分は、これを認めることで自軍の誇りと忠誠を壊していたのか。まさか最近自軍に流れた不穏な噂は、それが原因だったのか。

 いや、噂はただの噂とは限らない。もし范増が本当に自分を貶めようとしているなら、ぴったりとつじつまが合う。

 その疑念を、兵士たちの涙がさらに後押しする。

 この忠烈な兵士たちは、心から自分を思って忠告してくれてるのだ。

(……だとすると、本当に悪いのは范増……か?)

 ついそういう思考に流されかけた項羽の前に、当の范増が現れる。

「変異体により負傷した者たちは、皆安楽死させておいた。もし感染していて、この密集した陣地に広がったら一大事じゃからな。

 だが、おまえのおかげで被害は最小限で済んだ。

 必ず研究を実用できるようにし、報いてやるから安心せい」

 范増はさらりとそう報告し、軽く会釈して去っていった。

 それを見送る項羽の胸に、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。

(また、俺の忠実な子弟たちを殺したのか……しかも検査もせずにだと!?やはりあいつは、俺の兵を殺したいのか……?

 それに、何がおまえのおかげで、だ!貴様がこんな研究をしなければ、そもそもこんな被害はなかったのだぞ!

 これだけ俺の部下に被害を与えておいて、頭の下げ方があんなに浅いとは……)

 勇敢に戦って生き残った者の死の衝撃もあって、項羽はすっかり情にのまれていた。あんなに頼もしかった范増の言動が、何もかも否定的に見える。

 感染の可能性がある者を処分するのは安全のためで、これまでさんざんやってきたのに。

 范増が深く頭を下げなかったのは、背中の痛みで下げるのが辛いからなのに……これは范増が言わないから分かる訳がない。

 項羽は、おいおいと泣き続ける兵士たちに囲まれて范増への疑念を募らせていった。

 だが項羽の信頼に自信を持っている范増は、それに全く気付かないでいた。


 ……と、この流れはもちろん陳平の仕組んだものである。

「んっふっふ、いい感じになってるぅ~!

 普通ありもしない噂を流しても、相手の君主が聞いてくれなくて意味ないことも多いけどぉ……ジジイが自分で火種を作ってくれるなら言うことないねぇ。

 しかも実際に被害が出ちゃってるし、何も知らない兵士たちにニセモノの解答をばらまき放題だよ~ん!」

 陳平は実験や事故による死者について、いかにも真相っぽく見える噂を項羽軍にまいた。

 すなわち、范増が二心を持ち項羽を害そうとしていると。

 これなら項羽は騙されている被害者なので、項羽を慕う忠実な部下たちにもすんなり広まっていく。

 むしろ同胞の死に不安を覚え心から項羽を慕う忠義者ほど、必死になって項羽に訴えることだろう。

 弱い者や部下への情に厚く、流されやすい項羽に。

 うきうきする陳平の下に、伝令が報告を持ってくる。

「ふーん、項羽軍から使者がねえ……人食いの病毒のことを知らない、項羽にクッソ忠実で真面目で素直な子?

 んふっ好都合ねぇ~!

 この機にとどめ刺してやる、覚悟しろやジジイ!!」

 陳平は、満を持して用意しておいたもてなしを使者に行うよう指示した。


 項羽は、悶々とした気持ちで使者の帰りを待っていた。

 人食いの病毒を使わない方法で少しでも早く戦を終わらせるため、捕らえてある劉邦の家族の身柄を使って交渉しようとしたのだ。

 項羽は范増に疑念を抱いたものの、まだ心が揺れていた。

(亜父があんな研究を続けるのも、本当に俺を思ってのことかもしれん。

 長引く戦で将兵たちが疲れているのも事実。それに心を痛めてなら、早く戦を終わらせれば研究をやめさせられる。

 それに、あちらの様子を探って少しでも真相が分かるなら……)

 部下の訴えと怪しい状況があっても、項羽は范増への信頼を捨てられなかった。

 范増が項羽を害そうとしたことは、今まで一度もない。むしろ范増には、今までよく助けられた。それに、敬愛する叔父の項梁がこの男なら大丈夫と選んだ人物だ。

 項羽は、范増を切り捨てたくなかった。

 范増が自分を害している証拠など、見つけたくなかった。

 だから……内心はもう范増が二心を持っている前程で半分くらい考えているが、せめてそれが表に出る前に戦を終わらせようと思った。

 お互い決定的なことを起こさずに戦が終わって負担が減れば、今の研究をする理由がなくなってやり直せるかもしれないと。

 ……確たる証拠もなくそこまで考えてしまっている自分の不信は棚に上げて。

 そんな項羽の下に、滎陽城に行っていた使者が帰ってきた。

 使者は、とてつもなく沈んだ顔をしていた。

「交渉は、成りませんでした」

「そうか……やはりあの血も涙もない卑怯者には通じなかったか。いや、これはおまえのせいではない」

 そう言ってねぎらってやっても、使者の顔色は変わらない。

 使者は不穏な様子で周りの様子を伺うと、いきなり項羽にすがりついた。

「それより項王様、やはり范増様は敵と内通してございます!」

「何っどういうことだ!?」

「劉邦軍で、これこれこういうことが……嘘偽りなく、私めが体験したことです!」

 使者の話を聞いているうちに、項羽の眉間に山脈のような筋が立っていく。溶岩が地表を焼くように、顔が怒りで真っ赤に染まっていく。

 使者の体験は、范増の二心の確たる証拠に見えた。

 項羽は全身をわなわなと震わせ、全てを滅ぼす雷のように叫んだ。

「亜父……いや、范増を引っ立てい!!」

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